其の八 虫の知らせ
「ていうか、その姿なら他の人にも見えるんじゃないの?」
帰りの道で、私は彼に尋ねた。うららかな午後。舗装された道を歩く袴姿は、中々に浮世離れしている。
「いや、そういうわけでもないんだよな。確かに今君には見えてるが、あの子……綾には見えない。幽霊なんかと同じだな。そこにいても、見えないものは見えないんだ」
「そっか、残念。綾に紹介できるかと思ったんだけど」
「ああ。見えるようにする方法もないわけじゃないが、力の消費が多すぎるから今は無理だ。またさっきまでみたいに形を保てなくなりかねん」
残念なのは確かだけれど、目立たないのはありがたい。人に囲まれたりしようものなら、むだに時間をとられてしまうだろうから。
「そう言えば、名前は何て? 錦神社の神様だから、錦さんとか?」
ずっと声の人では他人行儀だし呼びづらい。何か呼称が欲しいところだ。適当に名前を考案するが、何か案があるのか彼は首を振る。
「いや、実は前に仕事で使っていた偽名があってな。そっちの方が馴染みがいい。
なるほど、確かに神様なら仕事をするのにも本名は名乗りづらいだろう。
「あれ、仕事って何?」
「人助けだ。怪異絡みの事件や事故を解決するんだよ。異境探偵宵紅葉ってな。まあ、事情もあって休業中だったんだが……。そのあたりはおいおい、な」
どうやら、こういったことを解決するのは初めてではないらしい。正直な話、不安も大きかったので頼もしいのはありがたい。
「分かった。よろしくね、矢宵」
そう言って、私は右手を差し出す。少しの間の後、矢宵の手が私の手を握った。
「ああ。よろしく、亜紀」
バス停についたのは、行きのバスから降りたときから一時間半ほど後。このぶんなら、あと一時間もせずに綾の家に着くだろう。
「バスの時間まであと少しあるね。あ、そうだ。綾からそろそろ返事来てるかな」
十分ほどまえに送った、帰りの時刻を知らせる連絡。今頃綾はどうしているだろうか、と思いながらチャットツールを開いたのだが。
「あれ? 来てない」
チャットの最後の記録は、私が送った文面で動いていない。沈黙する綾のアイコンとにらめっこをする私の後ろから、矢宵が画面を覗き込む。
「その通信機のことは詳しく知らんが、そんなにすぐ返事が来るものなのか?
「いや、もっと気軽なやつだよ。それに既読がついてないから、そもそも見てすらいないってことだし。変だよね。この状況で携帯を手放すとは思えないけど……」
家を出る前に、綾には携帯に連絡を入れることを伝えてある。十分もあれば、通知に気づいていてもおかしくないと思うのだが。
「まあでも、たまたま見てないってこともあるだろうし。バスから降りる頃には連絡も来てるでしょ」
そう言って、ちょうど到着したバスに乗り込む。自分に言い聞かせるような私の言葉を、ひどく真剣な顔で矢宵が聞いていた。
けれど、二十分後。
「だめ。読まれてもない」
いつまでたっても、メッセージの左肩は空欄のまま。既読の文字がそこに収まる気配はない。
「こうなってくると、ただの確認忘れだとは考えにくいな。通信機に何かあったか、持ち主に何かあったか。場合によってはまずいぞ、これは」
険しい表情のまま、矢宵は顔を上げた。綾の家のある方角へ送る視線には、焦りの色が含まれている。
「そんな。何かって……」
「分からん。だが、急いだ方がよさそうだ。走るぞ!」
そう言って、彼は走り出した。スマホをしまい、慌ててその後ろを追う。握りしめた手のひらは、じっとりと濡れていた。
日の差す住宅街を、一生懸命に走り抜ける。運動に慣れない足では悔しいほどにスピードが出なくて、唇をかみしめて前を行く背中を追う。口の中がからからに乾いているのは、決して運動をしたからだけではあるまい。
バス停から綾の家まで、確実に最速記録を叩き出しただろう。ふらつく体をなんとか支え、なんとか平静を装ってチャイムを鳴らす。
「すみません! 綾は、今家にいますか」
私の気迫に驚いていたらしい彼女の母親は、それでも首を傾げながら教えてくれた。
「いえ、一時間前に出ていったきりで。そういえば、少し急いでたようだけど、待ち合わせでもしてたのかしら」
その言葉に、全身の血の気が引いていくのが分かった。綾が、いない。それは、そのまま彼女が危機におちいっていることを示している。
「分かりました。ありがとうございます」
そう返した自分が、まともな顔をできていたかは分からない。ふらつく体に鞭打って何とか家の前から離れ、一つ先の路地を曲がったところで私は崩れ落ちた。
「どうしよう。綾が。私のせいで!」
震える体を押さえつけても、それが腕に移るだけ。なぜ彼女のそばから離れてしまったのか。自分を苛む心に、心臓を握りつぶされそうになる。
「まあ待て。まだ終わったわけじゃない」
けれど、そんな私を冷静な声がすくい上げた。はっと顔を上げれば、矢宵の手が差し伸べられている。
「あの子が取り憑かれているのは確かだろう。だが、取り憑かれても完全に乗っ取られるところまで行くのには時間がかかる。あの程度の霊なら、どう見ても一時間半はあるな」
「それなら……」
彼の手を取り、立ち上がる。まだ、諦めるには早い。
「ああ。すぐに見つけられればまだ目はある。行くぞ、亜紀!」
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