春にさよならSS

文月(ふづき)詩織

桜の下に

 人里もほど近い山の中、山道からも獣道からも外れた草地に、花より他に知る人もない桜の木が一本、立っている。

 桜は苔に覆われた地面にどっしりと根を下ろし、こぶだらけの幹を隆々と太らせ、節くれだった枝を悠々と空に伸ばし、春には可憐な花、夏には瑞々しい葉で、秋にははかない紅葉で、身を飾った。一方で、冬に全てが剥げ落ちると、焼け焦げしなびた手指が空に向けて伸びているような、不気味な様相を呈した。

 固く閉ざされた冬が少しずつ解れ、春の気配が濃密になると、森は活気づいてくる。土や空気を介して伝わる植物たちの喜びを捉えて、桜もまた喜んだ。

 桜にとっての世界は、その身に注ぐ光と、空気の振動と、植物たちの発する化学物質が全てであった。景色を見ることも、音を聞くことも、植物には不要なのだ。何を見、何を聞いたところで運動能力のない身には対応することなど不可能なのだから。

 しかし桜は思考していた。何を思い、考えたところで何の意味もないというのに、どういうわけか、この桜はなかなかに理屈っぽく、哲学的であった。

 桜は常々、己のここにあることについて深く思いを致し、また時折、思考する自己のあまりにも無意味なことに気付いては酷く心細くなった。果たして、物思う植物は自分だけなのであろうか。他の植物はどのように日々を過ごしているのか。解らない。何しろ植物は物を言う口を持たず、物を聞く耳も持たないのだから、互いに思考を示し合うことができないのである。

 その身をくすぐる動物たちの刺激を感じることで、桜は孤独を紛らわせた。太い幹に螺旋を描いて上下するリスや、芽吹いた花をつつき回すヒヨドリに親しみを覚え、その足裏の伝える温もりで無聊ぶりょうを慰めた。

 淀んだ時の中に僅かばかりの刺激を貪る思考の日々に、彼らは突然現れた。

 まず桜が捉えたのは、植物の悲鳴だった。桜が散らせた花弁の下に隠れていた苔たちを、踏みつける者があった。野生動物では有り得ない、強く激しく、無遠慮な足取りだった。踏みにじられた苔たちは一斉に刺激を伝える化学物質を土の中へと放出し、これを受けた他の植物たちもまた危険を訴える化学物質を大地に流した。大地に満ちた植物たちの恐慌を桜の根が吸い上げて、巨大な木の隅々にまで危険信号を駆け巡らせる。

 音なき悲鳴の中心地が近づいてくると、桜は空気の振動を捉えた。二人の子供の声が幹の表面をなぞり、散りゆくばかりの擦れた花弁と、盛りへと向かう新緑とをざわつかせた。

「桜だ! ハルちゃん、桜が咲いてるよ」

「ほんとうだ。きれいだねえ」

 音を音として捉えられない桜には解らなかったが、子供らはそんなことを口にしていた。軽い足取りで桜の根元に歩み寄る。根に重みがかかり、幹に温かく柔らかいものが触れた。

「かたい!」

「でこぼこしてるね」

 金属的な空気の揺らぎが、桜の幹を至近で打った。子供の手の中にある何かに反射した木漏れ日が、梢を鈍く照らした。冷たいものが樹皮の内側に入り込み、めくりあげる。突然の刺激に桜の内部で化学物質が大渋滞を起こした。しかし桜は反撃をすることもできず、逃げることもできず、身を震わせることすらもできはしない。何事も起きていないかのように聳え立つばかりである。

「ハルちゃん、それなに?」

「ナイフだよ」

 樹皮の隙間から滑り込んだナイフが、幹を削り取る。ハルの鼻歌が幹の傷に流れ込み、過敏になった信号をかき乱した。

「とてもよく切れるでしょう?」

 ハルは木の痛みなど知りもせず、面白がって樹皮を剥がし、やがてそれに飽きると、何か意味のある印を刻みたくなった。

「ナッちゃん、そこに立ってみて」

 言われるままに幹に背を預けて立った子供の頭の直上に、ハルは刃を突き立てた。深々と刻み込まれた自身の身長を見つめて、子供はあどけない瞳に喜色を宿した。

「今度はナツが、ハルちゃんの背を測ってあげる」

 ハルとナツは役割を入れ替えて、再び桜に刃の跡を刻んだ。二本並んだ横一文字の傷を見て、ハルは不服そうにした。

「ハルの方が、ナッちゃんより小さいのね」

「これから大きくなるよ、ハルちゃん」

「そうだね。すぐにナッちゃんよりも大きくなるよ」




 その日から、ハルとナツは頻繁にこの草地にやってきた。子供らしく無邪気に、他愛のない話をし、通りすがる小動物をいじめ、手の届く範囲にある草花を引きちぎって遊んだ。桜が花から葉へと衣替えをする時期には、二人は必ず桜に背丈を刻んだ。次の年も、また次の年も、ハルの横一文字はナツの背丈を越えなかった。

