世界線β・被験者「藤城廣之」の受難
最終話 後悔の手記
僕は平和を取り戻した。そんな世界線を生きる「僕」がこの先、一生知り得ない事実がある。それは、あの結末に導いてくれた親友の苦悩と、祖父の自宅にある椿の木が、本当は白い花を咲かせる事だ。混乱が終結した世界線とは似て異なる、こちらの世界で僕がその事実を知ったのは、祖父の庭で白椿が花開いた十一月の事だった。蕾ができた時期でさえ、僕はてっきり紅い椿の花が咲くものだとばかり思っていた。悪夢のような現実は、気が緩んでいた僕を再び打ちのめしたのだ。
僕はこちらで白椿を目にして初めて、紅い椿の木を自宅の庭に植えた祖父とは、生きる世界が違っていた事に気が付いた。どちらの世界でも共通しているのは、僕が持つ紅い椿の記憶は、架空のものだったという事だ。紅い椿が正しい記憶になるよう、あちらの世界では、最初から紅い椿の木が祖父の庭に植えられている。要は、白椿を知る僕が偽りの世界に馴染むよう、僕の記憶は補正されていたのだ。紅い椿の記憶は偽物のものだった。こっちの世界の僕がもっと早くに──、椿の蕾ができた時に気付くべきだった。椿は種類によって、開花の時期が異なるのだ。それを僕が事前に知っていたら、僕はもっと早く真相に辿り着けていただろう。そして、僕が祖父の遺品である日記から、紅い椿の花と共に写る家族写真を見つけたあの時に、肺が潰れそうになるまで泣く事もなかったはずだ。
つまり、あちらの世界にいる僕は未だ囚われの身だ。僕はどこの世界にいようが、紅い椿の木を庭に植えた祖父とは、違う世界を生きる人間のままなのだ。
それじゃあ、紅い椿が祖父の庭にある、あちらの世界には元々誰がいて、みんなどこに行ってしまったのか。平行世界が複雑に入り乱れているこの状況では、僕らに元の世界の姿を知る術はない。僕だって、白椿を知る祖父とは、完全に繋がりを絶たれてしまった。
僕はもうひとつの世界の「僕」の物語を知っている。なぜ僕がそれを知っているかというと、僕は「誰も元の世界に帰れていない」という事実を、祖父の庭で白椿を目撃した一ヶ月後、全ての黒幕から遊び半分で教えられたからだ。悪夢を通して僕に接触してきた奴の話では、世界が狂い始めたのは夏休み前の六月からで、きっかけは僕の祖父の死ではなく、僕の友人が人間に扮した奴に出会った、同年春の事だった。
──何かに縛られているのは君たちだけではないよ。我々も知りたいんだ。時間や、感情という制約から解放される方法をね。地球はその実験場さ。君のお爺さんは、君を混乱させるための囮だよ。そして、君の不運も、僕らが彼を都合良く誘導するための仕掛けだったのさ。
何食わぬ顔で僕にそう語った黒幕は、僕の友人にある取引を持ちかけたそうだ。それは、奴らのシナリオ通りに事が運ぶよう手助けしてくれたら、友人が何としてでも変えたかった過去を思い通りに改変させてやる、という内容だった。
奴は取引が成立した証として、僕の友人に人間の生体電場を乱す装置を渡した。それこそが、学校で僕の意識を電気ショックで奪った、ノック式ボールペンだった。友人はそれを使って、第三階段の踊り場で僕を襲った。襲う直前まで、彼は制服の袖の中に装置を隠していたらしい。だからあの日、彼はまだ暑かったのに長袖を着ていたんだ。
僕を裏切ってまで、彼が成し遂げたかった事とは何だったのだろうか。黒幕は友人の目的すらも知っていた。
──詳しく聞かなかったけど……。彼、君とは別の友達に、何かの恩を強く感じているみたいだったよ。まあ、恩を仇で返す結果になったけどね。
奴は口の端で長くて細い炎のような赤い舌をちらつかせ、僕らを
僕は奴の話を聞いて友人の目的を悟った。彼の悲願。それは、いじめに遭う事を抜きにして、委員長と親友になる事だったんだ。どうやら彼は、自分を襲った悲劇を無かった事にしたかったらしい。
──なんて愚かな子だ! 人間は自分の都合良く、運命を変えられないってのに! ましてや、他の人間の行動や、意識だって変える事ができないんだ。彼も今回の事が教訓になっただろう。君もそう思わないかい?
