この果樹園が僕の祖母が育てているものだと、ハルジオンは知らないでいた。でもそうとわかったからといって彼の態度は変わらない。以前から果実を勝手に食べに来ていたと話し、


「さくらんぼ、なったかな思うて。でもまだ早かったなあ」


 と緑色の実を見上げて笑う。でもその横顔は僕の反応を見るように抜け目ない。口ごもり下を向く僕はさぞ惨めな姿だったろう。でも何が出来る? 相手は学校の問題児、こっちはただの太っちょだ。最悪、今日は厄日。盗人がいるって、おばあちゃんに話したほうがいいだろうか? 


 そう僕が混乱し続けていると、ハルジオンは「またな」と突然言って走って坂を下りて行った。家の裏手とは反対側に自転車をとめていたのか、少しすると、きゅー、と軋んだブレーキ音が聞こえてくる。あの自転車も、捨ててあったのを拾って来たとか、駐輪所から盗んできたのだとか、そういう噂を聞いたことがある、いわくつきのものだ。


 ……という、この出来事は、僕にとって衝撃的だった。自分のテリトリー、安全圏の祖母の果樹園に、先生も手こずる学校の厄介者が突然入り込んできたのだから。でも果樹を盗みに来ていることばバレたのだ。もう二度と来ないだろう。


 と思っていたら、ハルジオンは翌日にはもう来て、「お前、昨日何しに来たん? この山、お前んちの? タケノコ生えるんか?」とやけに食い意地の張った質問攻めにあった。「フキを採りにきただけ」と、もじょもじょ答えると、「せえはいらんわ」とこっちが申し訳なくなるほどきっぱり言われてしまった。


 だから僕は祖母の台所からこっそりクッキー缶を持って来て彼に渡した。持って帰るかと思いきや、彼はその場で食べ、残りは「明日食う」と言って突き返してくる。


「ほんなあ、また」


 また、は、やっぱり学校の教室じゃなかった。


 祖母の果樹園。今日も来ているだろうか、来ていたらどうしよう。でも行かないと家のほうまで呼びに来るかもしれない、なんて、おどおど見に行けば、ニカっと笑い片手をあげる彼がいる。


「何か食うもん持って来てえや」


 こういうのをカツアゲというのだろうか、と思ったのを憶えている。


 果樹園は祖母宅の裏手、坂を上がった場所にあり、平屋の屋根と同じ高さに存在する。だから祖母が窓から裏を見ても僕らの姿は見えない。実際に祖母から、そして他の家族からも、「友だちが来てるんか?」と聞かれたことはなかった。


「まだ実があこうならんし。今年おせんじゃね?」


 さくらんぼを見上げて、赤く熟すのを待つ彼。この時だったと思う。お前はサマー、おれはハルジオンな。そう呼び合おうと言い出した。


 黒糖飴なんか欲しがるだろうか、とおずおず渡したら喜び、それが嬉しかったのか、ハルジオンは急にそう決めたのだ。その瞬間、僕は鎖に繋がれたように感じて怯えてしまったのだが、その日の夜、風呂に入っている時に沸々と喜んでいる自分にも気づいてしまった。


 僕は怯えながらもハルジオンと過ごす時間が楽しくなっていたのだ。厄介者のハルジオンとうまくやっていけている僕は、何かとても価値のある人物のような気がして誇らしかった。ハルジオンが一方的に決めた呼び名も虚栄心をくすぐった。秘密がある日常は甘くて愉快だ。今日は何を持って行こう。下校時にはその事ばかり考え、駆け足で帰宅するようになった。


 きっとあのまま交流が続いていたのなら、ビワが熟れるのを待ち、イチジクやカキの収穫を待ちわびるハルジオンの姿を目にしたかもしれない。でも僕が見たのは激怒する彼、そして別れだ。僕らの関係はあっさり切れてしまったから。


