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小学五年生の晩春から初夏にかけて、僕はクラスメイトの一人と風変わりなあだ名で呼び合っていた。
サマー。
これが僕。
ハルジオン。
それが彼だ。
当時の僕は太っていて汗っかき、手は常に湿っているような子だった。
だから彼は——ハルジオンは、僕をサマーと名付けたのだろう。
一方で彼が自分をハルジオンと決めた理由が、あの頃の僕には全く理解できなかった。
ハルジオンといえば白い小花が可愛い草花だ。でも彼がハルジオンらしかった点は小柄な体型くらいで、あとは全く似つかわしくない子だった。
今思い返せば、あれは気にかかる痩せ方だったと思うし、彼は粗暴だったが図書室で図鑑を広げている姿だって見かけたことがあったから、花言葉か何かで皮肉も込めて自分を「ハルジオン」と呼ばせたがったのかもしれない、などと連想するのはあれから何年も経過したのちのことだったけれど。
僕の中でハルジオンは乱暴でわがまま。しゃべり方は常に命令口調で、同級生だけでなく、先生に対しても言い返したり無視したりする問題児だ。
あれは静かに食べていた給食の時間だった。自分を見て笑ったという理由で、ハルジオンは向かいの席の子に牛乳瓶を投げつけたことがある。
相手は普段から物静かな真面目な女子。牛乳瓶は顔にあたり、まともに牛乳を浴びた彼女は泣き出してしまった。
どちらが悪いかなんて僕らには明白だった。ハルジオンは厄介者。怖い。関わると損をする。そんな子だったのだ。
僕の通った小学校は一学年一クラスで、しかも同級の男子は全員で八人だった。でもみんな仲が良いというわけでもなく僕は登下校が一緒の子たちと親しく、ハルジオンは年上の子とつるむか、一人で行動してばかりいたから、彼と二人きりで遊んだのは記憶にある限り、あの春の一時期だけだ。
「ハルジオン」
「サマー」
二人だけ、それも祖母の果樹園にいる時にしか使わない特別なあだ名。
僕の平凡で他愛ない人生における突飛な瞬間は、あの短い晩春に凝縮していた。そしてあの日々のこと、僕は誰にも話した事はなく、僕が「サマー」だったと知るのは、ハルジオンだけ。
乱暴者のハルジオンとの交流は、僕らしくない。でも別の側面では僕自身に別の一面を見せもする特別な経験だ。でもこうも思うのだ。僕とハルジオンは決して親密な時間など一瞬も共有したことはないのだ、って。
◇◇◇
「ハルジオン、けえ食べる?」
生ぬるい春の風が吹いていた。
祖母の家から持ってきた醤油味の煎餅を、ハルジオンは「ありがとう」も言わず奪い取り、がつがつと食べていく。そんなに食べたら晩ごはんが入らなくなるよ、なんて心配は口に出してはいけない。
そんなこと言えば鼻で笑われ、最悪の場合、ハルジオンは怒りだし帰ってしまう。何度かの失敗を経て接し方のコツを徐々にわかるようになってきていた僕は、少し得意げにハルジオンを観察し、言葉を選び、示す態度を選択した。
まるで猛獣を扱う調教師の気分。しかしそう思っているとは悟られないよう感情は奥底に潜ませている。
春は終わりかけていた。陽射しは肌を焦がしてくるけれど、木漏れ日の下に座っていると地面は冷たくひやりとする。見上げたさくらんぼの枝には、赤色の果実がひしめき合うように実り、ほんのり甘酸っぱい香りを辺りに漂わせていた。
自由に食べていいよ、と祖母が食器棚の下段に入れて準備してあるお菓子類から、僕が好まないという理由で持ってきた醤油味の煎餅は、大袋に半分ほどあったのだが、ハルジオンは一気に全部食べてしまった。そして、まだ物足りなさそうにして舐めた指をズボンで拭い、「デザート食うか」と機嫌よく立ち上がる。
跳びあがり上のほうの枝からさくらんぼを引きちぎるハルジオン。たわんだ反動で熟しきっていた実がぼろぼろ落ちる。ハルジオンは地面のそれも拾うと軽く息を吹きかけて口に放り込んだ。
「そろそろ食えんくなるな」
熟しきり旬が過ぎたさくらんぼは、鳥すらついばむのに飽きたらしく、最近は防鳥ネットも外したままでいた。それでもハルジオンは名残惜しそうにさくらんぼを見上げる。
「ずっと採れりゃあええんになあ」
また跳んではさくらんぼをもぎ取る。軸につかまっていられない実がぼろぼろと落ちてきて甘酸っぱい香りが強くなる。
「そねん好き?」
僕はあまりさくらんぼが好きじゃなかった。毎年数個食べたら十分。祖母に「せっかく採って来たんじゃから食べない」とせっつかれて仕方なく食べる程度。でもハルジオンを見ているとさくらんぼがとても貴重に思え、この春は何粒も食べていた。今日も彼の名残惜しさが伝わって来るのか、盛りを過ぎた果実を見ていると残念に思えてきた。
「食えるのがええが」とハルジオン。
「なまでも食えるし。果樹、ええよな」
じゃったら、ハルジオンちも植えたら、と危うく言いかけひやりとする。そんな言葉を投げかけたら、ハルジオンは一睨みして「は?」と言い返してくるだろう。せっかく上機嫌でいる彼を怒らせたくない。
僕は傍らに落ちていたさくらんぼを拾おうとし、やめて手を引っ込める。何とはなしに指を組んで拾おうとしたソレを見やる。実に登る蟻が目に入ったから食べる気が失せたのだ。ハルジオンはちゃんと確かめて口に入れているのだろうか。気になってしまうが、その忠告だって「は?」が怖くて言わずにおく。
ハルジオンは飴のように種を転がしてしばっていたが、ぷっ、と吐き出すと僕の向かいに胡坐をかいてすわった。それから漫画雑誌に手を伸ばす。
「けえ最新号?」
「うん。おばあちゃんが今日こうてきてくれたやつ」
軽く顎を突き出すようにしてうなずき、ハルジオンは漫画雑誌を開くと、それからは黙って読み始める。僕はゲーム機にスイッチを入れた。モンスターのレベルアップに勤しみつつ、ちらちらと彼の様子をうかがう。
下校すると果樹園に向かい、その日選んで持ってきた菓子類を食べる。そうしてから漫画を読んだりゲームしたりする。柿の木に登ったり四葉のクローバーを探したり。ただただ学校の授業が嫌いだとか愚痴を言うだけの会話をし続けることもあったけれど、果樹園から出て、どこか二人連れだって遊びに行くことはなかった。
そうして日が暮れてくると、ハルジオンは「ほんなら帰ら」と言って、さっさと一人、坂を下りて行く。
休みの土日は「来ない」とあらかじめ伝えてあったが、彼がどうしていたのか、一人でも果樹園に来てさくらんぼを食べていたのかどうか、僕は知らない。
そんなハルジオンとの奇妙な交流が始まったのは、さくらんぼの花が散り、硬い緑の実が突き出した頃からだった。偶然、果樹園で出くわしたことがきっかけだ。祖母の頼みで果樹園の隅に生えるフキを取りに行った僕は、果樹を盗みに来ているハルジオンと運悪く鉢合わせてしまったのだ。
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