みちづれ
尾八原ジュージ
移住
夫の実家に移り住むことを提案したとき、一番嫌がったのは夫本人だった。義両親も兄弟もおらず空っぽになったその家は、自営に失敗した私たちが都落ちするのにちょうどいい条件を備えていた。それは夫自身も認めていたけれど、それでも浮かない顔だった。
理由を聞くとさんざん言い渋った結果、
「二階の廊下の突き当りの窓を開けっぱなしにしないでくれるなら」
と言った。
「開けとくと、そこから半透明の兵隊さんが何人も入ってきてさ。列作って廊下を行進するんだよ。ザッザッザッて」
「なにそれ」
幽霊譚なのかもしれないが、シュールだ。思わずふふっと笑ってしまう。が、夫は至って真剣だった。
「いや、言ったまんまだから。ほんとに来るから」
だから絶対開けっ放しは駄目だという。それが守れるのならいい、と。
「ねぇ、それ実際見たの? ザッザッザッて」
半分笑いながら尋ねると、夫は怒った顔をして口を噤む。あまり深堀りすると面倒なことになりそうだと思った。
「わかった。絶対開けっ放しにしない」
そう約束して、私たちは夫の実家に引っ越した。
そこは空き家というより、古民家と言った方がしっくりくるような落ち着いた佇まいの家だった。確かに二階には長い廊下があり、突き当りには小窓がある。
「あそこを開けなきゃいいのね」
「うん、ちょっと開けるくらいならいいけど、そのまま放置は絶対に駄目」
あまりに強い口調で禁じるものだから、気がかりになってくる。
「ねぇ、開けっ放しにしたら何なの? 兵隊さんが来て行進するだけ?」
念を押すように尋ねると、夫はまた口ごもった上、ひどく不機嫌になった。私も強いて訊くのはやめた。
田舎暮らしは思った以上に水が合った。家の状態や設備も申し分ない。
ある日部屋の模様替えをしていた私は、古い箪笥の裏から一冊の日記を見つけた。亡くなった夫の母が遺したものらしい。
『聡志があの窓を開けっぱなしにしなければ』
『あれさえなければ夫は生きていたはずなのに』
恨み言としか思えない言葉が何度も綴られていた。聡志は夫の名前である。
きっと何かがあったのだろうと思ったが、やっぱり口には出さずにいた。ここでの暮らしが快適で、平穏無事に過ごしていたいと思っていたからだ。
移住から三年、日曜の朝のことだった。
たまたま出張先から半日早く帰ることができた。駅前の朝市で朝採れ野菜や山羊のチーズを物色し、夫に少し豪華な朝食を作ってやろうと考えながら、うきうきと帰宅した。
そして、三和土に見慣れない女物のパンプスを見つけた。
静かに家に入り、二階の寝室の戸をそっと開けた。夫が見たことのない半裸の女と身を寄せ合って、ベッドの上で眠っていた。
全身の血の気が引いたその瞬間、魔が差した。
私は二階の廊下の窓を開けた。そして、そのまま家を出た。
買い物袋を持ったまま、しばらく表をうろうろした。私は何をやっているんだろうと思いながらも一時間ほど時間を潰し、おそるおそる夫のスマートフォンに連絡を入れてみると、応答はなかった。
もう一度帰宅してみた。すでに玄関にパンプスはない。寝室を覗くと夫と女の姿は消えており、私はほっとため息をついて、開けっ放しになっていた窓を閉じた。
それ以来、夫は行方不明になっている。財布もスマートフォンも置きっぱなし、靴すらもなくなっていない。なのにどこに行ってしまったものか、杳としてわからない。
私は一人で、未だにあの家に住んでいる。
失踪から二年が経ち、相変わらず夫が帰宅する気配はない。ただ、たまに私のスマートフォンに、非通知からの留守電が残っている。
『お前のせいだよ。お前が窓開けっ放しにしたから。おい、なんてことしてくれたんだよ。なぁ』
決まって夫の声で、そう吹き込まれている。
みちづれ 尾八原ジュージ @zi-yon
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