改稿版
1
いつかアメリカで仕事がしたいと言っていた恋人が、ついにその職を得てしまった。しまった、というのはあんまりか。留学でも出張でもなく、移住ってことになるらしい。
だから別れよう、なんて展開になりかけ、僕がした決断が、「自分もついて行く!」だった。
ぱっとしない人生を送る僕が起こしたこの決断は、周囲を驚かせたようだ。英語なんて話せないでしょう、仕事はどうするの、だって。確かに僕は海外ドラマは観ても海外旅行になんて一度も行ったことがない人間だ。
それに相手はアメリカ様だぞ。日本なら平和ボケで済むミスもあっちならピストルでバンなんて悲劇が起こりかねない。僕はあまり賢い方じゃないし、俊敏でも機転の利く方でもないのだから。
でも僕はあまり後悔したことがないし、これからも後悔なんぞしない人生を送りたいと常々思っている。
だから、別れの理由が「アメリカでの仕事」なら、ついて行くくらいするさ。それにモブ道まっしぐらの僕だって、時には奮起することがある。それが今ってわけだ。
でもそうと決めてしまえば、気にかかることが一つできた。さくらんぼ。小さな果樹園にあった、あのさくらんぼの木はどうなっているだろう。もしかしたら二度と見に行けないかもしれない。僕は異国の地に骨を埋めるかもしれないのだから。
そういうわけで、僕は久しぶりに祖母の自宅を訪ねることにした。あのさくらんぼは数年前に亡くなった祖母が育てていたものだからだ。家の裏手にある小さな果樹園、そこに思い出のさくらんぼの木が植えてある。
渡米の手続きでイラついてばかりの恋人を置いて、僕は「最後のドライブだ」と免許を取って以来乗ってきた軽ワゴンを走らせた。
市街地から田畑が広がる田舎へ。平屋で赤茶色の瓦屋根をしている家、それが僕のおばあちゃんちだ。門前で停車したまでは楽しい気分でいた。でも車から降り、一歩敷地に入ってすぐ、その小旅行気分はしぼんでしまった。
僕の実家はすぐ近く、田んぼを挟んだ向かいの通りにあり、そこへはちょくちょく里帰りしていたものの、空き家になった祖母の家までわざわざ足を運ぶことはなかった。
だから最後に訪ねたのは、祖母が亡くなった年の冬だから、三年程前か。その時にはまだたくさん家主の気配があちらこちらに潜んでいて、祖母の匂いが漂っているようだったのに。
その懐かしい気配は三年の月日でなくなっていた。玄関先に並べてあったアロエの鉢植えは枯れて土だけになっているし、窓ガラスですら呼吸をやめて乾いているように見える。
家にも生命力があったのだ。見た目は記憶の中にあるおばあちゃんちのままでも、まるで映画のセットのように薄っぺらく感じてしまう。
子どもの頃にもらった合鍵は持ったままだったから、中も覗いてみる気でいたのに、とてもそんな気にならなくなった。早く果樹園にだけ行って帰ろうと思う。
裏手に回ると家の生命力はますます消えた。
当たり前なんだけど、空き家なのだな、と感じて寂しくなった。家の裏手にあるのは山だ。そこには貯め池もあるからか、空気に湿気を感じて、移動の車内では春なのに暑くて汗ばんだというに、寒気すら覚える。
ナイロン製のジャケットを着ているので、動きにあわせてシャッシャと鳴る音がやけに響く。その音が他人が鳴らす音のもののように聞こえて、一人でいるはずなのに、誰かが追いかけてくるような変な気持ちになってしまい、僕は何度も足を止め耳を澄ましてしまった。
怖くなってきた。昼間なのに肝試ししている気分だ。と、その気持ちを和ませるようにウグイスが鳴いた。続けざまに何度も鳴く。でも調子はずれで全然うまくない。下手。でも一拍置き、大きくはっきり鳴く声は上々だった。
「お、うまいじゃん」
