前日譚 新宮マリアと温泉饅頭殺人事件

 今回のお話はマリアが言及した「温泉旅行」の前日譚です。

 もともと連載前に短編として書いていたのですが、第1話の終わったタイミングで掲載します。

 肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。



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 山奥の寂れた旅館に、絹を裂くような女の悲鳴が響いた。

 露天風呂を一人で堪能し、客室に戻ったその短髪女性が見たものは、同伴者の死体。


 いかにも「大食らい」な風貌の肥え太ったその同伴の女性は、お茶菓子の温泉饅頭を何個も口いっぱいにほおばったまま、ちゃぶ台の上に青紫色の頭を横たわらせ、ぴくりとも動かなくなっていた。


「……は、は、はは……は」


 悲鳴を聞きつけ、いったい何事かと旅館中から人が集まる中で、女性は客間の入り口に立ったまま、徐々に口角を上げ始める。


「はは……沙織、マヌケすぎだろ。饅頭のどに詰まらせて死ぬって……。正月のジジイじゃないんだから……」


 女性は脱力してため息をつく。そして集まった野次馬の中に旅館の番頭を見つけると、声をかけた。


「あー、番頭さん? 救急車よろしく」

「え……」

「え、じゃないだろうノロマ。こういうとき一応呼ぶんだろ? まあ明らかに死んでるけど」

「わ、わかりました……」


 そそくさと電話をかけに行った番頭を尻目に、女性はまた大きなため息をつき、今度は野次馬を一睨み。


「何見てんだよ!!!! あ!?!?」


 その権幕は、つい今しがた友人の死を前に悲鳴を上げた人間とは思えないほど凄まじいもので。野次馬たちは瞬く間に散り散りに去っていった。

 ――ただ一人、真っ白なロリータ服に身を包んだ少女を除いては。


「……なに、あんた」

「ごきげんよう、新宮マリアと申します」


 中学生ほどの背丈の少女は、女性の眼前まで歩み寄ると、見上げるような格好で、女性の目を覗き込んだ。


「この事件の謎を解き明かす探偵です」

「探……偵……?」

「以後、お見知りおきを。仲良くやりましょう」


 新宮マリアと名乗った少女は、大きなフリル付きボンネットの影から瞬き一つなく女性を見据える。その迫力に一瞬気圧されかけた女性だったが、すぐに鼻で笑い返す元気を取り戻した。


「は……ハッ! 馬鹿馬鹿しい。何が事件だ」

「ですが、死んでおられますよ」

「ただ食い意地張った沙織が、自業自得で窒息しただけでしょうが!」

「ひどい言い草ですね。ご友人に対して」

「友人なもんか。こんな最悪のクズ、死んで当然」

「旅館に二人で来ているのに?」


 そう問われた女性は苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめる。


「好きで付き合ってんじゃない。わたしはこいつの面倒を見なきゃいけねえんだ。こいつがどんなに金を返さなくても、SNSで私のデマを言いふらしても、うちでタダ飯食った後にゲロをまき散らしても――」

「――まあ、無理もないでしょうね、祥子さん。あなたと沙織さんの、親御さん同士の力関係では」

「は…………?」


 と名を呼ばれたその女性の表情が硬直した。


「祥子さん、あなたのお父上は二年前、元いた会社での横領がバレて首を切られた。路頭に迷うお父上を旧友のよしみで拾ってくださったのが、沙織さんのお父上が経営する会社なのですよね。だから祥子さん、あなたは嫌でも沙織さんとを続けなければならなかった。家族のために」