とことん悪趣味な奴だ。さすが、わざわざ僕に亡くなった祖父の幻を見せて、あたかも祖父の力で元の平穏な世界に戻ったように演出しただけの事はある。
僕は友人を憎めなかった。同情すらしている。というのも、こちらの世界の彼は、混乱する世界の成れの果てを目撃し、悪事に加担した後悔の念からか、誰にも真実を打ち明けられずに精神を病んでしまったからだ。彼ほど運命に翻弄された人物は他にいないだろう。
全ての黒幕は、僕の目の前で歪んだ冷ややかな笑みを浮かべていた。奴の服装は、電車の悪夢で現れた姿と全く同じだった。
──過去を変える……つまり、時空を歪めるには、相応のリスクを負わなければいけないんだよ。今回、彼は大切な人との出会いをやり直したかった。その代償は、彼の運命だ。彼が他人の運命に干渉するのならば、
奴の縦にある瞳孔が開かれる。僕は脅されている感覚と同時に、動きをじっと観察されているような気がした。
──君たちは、
奴は自分を「宇宙意志」と名乗った。
誰かが自分の思い通りに宇宙の
──そう悲観しないでくれ。我々は地球の侵略者ではない。人間に試練を与える、ただの試験官さ。受験者は、ランダムに選ばれた君たち地球人だ。
僕は胸底で舌打ちした。どこかで似たような話を聞いた事があったからだ。恐らく僕の友人は、黒幕から、事実に微量の嘘が混ざった話を聞かされてきたはずだ。彼は見事に餌に釣られたらしい。
──むしろ略奪者は君たち地球人だ。どこに行っても戦争や競争を続けていて、醜いったらありゃしない。歴史を辿ると、君たち日本人だけでも、侵略者と原住民の血が混じっているんだ。それなのに、君たちは「みんなのため」とか善意を振りかざして、実は他人と自らの命を削って略奪してばかりいる。そうやって得られるものは何だい? それは何よりも尊いものなのかな?
奴は憐れむような視線を僕に向け、「君も呪われた血の力に縛られている」と、意味が分かるような分からないような言葉を残した。
──君が惜しいのは、どうにか陰陽思想まではたどり着けた事だ。他方を憎むのではなく、受け入れて進化してごらん。君たちはそれが誰の手によるものだろうが、選択肢を残された意味と、選択肢を消された意味、それぞれについて自分の頭で考えなければいけないよ。決定権と実行力があるのは、自分だけだからね。選択肢ぐらいは他人任せじゃなくて、自分で作りなよ。
宇宙意志は最後、僕に大事なメッセージを伝えた。
──君たちだって宇宙の一部だ。醜い欲望からの解放こそ、この宇宙の本望だよ。我々は、君がいつか愚かな人間を凌駕する存在になる事を期待しよう。
*
僕の友人は間違った情報を教えられていた。そして、僕はそんな彼が伝えてくれた情報を鵜呑みにしてしまった。僕が彼を信用したのは、彼が僕のクラスメイトで、人望がある委員長の友人で、知識人だったからだ。僕はそういう先入観を利用されていたらしい。
ひょっとしたら、今も僕の洗脳は全部解けていないのかもしれない。それでも、僕は彼を救いたいと思った。彼が僕にかけてくれた優しい言葉の数々は、本心じゃなかったのかもしれない。けれど、僕は彼の心に残っていた優しさに触れる事ができていたような気がする。僕が彼からもらったたくさんの言葉で救われてきた事実こそが、その証拠だ。
外の世界と他人がいるのは、自分の潜在意識に耳を傾けるためだ。僕らは宇宙の一部であり、創造主は僕ら自身である。迷ったら自分の潜在意識に問いかければいい。全ての答えはそこにあるのだから。
──僕は……この物語のゲームチェンジャーになろう。
胸の奥で淡い光が灯る。それは憎しみの炎ではなかった。
