〈後編〉
船の勤務形態は、特殊だ。一日を四時間ごとに区切った「ワッチ」を二回繰り返すという形なのだけど、僕の担当である「
僕の名前は、北原茉子。ばら積み貨物船「明星丸」の一等機関士として、
二度目のワッチが明けた二十四時過ぎ、僕は自分の居室ではなく食堂に向かっていた。夕食の後、食堂に寄るようにと茜から言われたからである。
『とにかく、来たら分かるから!』
茜のチャーミングな笑顔を思い返しながら、階段を上って廊下を進み、突き当りの食堂に足を踏み入れる。それと同時に、部屋の隅に設置されたソファから茜が立ち上がった。
「私も今来たばっかりだから」
僕の顔を見るなり、茜が先手を制してフォローする。茜には、僕の心の動きなどすっかりお見通しらしい。
卵型の顔に、パッチリとした目。暗めのアッシュブラウンに染めた長髪は、仕事の邪魔にならないようにキッチリとひとつにまとめている。
二等航海士、奈良橋茜。船の花形である航海士として、安全な航海のための努力を常に惜しまない。茜はいつも僕のことを凄いと褒めてくれるけれど、
「こっちよ」
茜は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ついてくるようにと促した。僕は素直に彼女に従う。
向かった先は、すぐ隣にある調理室だった。
「……?」
戸惑う僕をよそに、茜はズンズンと冷凍庫の前まで進んでいく。ちなみに船の冷蔵庫や冷凍庫の扉は、荒天時に中身が飛び出すのを防ぐための施錠がされている。茜は冷凍庫の鍵を開けると、奥の方から小皿を取り出した。
そして、とびっきりの笑顔で小皿を差し出しながらこう言ったのだった。
「ハッピーバースデー! 茉子!」
「……っ」
僕は小さく息を呑んだ。
航海中は生活リズムが不規則になるから、日付が変わる時の感覚が普段よりも鈍くなる。よって、ついさっき誕生日を迎えたことを全然認識していなかったのだ。
不意打ちを食らった形になるけれど、僕の驚きの理由はそれだけではない。
茜が僕に差し出したのは。
「もしかして、アイスケーキ?」
「正解!」
僕の回答に、茜がますます笑みを深めた。
アイスケーキというのは、その名の通りアイスクリームで作るケーキのことだ。某有名アイスクリームチェーン店で売られているものを想像すると分かりやすいかもしれない。
「茜が作ってくれたの? しかも……」
小皿に乗った四角いアイスケーキには、砕いたビスケットと、青紫色の何かが混ざっている。
僕の大好きなブルーベリーだ。
茜は僕に頷きかけると、アイスケーキ作成の理由と経緯を簡単に説明してみせた。
「せっかくの誕生日なのに、ケーキが無いのは寂しいなって。それで色々考えて、普通のケーキよりも日持ちするアイスケーキを作ることにしたの――」
昨日の昼食後、僕が去った後にこっそり作ったのだと茜は打ち明けた。作り方はとても簡単で、500mlサイズの牛乳パックに生クリームと砂糖、砕いたビスケットとブルーベリーを入れて混ぜ、テープで牛乳パックの口を塞いで冷凍庫で固めるというものらしい。夕食後、同じく僕が去ってから、牛乳パックごと包丁でカットして小皿に乗せて、冷凍庫の中でスタンバイさせていたという。 「なるほど」
考え抜かれた茜の作戦に、僕はすっかり感服した。確かに日持ちするアイスケーキなら、焦ることなく仕事の合間の都合の良い時間を選んで味わうことができる。レシピにしたって、船の調理室という公共スペースの私的利用を最小限に抑えるものだし、真面目な茜のことだから材料は全て自前のものに違いない。
ただ、ひとつだけ引っかかることがあった。
「残りのアイスケーキは、どうするの?」
「…………」
茜の目が泳いだ。
やや間をおいて、茜が迷うような素振りで口を開く。
「……あくまで茉子が主役だもん。何よりも、茉子に食べてほしいし」
やっぱり、と僕は思った。
(気を遣ってるんだ。僕を困らせると思って)
彼女は航海士で、僕は機関士。同じ船に乗った仲間とはいえ、仕事内容は全然違う。下っ端だから一緒に雑務をこなすことはあるけれど、それでも互いの都合を摺り合わせるのは簡単ではない。
元気で明るくて優秀で、ちょっと負けず嫌いなところがあるけれど、とっても優しくて。
そんな茜の気持ちを知りながら寂しい想いをさせるなんて、僕にはとてもできない。
僕は背筋を伸ばして顎を引くと、茜の目をまっすぐ見つめた。
茉子の表情が変わった。チョコレートブラウンの柔らかな髪に包まれた中性的な顔を、胸の高鳴りを感じながらそっと見つめ返す。
引き締まった唇から、確固とした響きを帯びたアルトの声が滑り出てきた。
「僕は茜と一緒に食べたい。入港して時間ができたときに、ふたりでゆっくり食べよう」
「っ!」
まるでプロポーズのような……そんな真摯な茉子の言葉に、私は胸がドギマギしてしまう。
クールだけど可愛いところもあって、でもここ一番という時には、まるで本物の王子様みたいにとっても格好良いだなんて、そんなの。
(そんなの、ずる過ぎる!)
でも、私の口をついて出たのは、もっと胸の奥深くで感じた、純然たる喜びだった。
「……うん!」
私の力強い返事に、茉子の表情がふにゃりと緩んだ。
というわけで、とりあえずアイスケーキの乗った小皿を冷凍庫に入れて食堂に戻る。
「実は、誕生日プレゼントも用意してるの。居室にあるからそこで渡すわ」
「うん」
何気ない風を装ってそう伝えた私に、茉子は穏やかな顔で頷き返す。
深夜の船の中、茉子と私は足音を立てずに廊下を歩いて、階下の居住区画へと戻っていった。
――誕生日プレゼントが何かって?それは彼女と私、ふたりだけの秘密なんだから。
彼女と私の船ごはん こむらまこと @umikoto
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