「なんで、てめえ、そのことを知って。いや、そもそも、わたしの名前だって教えてなんか……」

「探偵ですから」


 新宮マリアは指を口に当ててかすかに嗤う。

 ……その静かな笑みが、確かな嗜虐心を湛えていることに気づいても、祥子はこれまでのように怒鳴ることなどできず、絶句するしかなかった。


「あなたはサオリさんを煩わしく思っていたのです。殺したいほどに」

「つまり、こう言いたいのか? 沙織は窒息死じゃない。わたしが殺したと」

「そうは申し上げておりません。ただ……」


 マリアは沙織の死体のそばに近づくと、いくつもの饅頭をほおばったままの彼女の口元に手を伸ばした。


「てめえ! 何を……!」

「証拠ならば、ここにまだ、残っておりますので」


 咀嚼されて唾液のついた饅頭を、マリアは顔色一つ変えず、沙織の口から引き抜く。そしてそのまま……己の口へと運ぼうとした。


「待て!!!!」

「……? なぜ止めるのです。ちょうどお腹がすいているのですよ」

「その饅頭は……その、食べないほうがいい。汚いだろ」

「わたくしは気にしません」

「普通気にするだろ!! いや、そうじゃなくってだな……」

「…………」

「…………」


 言葉に詰まる祥子を、マリアはにこやかに見つめる。


「まさか、このお饅頭に毒が入っている、などと。おっしゃるわけではないですよね?」

「な…………ッ!」

「ふふ、そんなわけありませんよね。ではいただきます」

「ちょ、馬鹿っ……!!」


 祥子が止める間もなく、マリアは汚らしい饅頭を上品に口に入れる。そのままゆっくりと味わうように噛み、そして、嚥下した。


「……ひどい味ですね。甘いあんこの中に、保存料の苦みがある。お客様に出す代物ではありません」


 あくまでも落ち着き払いながら味の感想を述べるマリアに対して、祥子は慌てふためいていた。部屋の隅に置いてあった手提げカバンに飛びつき、中を漁り始める。


「お、お前、マジで食うやつがいるか! ち、ちょっと待ってろ。ど、どこにやったか、げ、解毒剤……!」

「おや、解毒剤?」

「全部わかってやってんだろ! でもその毒は饅頭一個じゃ致死量にはならねえ。死なないはずだけど……おちょくりやがって……そうだ、待ってる間水飲んでろ! くそ、なんでこうなる……あった!!」


 手提げカバンの底から茶色い小瓶を取り出した祥子は、小瓶をマリアの胸に押しつける。その手は脂汗でまみれていた。


「ほら、さっさと飲めよ!!」

「ありがとうございます。ですが、必要ありません」

「そんなわけあるか! お前、もう毒が効いて苦しいはずだろ。吐き気がひどいはずだ。ああもう……!」

「……ふふっ」

「あ……?」

「くくっ……ははっ、あははははははははははははははっ!!!!!」


 祥子はまたしてもあっけにとられる。毒を飲んだはずの少女が、あろうことか、耐えかねていたかのように涙を浮かべて大笑いを始めたのだから。


「ひいぃ、ああおかしい……」

「な、なにが……」

「解毒剤を探すあなたの、その、必死な姿……! 人を一人殺そうとしたくせに、もう一人想定外に殺すのは耐えられないのですね。ああ、なんて凡庸な魂なのかしら。ダメですよ、罪を逃れたいなら、真相を知った相手は躊躇いなく殺らないと」


 祥子はマリアの言葉が理解できなかった。いや、意味は理解できても、脳が理解を拒んでいた。


「ですがその凡庸さ、嫌いではありません。だって、あなたはも本気で殺そうとしたわけではなかったでしょう?」

「…………」

「お饅頭一個では致死量にならないとおっしゃいましたね。つまり、よほどたくさん一度に食べなければ死なない程度の毒の量に調整して仕込んだのでしょう。彼女が、友人の分のお饅頭までこっそり食べるほどの救えない強欲だったときだけ、命を落とすように」

「……なんでもお見通しかよ」


 たった一人の少女に計画のすべてを暴かれた無力感から、祥子は力なく項垂れる。


「ああ、そうだよ……。こんな計画、うまくいってもいかなくても、どうせ警察は真相をすぐ突き止める。もうやけっぱちだったんだ。あいつの大食らいに辟易してた。これで沙織が死ぬことがあれば、それはあいつの最悪な性格が招いただ。運試しをしたかっただけなんだ……」

「まあ、それはそれで殺しの責任逃れの言い訳を用意しているわけで。あなたも大概同類なわけですけれど」

「うぐ……」


 シルクのハンカチで口をふきながら冷たく言い放つマリアに、祥子は何も言い返せなかった。


「……なあ、教えてくれよ」

「なんですか?」

「わたしは全部の饅頭に毒を仕込んだ。だからてめえは確かに毒入りの饅頭を食べたはずだ。なのになぜ平気なんだ?」

「ああ、簡単なことですよ。沙織さんの食べたお饅頭に毒は入っていなかったからです」

「…………は?」


 祥子はもう何度目かわからない絶句をまたしても重ねた。

 だが今度こそ、マリアの言葉は祥子の理解の範疇を超えていた。


「最初に客間に置かれていた温泉饅頭。あれ、賞味期限を二週間も過ぎていたんです。最悪ですよね」

「賞味期限…………」

「旅館の番頭の仕業です。ほら、さっき救急車を呼びに行った、彼。捨てるのがもったいないから置いていたんですって。わたくしはチェックインしてすぐに気づいたので、クレームを入れたらあっさり白状しました。だからあなたが温泉へ向かったその直後に、番頭がすべての客間のお饅頭を新しいものに取り換えたんです」

