「そんなら測るか。エビのカルシウム食ったけえ、伸びたんじゃね」


 こっちが本気か冗談か迷う口ぶりで立ち上がり、ビール瓶ケースの上にあるカードゲームの缶に手を伸ばすハルジオン。僕は息を止めていた。凝視するってこういうことか、って思った。


 中身を見、変化に気づいたハルジオン。


 その光景は何度も繰り返し観た映画のように、十数年経った今でも僕は鮮明に思い出せる。一瞬にして首筋まで紅潮していく横顔、噛みつくように僕を見やった鋭い視線。あの黒々とした瞳は、僕の胸を刺した。


「おばあちゃんからもらってきたんよ」


 口早に訴えていた。まるで暗記した劇の台詞のように、言葉を続ける。


「学校のはようない。先生が気づいたらどうするん? じゃからそれを使おう。他の色がええんじゃったら交換してくる。白とピンクに青もあったけえ——」


 でもそれ以上続けられない。

 ハルジオンが三角チャコを割り、投げつけてきたから。


「サマー」

 その声は甲高く声変わり前のものだけれど、僕を殺すには十分だ。

「おれはこんなん使いたくねえんじゃ、ぼけが」

「でもな」

「返してけえよ。どうせばあさんの盗んできたんじゃろ」


 違う。そう言いたくて言えない。そう僕は祖母の裁縫箱から盗んできた。くれない?などとねだったりもしていない。祖母がいない隙にコソコソと盗ったのだ。


 でも祖母は三角チャコのひとつがなくなったとして、そのことに気づくだろうか? もし気付いたとして、欲しかったから、と言えばそれで終わるじゃないか。


「ハルジオン、学校のチョークを使うんはよくない」


 もう一度強く言う。何とかして張り詰めた空気を蹴散らしたかった。でもハルジオンの怒りは爆発していないだけで今にも殴りかかってきそうだった。


 自分より小柄な彼がものすごく怖く感じた。僕は泣く寸前だった。泣いてしまえばハルジオンも許してくれるだろうか。でも自分が間違っているとは一つも思っていなかった。間違っているのは彼なのだ、ハルジオンが悪いのだ。


「あれはおれんじゃ、返せやサマー。こけぇ返せよ」


 ハルジオンは投げ捨てていたカードゲームの缶を蹴飛ばした。びくりと反応する僕に、彼は皮肉気な笑みを浮かべる。


「学校のはおえんて。無理じゃが」

「は、なして? おめえのばあさんのじゃって、おえんじゃろ」

「せえはだって、……だってぼくんちのじゃし、おばあちゃんは家族じゃろ。盗んだんとは違うわ」


 この言い訳が矛盾をはらんでいるのは当時だってわかっていた。僕とハルジオン。どちらも同じことをしている。相手が学校か祖母か。盗みは、盗みだ。


 けれどその違いはあまりに大きい。その違いをわかろうとしないハルジオンに腹が立ち、また、その違いをうまく伝えられていない自分にも悔しさが湧いた。


 でもそれ以上何も言い返せず、説得できそうにもなく。僕は涙をこらえながら黙り視線をそらすことで、何かが変わるのを待つしかできなかった。


 それで結局、


「もおええわ」


 先に口を開いたのはハルジオンだった。


 嘆息交じりに言い捨てると、彼は果樹園から出、坂を走り去った。自転車の急ブレーキの音がキューイと聞こえてきても、僕はその場から動けなかった。コケキョ。やけに見事に、まるで果樹園の空間の上からそっと置くように、ウグイスが鳴いた。傾いた太陽は木々の裏に沈み、差し込む陽は目を刺激してくるのに、辺りはひやりと冷たくて。僕は寒いな、と。体を温めたくて駆け出し、家に帰った。


 翌日。果樹園にハルジオンは来なかった。その翌日も翌々日も。


 でもいつもは「行かない」とハルジオンに伝えていた土曜日の午後、僕は果樹園に行って缶の蓋を開けた。そして中身に気づいた瞬間、缶を放り投げていた。クレヨンのように並ぶチョークが箱ごと入っていたのだ。


 ばくばくする心臓のまま恐ろしい思いで缶を拾い、蓋を強く押さえつけて閉める。そうしてカラスノエンドウが伸びている中に潜りこませると、僕は果樹園から飛び出した。


 それからだ。僕は小学校を卒業しても、中学校を卒業し高校を出て他県の大学に進学してからも、帰郷で祖母を訪ねることはあっても、絶対にあの果樹園には行かなかった。家の裏手に行くのすら葛藤が芽生え、遠くからだとしても果樹が——特にあのさくらんぼが——目に入るのを嫌った。一瞬でも触れてしまうと呪われると言わんばかりに、あの場所を避け続けたのだ。


