春にさよならPP

文月(ふづき)詩織

Pの惜別

 すでに散る花もない桜の枝が、雨の香りの混じった風に揺れていた。

 その桜の木の前には、ハルとナツの等身大パネルが残っている。長らく更新されていないナツのパネルは色があせていて、物寂しい雰囲気を醸し出していた。

 格子の隙間からそれを見て、ナツは深々と、息を漏らした。

 ハルのパネルは、まだ真新しい艶を宿している。相も変わらぬ矮躯わいくに安堵し、同時に悲しい気分になった。

 自分の背丈と同じ高さの空間を、くちばしでなぞる。ナツの体高はハルの倍近くもあった。

「お前と競うなんて、本当に、愚かしいことだったのだ。勝負になるはずもなかった。……俺とお前は、違う生き物なのだから」

 そう言って、ハルはナツの前から姿を消した。もう数年も前のこと。桜吹雪の中を歩き去るハルの、ぽてぽてした後ろ姿は、ナツの網膜に焼き付いていた。

 あれはどういう意味だったのだい。ナツの心の中での問いかけに、誰も答えてはくれなかった。幼い頃から切磋琢磨してきた君と僕との間に、一体どんな壁があったというのだい。

 格子の外の景色は、どんどん通り過ぎてゆく。ナツは今日、お婿にゆく。この場所を発って、きっともう戻ってはこない。

 もう一度、ハルと話をしたかった。ハルの抱えていたものを、知りたい。もう一度あの頃のように、屈託なくじゃれ合いたい。

「ンクアッカー!」

 ナツの口から溢れ出した寂寥は、鈍色の空へと吸い込まれて行った。

「ンクアックァー!」

 木霊のように、声が響いた。




 春と言うにはねっとりと暑く、夏と言うには肌寒い季節、田舎の水族館のペンギンゾーンに、ハルとナツは生れ落ちた。二羽は人の子らの黄色い声援を受けてたくさんの魚を食べ、元気に成長していった。

 ことナツの成長は著しく、ハルはあっという間に置いて行かれた。悔しかった。体がでかい。これ以上のアドバンテージがあろうか。餌を取り合っても、場所を取り合っても、何気なくじゃれ合っても、ハルはナツに勝てなかった。

「ペンギンの背比べ」なる邪悪なイベントが行われるようになったのは、二羽が生後二ヶ月を数えた頃だった。

 立派な桜が傘のように枝を広げる広場で、ハルとナツの体高が測定された。桜の根元に立てられた杭に、飼育員が二羽の体高を示す線を引いた。二本の線の間には、あまりにも大きな差があった。

 ハルだって、分厚い卵の殻を己の嘴一つで打ち壊してこの世に生れ落ちたのだ。だから絶対に偉いのだ。だというのに、ナツが隣にいるだけで、自分の価値に疑問を抱き、自信を持てず、堂々と生きることができないのだ。息が詰まる。ああ、なんだってあんな奴と同じ世代に生まれてしまったのか!

 乗り越えなければならない。何か一つでも、ナツより優れたものを見つけなければ、ハルは己の生に誇りを持つことができないのだ。

 そうと信じて挑みかかっても、ナツは無自覚の内にその全てをはねのけた。ハルは何ひとつとしてナツに敵わないのだと、思い知らされた。つくりかけの自尊心を打ち砕かれた。

「ンクアックァー! アー! アー!」

 地団太を踏んで空に向けて叫ぶハルを、ナツは大層心配した。憤懣やるかたないことに、ナツはとても良いやつだった。その優れたペンギン性は多くのペンギンを惹き付けて止まず、鋭い嘴とぽよよと立派な腹は異性の心を浮つかせた。ハルから見ても、非の打ちどころのない、ペンギンの中のペンギンだった。彼こそ正に、生まれながらの皇帝エペンラー

 杭につけられる印はだんだんと高くなり、それに伴ってハルとナツの差もさらに顕著になる。次第にハルは諦めに支配されていった。気のいいナツが、ハルの捻れた感情に気づくはずもない。この素晴らしいペンギンを心から愛することのできない自分が、ひどく惨めだった。

 ある日、ペンギンの背比べに赴いた時、そこには印のついた杭はなく、ハルとナツの等身大パネルが設置されていた。ハルは心底、驚いた。そのパネルをまぢまぢと見つめ、ようやく事実を呑み込むと、不意に笑いが込み上げてきた。

「ど、どうしたのかい?」

 ナツは恐々、ハルに問う。

「これが笑わずにいられるか!」

 等身大パネルの一つは、見まごう事なきナツの姿だった。そして、ハルとそっくり同じ体格を示す薄っぺらなもう一枚のパネル。初めて見る自分の姿は、ナツとは似ても似つかなかった。

「お前と競うなんて、本当に、愚かしいことだったのだ。勝負になるはずもなかった。……俺とお前は、違う生き物なのだから」

 ハルもナツもペンギンだった。だが、片やケープペンギンで、片やコウテイペンギンだったのだ。

「どういう意味なんだい?」

 ナツはただひたすらに困惑していた。それを見て、ハルは卑屈な優越を覚えた。こいつが気づいていないことに、ハルは気がついたのだ。これに気がつかないことすらも、ナツの美点であるのだけれども。

 折しも水族館のペンギンゾーンの拡大に伴い、ケープペンギンとコウテイペンギンの飼育スペースが分かたれた。ハルとナツは二度と会わなかった。ハルは次第に自尊心を育て、どっしりと腹を突き出した立派なペンギンへと成長していった。

 成長しきったハルとナツは背を比べられることもなくなった。代わりにハルと背比べをすることになったのは、来園する子供達だった。大きすぎるコウテイペンギンよりも、小さく扱いやすいケープペンギンが子供の触れ合い相手に選ばれた。

 人間の子供というやつは実に恐ろしく、ハルはさんざんにもみくちゃにされ、ついには等身大パネルが破壊された。

 新しくなったハルのパネルに対して、ナツのパネルはどんどん古びていく。奇妙に空虚な思いで、ハルはナツのパネルに刻み込まれる年月を数えた。

 ナツがお婿に行くというのは、鳴き声の噂で耳にした。ナツならばどこに行っても幸せに暮らすだろうし、同じ園にいたところで二度と会うこともない。何を思うはずもなかった。

「ンクアッカー!」

 その日、園に響いた声は、忘れるはずもない、ナツの声だった。寂寥で張り裂けんばかりのその声を聞いて、ハルの中に込み上げてくるものがあった。

 どこにこんなものを抱えていたのか。

 どうして今更、こんなものに気づいてしまうのか。

 あいつはもう、行ってしまう。ああ、行ってしまうのだ。

「ンクアックァー!」

 忘れ果てていた友情と、一歩遅れた惜別をのせて、ハルの声が空へと昇る。

 二羽の声は絡み合って、夏を待つ空へと吸い込まれていった。






春にさよなら~Penguin Pain~

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