 奇妙なことに、桜はこの子らを憎からず思っていた。そもそも、桜が何かを憎むことこそ奇妙であるかもしれないが。枝先一つ意のままにならない桜には、子供らの訪れは実に刺激的であった。姿も声も解らない子供らのもたらす傷が、桜の孤独を癒したのだ。

 花の季節を終えるごとに、横一線の傷跡は、ますます高くに刻まれた。

 ある日、ハルは一人でやって来た。風の孕んだ奇妙な臭いは、桜には感じ取れなかった。

 何を思ったか、ハルは桜の根元を掘り始めた。極小の世界に生きる虫達が慌てふためき、シャベルに切断されたミミズの両端が踊り狂う。傷付けられた根が全身に非常事態を告げるのを受けて、桜はやはり、立っているだけだった。

 ハルはそこに、何かを埋めた。

 埋められたものは桜の根に抱かれて、土中の微生物らによって少しずつ解体され、溶けて、周囲の生命と同化していった。

 そんなことが何度も、繰り返された。





 ハルとナツの幼い日々の終わりは、唐突に訪れた。

 幹の一文字傷が十を数えた次の年のことだった。

「じゃあ、ナッちゃんは遠くへ行ってしまうんだね」

 ナツが別れを告げてから随分と長い時間を経て、ハルはようやく呟いた。

「うん、ハルちゃんとお別れするのは寂しいけれど」

 過去への未練と未来への期待が混在する声でそう言って、ナツはハルの頭の高さを桜に刻む。十一本目の一文字は、去年よりも、ずっと高い。けれどもハルが刻んだナツの高さは、それよりもさらに高かった。

「ナッちゃんは全然ハルを待ってくれないね」

「ハルちゃんは成長期が遅いのかもしれないね」

「ナッちゃんよりも大きくなりたかったんだけどなあ」

「なんで?」

「相手が自分よりも大きいと、大変そうじゃない?」

 桜の幹を、何か冷たいものが撫でつける。桜には知る由もなかったが、それはこれまでもさんざん幹を傷つけたナイフであった。

「来年も一緒に、ここに来たかったなあ」

「ナツとしては、もう少し早い季節に来たかったな。満開はとっくに過ぎているよ」

「桜ってさ、散る時が一番美しいじゃない」

 ハルの声は、どこか恍惚とした響きを帯びて、幹に刻まれた傷をくすぐった。

「いや、桜だけじゃないのかな。ほら、生きているものとそうでないものって、全然違うじゃない? 生きているってことはさ、ものすごいエネルギーを持っているってことだと思うんだよ。でも、じゃあ、そのエネルギーは死んだらどこにいくんだろう?」

「ハルちゃん?」

「生きている時に持っているエネルギーが、死ぬ瞬間に、パアッって、弾けるんじゃないかと思うんだ。だからきっと、あんなにきれいなんだ」

 幹に温かなものがかかった。粘性を伴って伝い落ちるそれが何なのか、桜には解らない。

「きれいだよ、ナッちゃん」

 春の終わりの湿った暖気に、なお温かな嘆息が広がる。

 ハルはまた、桜の根元に穴を掘った。長い時間をかけて、いつもよりよほど広く深く、入念に。

「あんなにきれいだったのに……」

 露わになった桜の根に、悲しげな呟きが落ちる。続いて、何か大きな物体が穴に落とされた。

「花より他に、知る人もなし」

 柔らかな土が穴を覆う。そこにひしめく生物は、次の瞬間から覆ったものを分解しはじめた。桜はゆっくりと根を育み、それに絡ませてゆく。それは少しずつ形を失い、他の生命に取り込まれて、消えていった。いつもの通りに。

 ハルはもう、二度と穴を掘らなかった。




 次の年、ハルは一人でやってきた。木に自分の背丈を彫ると、隣に残る一文字傷を指でなぞって不服そうにした。

 次の年も、ハルは一人で訪れた。刻んだ背丈はもう少し、十二本目の一文字傷に届かなかった。

 次の年にも、ハルはやはり一人だった。新しい傷は、去年と同じ場所に残された。

 一年、また一年。同じ場所の傷をただひたすら深くした。やがて傷の位置は少しずつ下方へずれていった。下へ、また下へ。

 十一本目の傷に新しい傷が重なった年、ハルは何かに納得したように溜め息を吐いた。

 次の年、ハルは現れなかった。桜の花が全て散り落ち、新緑が深緑へと移り行き、枝のまとう風が湿気と熱を帯びてもなお、ハルの訪れはなかった。

 もう来ないのだと悟った時、桜の中から温かいものが抜け出した。不思議なことに、桜は霞のような何かの像をくっきりとことができた。

 それは自分の背丈を描くように、桜の幹を指で撫でた。横一文字の軌跡は、十二本目の傷を、そっくりそのままなぞった。

 温かな風が空に昇る。桜の梢が物悲しげに揺れた。

 春はゆき、夏がくる。

 桜は変わらず、そこに立っている。





春にさよなら ~Sakura no Shita(n)i~

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