 やがて祖母も高齢になり果樹の世話が難しくなると、果樹園は年に数度、父が下草を刈るだけで、あとは放置するようになった。手伝いを頼まれたこともある。でも怪訝に思われようが僕の足はあの場に向くことはなかったし、二度と行かないと決め意固地に突っぱねた。


 それはハルジオンを拒絶したと同義だった。彼との交流はあの口論で潰えた。彼が何か言ってくるかもと気にしていた時期もあったが、学校でのハルジオンは……いや果樹園で会うからハルジオンなのであって、それ以外で会う彼はいつもの彼のままだった。


 挨拶すらしない、視線を合わせない、同じ空間にいると気まずくなる。それは仲違いしたからではなく、以前からそうだった。彼は「関わると損をする厄介者」なのだから。


 小学校は一クラスしかなかったが、中学からは学区が広がり四クラスに増えた。僕は三年間一度も彼と同じクラスにはならなかった。でも彼は目立つ生徒だったから登校していればわかった。


 騒々しいグループの中でリーダー格のような存在になっていくハルジオン。たとえ一人でいようが、ただ黙って歩いているだけだとしても、どうしてだか周囲を落ち着かなくさせる生徒。うんと遠い人、そう感じた。


 彼と僕が「サマー」「ハルジオン」なんて呼び合っていたなどと、誰が聞いても信じないだろう。でもそんな彼を見かけたのも中二まで。何がきっかけが知らないが、彼は学校に来なくなり、その後の進路を僕は知らない。


 最後に見かけたのは、確か高校に上がる前の春休みだ。夕食に家族で回転寿司を食べた帰りの車内から彼を見かけた。ハルジオンはヘルメットを後頭部に当てるようにして原付バイクに乗り、後部座席にいた僕のすぐ横を通り過ぎた。


「さっきの」と母が言った。ハルジオンに気づいたのかと思い、僕は口を開きかけた。——くんだったよね、何でバイク乗ってんだろ、と。でも続いた言葉はハルジオンとはまるで関係のない話題で、矛先も僕ではなく父だった。


 一瞬だけした緊張。それが勘違いだとわかると、ハルジオンの様子が気になり振り返った。でも見えたのはハルジオンではなく後続車だけで、運転席の男性と目が合いそうになり、僕は急いで姿勢を戻した。


 そして。


 僕は大人になり、サマーとハルジオンは子ども時代の思い出、誰にも話していない秘密になったのだが、僕はもう二度と、本当にもう二度とあの場所には行けなくなるんじゃないと感じたら、無性にあの場に立ちたくなったのだ。


 ハルジオンとの思い出は特別で、苦い記憶であると同時に優越を産む記憶だ。果樹園で僕は「サマー」という別の人物になっていたように感じる。僕はサマーを迎えに行きたい。新天地で生きる僕には彼が必要だから。


 でも果樹園にいたのは「サマー」だけじゃなかった。当然、「ハルジオン」もいた。そしてさくらんぼの木だけがある場所でもない。ビール瓶ケースの上にある錆びついた缶が僕にそれを教える。


 最後に見た缶に中には新品のチョークが箱ごと入っていた。ずらりと並ぶクレヨンに似たチョークの真っ白な色は、あの日の僕を怯えさせた。でも十数年後に見た缶の中にあったのは、砕けた三角チャコ、そして茶色に変色したわら半紙のプリント。


 四つ折りにしてあったプリントは「参観日のお知らせ」だった。裏に文字が書いてある。僕はその短い言葉を三回読み返した。


 そしてプリントは缶に戻し、砕けた三角チャコの一かけらを持つと、さくらんぼの木の下に行って幹に背をつけた。頭の位置で線を引く。黄色い線が幹にくっきり残った。それは今日新しく見つけた線、薄くなりかけている黄色い線の横、ほとんど差のない位置だった。


 錆びたカードゲームの缶、それから祖母が椅子代わりにしていたビール瓶ケースも持って僕は果樹園を出ることにした。そうして細い坂道を下っている途中だ。燕が前を横切った。


 燕は腹を地面にこするように低空すると弧を描いて舞い上がる。一羽だけが飛んでいく。取り残されて必死に仲間を探しているのか。僕の目には燕の上下する羽ばたきは溺れてあがいているように見えた。がんばれ。そう思った。だから燕が小さく空に溶けていくまで眺め続けた。


 生温い風が通り抜けふわりと甘酸っぱいさくらんぼの香りがした気がして、僕は果樹園を振り返った。茂る雑草の中、ハルジオンの花が手を振るように風に揺れている。駆け戻りたい衝動と共に、僕は強く缶を握り締めた。


『サマー、ごめん。また遊ぼう?』


 プリント裏の文字を、僕は生涯忘れないだろう。

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春にさよなら 竹神チエ @chokorabonbon

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