海に沈んだ友を回想する

海沈生物

第1話

 幼い頃、女友達が溺死して亡くなったことがある。その友達とは特段仲が良い相手ではなかったが、一週間に一回はお互いに好きな本を交換し合い、読み合う仲だった。そんな彼女がある日、突然近くにある空野浜ソラノハマと呼ばれる、夏場は県外からの海水浴客でごった返す場所の海で、溺死した。


 警察も地域の人も、彼女の死をただの事故であると思っていた。彼女が死んだのは周囲が暗くなる逢魔が時……夕方の頃で、海開きまであと数日といった頃のことだった。彼女は好奇心旺盛……悪く言えば「せっかち」な性格で、ちょうどその年の去年にも、海開きまで耐えられず、数日前に勝手に海で泳ぐことがあった。


 だから、きっと彼女が溺死したのもそれが原因なのだろうと思われていた。彼女が自殺するような原因なんてどこにも見当たらない、ということもあり、彼女の死は早々に「事故」であると処理された。


 しかし、私は知っている。彼女の死は事故などではない。彼女は自分の意志で海に入って死んだのだと。なぜなら、私はその死を目撃したからだ。


 あの日の夕方、私と彼女は一緒に空野浜で海を見ていた。何を話していたのか……は今となってはもう、よく覚えていない。くだらないことだったと思う。その頃に流行っていたかわいい文房具の話とか、あるいは好きな男子は誰なのか、とか。取るに足らない話だったことは確かだ。


 それでも、彼女の死の直前に話していたことだけは確かに覚えている。それは深海の話だった。


「深海って、地上で認められない全てが認められる理想郷ユートピアだよな」


 いつもはくだらない話をするだけの彼女が、そんなことを言い出したのを聞いて、私は奇妙な気持ちになった。普段はゲームか本の話しかしない彼女なのに、どうして深海の話なんてしてきたのだろう。そう疑問に思う私の気持ちを見透かしたように、彼女は「ははっ」と笑った。


「こういうのって、あんまり私のキャラじゃないよな。分かる。……でもさ、深海ってすごいんだぜ? 目がぎょろーってしているやつも、光でしか世界を感じ取れないやつも、あるいは恐ろしい目をしたサメも。現実では"醜い"とか"恐ろしい"とか異常性を弾劾されるような奴等が、普通に生きることができるんだぜ? すごいと思わないか?」


 夕日に照らされ、彼女の瞳は茜色にキラキラと輝いていた。その時の私には、彼女の気持ちがこれっぽちも理解できなかった。深海生物は、いつかテレビの何かの特集で見たことはあった。しかし、私にとって彼らは「醜い」とか「恐ろしい」以上のものではなく、彼女のように「すごい」なんて、ちっとも思うことができなかった。


「すごくないよ」


 子ども特有の残酷さ、だったのだと思う。私は彼女の背中をポンッと押すように、彼女の思想を拒絶した。彼女の言っていることは奇妙・奇天烈なものであり、深海に対して憧れのような感情を持つ行為は、当時の私にとっては異端であるようにしか思えなかった。


 彼女は私のその言葉に、両手で目を覆い、瞳孔と唇をプルプルと震わせる、絶望を絵に描いたような顔をした。


「なんで」


「なんで……って、当たり前でしょ? 深海生物なんて、気持ち悪いだけの生き物でしょ。おさかななら、クマノミとかハリセンボンの方がもっとかわいいよ!」


「……そうか。お前も結局そっち側なんだな。同じような本が好きだから、同じ思想だと思ってたから、だから、私とお前は同じだと思っていたけど。……それはただの勘違い、だったんだな。この地上で狂っているのは、やっぱり私一人だけなんだな」


 彼女はそう言うと、そろりそろりと海へと向かっていった。私は「危ないよ」とか「海開きは明後日からだよ」とか、色々言って彼女を止めようとした。だが、彼女を止めることはできなかった。


 彼女の背中にはなんだか異様な、それでいて鼓動を早くさせるような「何か」があった。その「何か」が私の心臓と共鳴して、触れてしまえば、私も向こう側に引っ張られそうな恐怖心を抱いた。だから、止めることができなかった。


 私はただ、逃げた。その場から逃げて、逃げて、逃げて。その「何か」から逃避した。家に帰ると、手洗いうがいもせず一目散に部屋に戻り、布団にこもった。何も考えないようにして、彼女の存在を記憶から消すように努めた。心の奥底に封じ込めてしまうように努めた。


 やがて、翌日になって彼女が溺死した旨が伝わってきた。幸いにもその時間に私と彼女が一緒にいたことを目撃した人はおらず、私はただ「友達を亡くした被害者」としての立場を得ることになった。


 社会人となった今でも、私は彼女の死を時々思い出す。彼女の自殺に思い立った原因が本当に何であったのか、は本人亡き今、邪推することしかできない。やはり、私のあの「すごくないよ」という言葉だったのかもしれないし、あるいはそれとは関係なしに自殺するつもりだったのかもしれない。


 ただ、その理由を本当に理解してしまった時、あるいは、あの時の彼の背中に抱いた「何か」を理解した時。私も彼女と同じように、深海への憧れを抱き、その背中を追ってしまうことになるのではないか。そんな恐怖心が今でも、心の奥底で渦巻いている。


 今はただ、彼女の魂が理想郷ユートピアに辿り着いていたら良いなと切に願うだけだ。それ以上のことを考えることは、できない。

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海に沈んだ友を回想する 海沈生物 @sweetmaron1

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