「じゃあ、わたしが温泉に行く前に毒を仕込んだ饅頭は」

「今頃、厨房のゴミ箱の中にありますよ」

「マジかよ……」

「でなければ、いくらわたくしでも毒入り饅頭を食べたりしません、ふふ」

「じゃあ、じゃあ、沙織が死んだ原因は……?」


 前のめりにたずねる祥子に、マリアは悪戯っぽくウインクする。


「ええ、最初にあなたがおっしゃった通り。食い意地を張って、のどに詰まらせて窒息死です」

「なんだよおぉぉぉ…………」


 祥子はどっと虚脱感に襲われ、壁にもたれかかって座り込んだ。

 ちゃぶ台の上で今も倒れている死体の見知った顔がひどく間抜けに見え、そう感じる自分がたまらなく嫌だった。


「……これはだと思いますか?」

「知らん。あいつの身勝手に意味を見出すのも馬鹿らしい」

「そうですか」


 遠くから救急車のサイレンと、そしてパトカーのサイレンも一緒に鳴り響いてきた。

 もう間もなく事件は終結を迎えるだろう。


「さて……祥子さん。時間もないようですので、本題に入らせていただきますね」

「本題……?」

「ええ、なぜこのわたくしがわざわざ、事件の謎を解いて差し上げたのか。それをお話しします」

「なぜって……探偵だからじゃないのか?」

「探偵だからといって、善意で謎を解くわけではございません。ましてこの程度の事件、わたくしの推理でなくとも警察の力でたやすく解決したでしょう」

「なに……?」


 そのとき、祥子は思い出した。新宮マリアと名乗る少女は、どういうわけか自分の名前や境遇をすべて知っていたことを。まるで、初めから目をつけられていたかのように。

 寒気を覚えた祥子の胸に、マリアはそっと手を乗せて、口ずさむ。


「わたくしは確信していました。憎しみを抱えたあなたが今日、必ずや凶行に及ぶであろうことを。親御さんの顛末は昔ニュースになったときから知っておりまして、まあ、そのころから目をつけていたのです。当然あなたと沙織さんと諍いも知っておりましたし、あなたが毒物をネットで購入していたことも知っておりました」

「そんな、ことが」

「ご存じ? 探偵の本業は推理ではなくプライベートの調査ですのよ」

「だからって……わたしの殺人を予測して、何になるっていうんだ」


 マリアは嗜虐心たっぷりに聖母の笑みを浮かべる。


「『殺人未遂』というあなたの罪を知っているのは、今、世界でわたくしだけ。この状況を作り出すこと。それがわたくしの目的です」

「まさか……」

「わたくしが、あなたの罪の痕跡を、すべて隠して差し上げます。完璧に」


 その一言は、凡庸な人間である祥子にとってあまりにも強烈な誘惑であった。


「殺人未遂。殺人とまではいかずとも重い罪です。あのような、最悪な性格で、身勝手に死んだのために、あなたの人生に疵を残してもよいのですか?」

「…………」

「わたくしは警察にもツテがあります。今から来る刑事さんもその一人。証拠をすべて排除して、にするのは造作もない」

「…………」

「いかがでしょうか? 悪くない提案だと思いますよ」


 祥子は乾いた口を開く。


「あんたは、新宮マリアは。わたしに何を求める」

「というと?」

「つまりあんたは、私に貸しを作りたいってことだろう。何か要求があるはずだ」

「あらやだ、そんなことをしたら脅迫罪になってしまいますわ」

「何をいまさら……」

「冗談です。お話が早くて助かります。まあとはいえ、本当に何もないのです。今まで通りに過ごしてくださいませ。――ですが」

「…………」

「――この先一度だけ、あなたの罪の重さにふさわしいを依頼する日が来るでしょう。そのとき、あなたはわたくしのとを確実に実行してください」


 そう話すマリアの瞳は、あまりにも真っ暗で。祥子は数秒見つめたのち、目を背けた。見続けていると、その闇に取り込まれて、戻ってこられなくなる予感に襲われたのだ。

 ……同時に自覚してしまう。自分はすでに、その闇に魅入られていると。


「わかった。取引成立だ」

「まあ、ありがとうございます」


 マリアはぱっと笑って立ち上がった。


「今後とも、仲良くやりましょうね」

「…………」

「それでは、わたくしは刑事さんたちをお出迎えに行ってまいります」

「……待ってくれ」


 客間を出ていこうとしたかわいらしいロリータ服の背中を、祥子は呼び止める。


「あんたは……こんなことをしているのか? わたし以外にも」

「というと?」

「そうやって人の弱みを握って、命令を聞く手駒を増やしているのか。いったい、何のために」

「…………」

「あんた自身が言ったように。殺人という秘密を抱えれば、当然あんたの命を狙うヤツも出てくるはずだ。そんな危険まで犯して、あんたは、いったい、何をしようとしてるんだ」


 マリアは立ち止まる。

 わずかな間の後、頭だけ振り返り、小首を傾け、人差し指を唇に当てて、嗤った。


「どうぞ、推理してごらんなさいませ」

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最悪探偵 新宮マリアの告解 餅は餅屋 @mosshan

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