無銘

西木 草成

 

 私の趣味はもっぱら、刀剣蒐集である。


 今どき、刀剣といえばゲームや漫画のモチーフになったり果てまで人物に姿を変えて描かれたりと、昭和の刀剣ブームからほとんど勢い衰えていないジャンルの一つと言えるだろう。かくいう私も、刀剣にハマったキッカケといえば父が刀を振る人であったため、幼いころの時分を思い出し大人になってある程度身の振り方を知ってから少しづつ、主にネットオークションを経て刀剣を集めるようになったわけである。


 さて、今回のお題である『名前』『偶然』『最後の一人』であるが、このお題列を見た時パッと頭に思い浮かんだものといえばSFであったり、荒廃した土地で力強く生きる主人公といった、いわゆるゾンビ系の話などが浮かんだりした。


 しかし、やはり自分が思いつくということもあってか、そういった話を書かれている人が多い。故に、捻くれている私としては少しテイストの違った話を一つこさえたいと考えるに至ったわけである。そこで、私が思い浮かんだのは最近の近況も兼ねて、エッセイを一つ作ってみようかと思った次第だ。


 さて話を戻そう。私の趣味は、刀剣蒐集である。


 まず、私の蒐集している刀は今手元にあるので合計三振である。一つは、古刀で最上大業物と呼ばれている『孫六兼元』。これに関しては正確な鑑定をしてはいないため真否は不明だが、少なくとも兼元の特徴が顕著に現れる三本杉の整った刃文を見る限りでは、孫六とはいかなくとも後代の兼元であることは間違いないだろうというのが個人的見解である。そして、二つ目は新刀である『加州家平』。こちらもまた、刀剣乱舞等でお馴染みの『加州清光』と同様、加賀国出身の一振りである、こちらは日本刀剣美術協会という正式な鑑定書がついているため、極の域を出ないがほぼその出所で間違いないだろう。そして、最後に最近になってようやく手に入ったものが『会津兼定、新々刀』である。これもまた刀剣乱舞に登場する『和泉守兼定』と全くもって同じ刀であり、新選組土方歳三の使っていた刀と同工の刀である。個人的には、この刀を手に入れたいがために刀剣蒐集を行なっていたのと同義であり、手に入った時は思わず涙を浮かべてしまいそうになったのは記憶に新しい。


 ここまで、ダラダラと手持ちの刀を自慢してしまったわけだが、この刀の三振には一つ共通点がある。


 それは、全て無銘ということである。


 この作品にタイトルにもなっているため、察しの良い読者の諸君は気づいたかもしれないが、この三振は刀に名前の彫られていない、いわば出所が全くわからないというと少し誇張し過ぎているが、刃文と姿形以外は刀の出所が全くわからない刀たちなのである。


 無銘の刀が存在する理由というのは二つ挙げられる。まず一つが刀を注文した主が自分よりも高貴な人間であったか。これに関しては諸説あるが、刀が作られていた当時、注文主が自分よりも高貴な人間だった場合、刀に自身の名前を彫るのは無礼に当たると考えられていたため、あえて名前を彫らず無銘の刀を渡したというのがある。そして、二つ目は、ほとんどの場合はこれに当たるのだが、当時大量生産していた刀には銘を切らない、というのと注文していくつか作った内、注文主が気に入ったものに銘を切り、他の刀には銘を切らなかった、いわゆる『真打』『影打』であったというのが挙げられる。


 さて、以上を踏まえた上で無銘の刀がなぜ存在するというのが理解できたと思われるが、読者の諸君はこう思うはずである。


『西木は、あまり価値のない刀を集めているのではないか?』と。


 無論、そう言われて何も反論できないというのが少し痛い点ではあるが、かといって無銘だからイコール価値のない刀とは限らない。なぜならば、無銘の刀にも出来が素晴らしい刀はいくつも存在しており、その中では国宝に指定されている作品もいくつか存在する。尚かつ、大量生産の数打ちとはいえども裏を返せば、一振りの刀を作るのにあれだけ頭の痛くなるような工程をいくつも踏んで出来上がったものを、しかも当時の武士に行き渡らせるように作り上げたという執念、努力というものを鑑みることのできる他にはない歴史的資料だからである。


 故に、私はこう思う。在銘と呼ばれる銘が切られた刀と同様に、無銘の刀にもきっと価値があると。少なくとも、私の手元にある刀は決して無価値ではない。


 前置きは以上。


 ここからが私にとっての三題噺の本編である。


 ここまでついてきてくれた読者諸君。あなたたちはおそらく、このサイトにいくつも広がる無名の作品たちの海をかき分けてたどり着いてきてくれた唯一、ただ一人の読者だ。


 あなたたちに問いたい。


 無名の作品、あるいは無名の人間に、価値はないのかと。


 多くの人は言うだろう、無名であること自体が価値がない。


 私も、小説を書いていて友人にそう言われた経験が幾度もある。陽の目をみていないのは面白くないからだ、だからお前の作品に価値はない。


 あえて言おう、私も以前は同じ気持ちだった。無名の作品に価値はないと。


 故に、何も反論ができなかった。だから、多くの作品を頭の中で浮かべては消して、何度も繰り返してきた。だが、そうやって生まれてきた作品は、残念ながら日の目を見ることは未だにない。自分自身になんの価値も存在しないという己自身が認めた事実で胸が苦しくなったこともあった。


 だが、それを繰り返してきた自分に、本当に価値はないのか。


 刀を蒐集し、私は思った。無名であることにもきっと、価値は存在する。


 そして、その価値を見出せるのは他でもない、自分自身なのだ。この刀の太刀姿も、刃文も、手にした時に感じるこの重さ、振った時の美しさ、そこから想像できるその刀が持つ歴史の深さ。


 その全て、


 その全て、


 その全てこそ。


 他の人間には出せない、自分にしか見出せない、唯一無二の価値なのだと。


 負け犬の遠吠えなのかもしれない。無価値な自分が見出す価値など、他の人間に比べたら、その辺の石ころにすら及ばないのかもしれない。だが、一つだけ確かなことがある。


 自分だけが、自分自身に価値を見出せる『最後の一人』だ。


 『名前』を与えられていない、無銘のあなたよ。


 『偶然』ここで、出会ったあなたよ。


 無銘の美しさを持つ、この世界で唯一のあなたよ。


 この名もなき祈りが、一人でも多くの読者に届くように。

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