今思えば、この騒動の謎を解き明かせるヒントは、要所要所に散らばっていた。友人の仮説がやたらと具体的だったのも、黒幕と協力関係にあったと考えれば不思議じゃない。それに、僕が見た目覚まし時計の悪夢だって、僕の生体電場が狂っていた事を暗示していたに違いない。
彼は巨悪に利用されていただけだ。僕がそれに気付くチャンスはいくらでもあった。その後悔を、僕はここに
僕らはこの世に生まれついてから、何かしらのシステムに組み込まれ、やがてそのシステムを動かす歯車となる。年齢を重ねる度に複雑な歯車の部品は増えていき、思考停止の状態が長引けばプログラミング教育は終了だ。僕らは一生、その狂ったシステムを疑う事はない。つまり、隠された真実は疑わないと見つからないのだ。
だからこそ、この物語を読んでくれた「あなた」にも、ぜひ調べてもらいたい事がある。それは、ユリと、ヒマワリの花言葉だ。特にユリの花の色は、僕は黄色を想定している。というのも、僕の友人は中学生の頃、嫌がらせで黄色のユリの花を机の上に置かれたらしいのだ。
「あなた」だからこそ、できることがある。どうか、彼と過ごした大切な記憶が日増しに風化していく僕の代わりに、選択を間違えて心が壊れてしまった僕の友人に思いを馳せてほしい。いずれ僕のこの気持ちも、この世界に
この物語の主人公は僕であって、僕じゃない。こちらとは違う世界線を生きていて、宇宙意志に従うか否かの選択に迷っている、僕の友人だ。僕は彼を襲った悲劇の結末を知り、どこかの世界線でこの物語を創作している。僕は自分の記憶がある内に、観察者効果を使って全ての世界の結末を変えるべく、「あなた」も含めたみんなでこの世界を
歴史は変わる。未来での自分の生き方によっては、自分を含めた誰かの過去が変わる。向こうの世界の僕が、平穏な世界に戻っていない事を知らずに生きていくのか、そして向こうにいる友人が、僕を騙している事に心苦しさを感じたままでいるのか。はたまた、こちらの世界の友人のように、全ての人間関係が崩壊して、正気を失ってしまうのか──。それは、「あなた」がこれからする行動によっても変わっていくはずだ。
僕は、僕ら全員が、幸せになれる選択肢が必ずある事を証明したい。どうか、どこかの世界にいる「あなた」が、あらゆる世界線を彷徨う僕らに、この物語を伝えてくれますように。僕らの自由は、宇宙意思の思惑を語り継ぐ事で始まる。真実はいくら揉み消そうが、どこかに必ずヒントが残るものだ。何かを創り出したり、表現する事は、他者の感情を動かす。そこに創作者と読み手、あるいは読者同士の会話や交流が生まれ、自分の考えを見つめ直すきっかけになる。自分の頭で考える事。それは、置いてけぼりにしがちな自分との、大切な対話なのだ。それが、誰かの悪意に無意識でひれ伏してきた僕らが、他者のための人生から解放される、唯一の手段だ。
祖父は僕と彼を引き合わせた。そして、今度は僕が祖父を通して、僕と「あなた」の縁を結んだ。僕は縁を形にして、僕らの身に起こっている出来事を発信していく。願わくば、僕の友を、大切な人たちを、無慈悲な運命から救いたいのだ。
これは、僕が「あなた」に、未来への最後の希望を託した物語だ。ここにいる僕は、この地球で生きる僕らが、本当の自由を手にできる事を強く願う。
この物語を僕の亡き祖父と、僕の親友である山近煌希に捧げる。
二〇一四年 十二月
藤城廣之
語るに乏しい僕の祖父 藤崎 柚葉 @yuzuha_huzisaki
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