◇◇◇


 それはさくらんぼの時期が終わり、新緑が眩しい頃。陽射しがますます強くなっていく日々の中で起こった。


「あんな、けえで測った身長書こう思うんじゃけど」


 ハルジオンがポケットから取り出したのはチョークだった。角に丸みはなく、ぴしりとしている。新品に見えた。教卓に保管してある予備のチョーク。僕は瞬時にそう考えた。


 きゅっと心臓が跳ねた。彼は盗んできたものを僕に見せ、渡そうとしてくる。そんなものに関わりたくない。


 それでも僕は彼の望み通りに行動していた。さくらんぼの幹に背をつけ、顎を上向けて待つハルジオンの頭がある位置に、チョークで線を引く。ぽきりと折ってしまいそうなチョークが、まるで僕の境地を示しているようだった。


 その心理を彼に悟られたくなくて、楽しんでいるのを強調しようと「これでええ?」といつもより声を張っていた。でもチョークを手渡した瞬間に見せたハルジオンの微笑を思えば、僕の誤魔化しなんて、すべてお見通しだったろう。


 その日から僕はハルジオンに会うのが苦痛でならなくなった。彼のペースに巻き込まれているのがわかるのに、上手いかわし方が見つけ出せずにいたから。


 でもハルジオンが果樹園に来なきゃいいのに、とは思っていない。教室では遠巻きに見やるだけのハルジオン。でも果樹園で会えば、僕をサマーと呼び、笑顔さえ見せるのだ。そんな彼との時間を完全になくしてしまうのは惜しい。


 チョークが問題なんだ。それ以前は楽しく遊んでいた。あの頃に戻せないだろうか。チョークはカードゲームのスターターボックスが入っていた缶に入れていた。当時クラスで流行っていたキャラクターカードだったが、ハルジオンはてんで興味がなく、カードで遊ぶことはなかった。


 でも缶だけは気に入ったようで、チョークを入れると宝箱でも持っているかのように嬉しそうにした。そして祖母が椅子代わりにしているビール瓶ケースの上に置くと決めた。僕は祖母が見つけたら中身を見るだろうか、何を言うだろうか、と不安でならなかったのだが、ハルジオンに意見する勇気はなかった。


 お菓子を食べ終わるとさくらんぼの木で背を測り、チョークで印す。そんな約束事が出来上がって五日くらいだったと思う。体感ではもっと長い期間のようだが、記憶を掘り越して見れば、それっぽっちの日数だったろう。


 その日の夕方、いつものように遊び、ハルジオンがあぜ道の角を自転車で曲がる姿を見送ると、僕は果樹園に駆け戻った。そうして缶の中のチョークを祖母の裁縫箱で見つけた三角チャコと取り換えた。


 そして翌日だ。僕は賑やかな昼休みに何気なくを装って黒板に近づき、ポケットから出したチョークを溝に置いたのだった。重大な任務を終えた気分で、汗までかいていたのを憶えている。


 その日下校すると、僕はランドセルを部屋に置き、携帯ゲーム機を持って祖母の自宅へ向かった。この日は祖母が週刊の漫画雑誌を買ってきてくれていたから居間のテーブルに置いてあったそれを手にし台所へ。棚からエビ煎餅、冷蔵庫では野菜ジュースの紙パックを見つけて、それを持って行くと決める。


 心臓がどくどくしていた。ハルジオンは今日も来ているだろう、もう来ているだろう。でもまだあの缶の中を見てはいないはずだ。いつもお菓子を食べてから背を測る、だからまだ知らないはずだ……。


 果樹園に続く細い坂道を駆け上がるも、逃げ帰りたい気持ちも芽生えていた。それでも「おー、最新号?」と漫画雑誌を見て喜ぶハルジオンに迎えられ、今日は機嫌が良い、きっと楽しく遊べるだろうと自然と浮き立つ気持ちになる。でもエビ煎餅を噛みながら飲み込めず、喉がつかえる思いがして、ついにその時が来てしまった。


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