思わず声に出していた。馬鹿みたいに神経質になっていたようだ。ほっと肩の力が抜ける。
最近では鳥の声なんて意識してなかったが、昔、友だちとの遊びが世界の中心だった頃は、この歌声を聞き、笑い、ウグイスを馬鹿にしては、見本だといって鳴き真似をしていた。そんな追憶が温度をともなって周囲に溶け、春の温もりと一緒に僕を包んでいく。
目当ての果樹園は小高い場所にあり、平屋の屋根と同じ高さにある。裏手の農機具が置いてある小屋の脇。そこから伸びる細い坂道を上がれば果樹園はすぐそこだ。僕は坂を登る途中一度立ち止まり、深呼吸した。ここに再び来るまで長い時間が経過している。
小五のあの日以来だ。苦い経験をし、二度と来るものかと避け続けた場所。十数年年ぶりに踏み入った果樹園は荒れ果てていた。
定期的に父が下草だけは草刈り機で刈っていると聞いているけど、まだ整備前だったらしく、春の盛りの今、カラスノエンドウやシロツメクサが生い茂り放題だ。これでは蛇が出てもわからない。
用心しつつ草を踏んで進む。雑草たちの勢いに反し、残念ながら果樹のほとんどは枯れていた。見上げるほどだったビワの大木は根本に残る幹だけになっていたし、木登りしたカキの木は、枝が荒っぽく折れたままになっていて、枝先にほんの少し葉をつけているだけ。
記憶の中にある果樹園とは全然違う。緑が頭上一杯に広がる空間で、きらきらしていたはずなのに。記憶違いかと自分を疑いたくなるほどの様変わりだ。頼りなくてちっぽけな果樹たちに落胆し、何をそんなに期待していたのかと自分を笑いたくなった。
それでもあのさくらんぼの木は枯れずに存在するのを見て心の底から安堵した。こうでなくては。枯れて根本すらわからなくなっていたら、僕は「来るんじゃなかった」と逆に後悔しただろう。
さくらんぼの木はみすぼらしく、ほとんどの枝が枯れてしまっているけれど、かろうじて、まばらに緑色の硬い実をつけていた。そして背比べをしたあの印まで残っていた。
ゴツゴツした幹に残る白いチョークの線。一本、二本、三本……。僕が書いたもの、それから彼が書いた僕の背丈。でも覚えがない黄色の線まで幹には引いてあった。
その黄色の線は白い線に重なるように数本、そして近づいてもっと丹念に探してみれば、視線をやや上に向けた位置に一本引いてある。まさか、そんな……。
胃の底が搔き回されるようにざわざわした。辺りを見回す。ここへ上がって来る前に感じた寒気がまたする。子ども時代を懐かしもうとしていた大人ぶった気持ちが、あっというまに引っ込んだ。
さくらんぼの木は見た。だからもう帰ろう。足早に立ち去ろうとして、ふとそれが目に留まった。
祖母が椅子代わりに使っていたビール瓶のケースが、今もまだあった。その上。当時ここに置くと決めた場所に、その缶はまだあった。鼓動が騒がしくなる。迷い、用心深さより気になるほうが勝って缶に近づく。すっかり錆びついている。
元々はカードゲームのデッキを入れておくための缶で、小学生時代に人気だったキャラクターのイラストが描かれてある。そのキャラクターに浮く茶色の錆が月日の経過を思わせるけど、一方で忘れかけていたイラストを目にし、当時の感覚まで生々しく蘇ってきた。
僕はまた周囲を見回していた。いないとわかっているのに、まさかって気持ちで焦り胸が痛くなる。手に取った錆びた缶を見つめた。軽く振ってみると音がした。からん。中に入っているのは……、そう簡単には開けられない。覚悟がいる。
それでも大人であることを誇示せんとばかりに思いきって蓋を開けた。中にあったのは複数に砕けた黄色の三角チャコ。
それから茶色く変色したわら半紙のプリントだ。
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