春にさよなら

竹神チエ

第1話

 十一歳だったあの頃。

 一時期、風変わりなあだ名がついていた。


 サマー。

 これがぼく。

 ハルジオン。

 それが彼だった。


 当時のぼくは太っていて汗っかき。手は常に湿っているような子だった。

 だから彼は——ハルジオンは、ぼくのことをサマーと名付けたのだろう。


 一方、自分をハルジオンと呼ぶよう言った彼のことを、ぼくはなぜその呼び名にしたのか不思議に思っていた。 


 彼がハルジオンらしかったのはその小柄な体型くらいで、野花が持つ愛らしさなんて、お世辞にも似つかわしくない子だったから。


 とはいえ、これらのあだ名は二人きり、あの場所にいる時にだけ使うもので、学校では互いに苗字にくん付けで呼び合う。もっとも、あいさつすら、まともに交わさないような、よそよそしい関係で、実際に名前を呼んだことはあまりなかったのだけれど。


 最初から、そしてあの日々も。ぼくとハルジオンは、決して親密な時間など共有したことはなかったのかもしれない。


 ぼくらの学校は一学年一クラスだったのだが、高学年になれば全員が仲良しというわけでもなかった。ぼくは家の方向が同じ子たちと親しくしていたし、ハルジオンは年上と仲が良く、小五のあの頃は、大方の時間、教室に一人でいたように思う。


 ハルジオンは、その痩せた小さな体型を以前からよくからかわれていた。それは今思い返せば気にかかる痩せ方だったけれども、当時はただそういう体型なのだろうとしか思わず、気の毒がるような感情は一切持っていなかった。


 またハルジオンのほうでも中傷に黙って耳を傾けるタイプではなかったものだから、同情を抱くにはあまりに厄介な性格をしていた。ちょっとしたからかいでも、彼は噛みつくように怒り喚き散らすので、周囲があっけにとられることもしばしばだったのだ。


 こんなこともあった。


 あれは静かに食べていた給食時間。ハルジオンは、自分を見て笑ったという理由で、クラスメイトに牛乳瓶を投げつけたことがある。瓶の蓋は開いていたし、その「笑った」と指摘した相手は、普段から口数の少ない女子だった。


 どちらが悪いかなんて、ぼくらは迷いもしなかった。

 ハルジオンは厄介者。怖い。関わると損をする。

 それが彼に対する、ぼくの認識だった。


 それが、あだ名で呼び合い、遊ぶ日が来るなんて。

 ぼくの他愛ない人生における、突飛な瞬間はあの短い期間に濃縮されているように思う。


「サマー」

 

 春が過ぎ去ろうとしていた。陽射しは暑いくらいでも、木漏れ日の下にいると肌寒くひやりとする。ぼくを見上げるハルジオンの瞳が、茶色く澄んでいたのを憶えている。


 彼は命じるようにチョークを突き出してくるのが常だった。サクランボの木の幹に背中をつけ、顎をしゃくるように上向ける。


 ぼくは以前引いた線の上に、ほんの少しおまけして新たな線を引く。本当は一ミリだって変化はないのだが、「見て、伸びてるよ」とぼくは彼を喜ばせるための嘘をつくのだ。


「よっしゃ」


 背を離し勢いよく振り返るハルジオンは新たに引いた線を消さないようそっと触る。満足げに微笑むのを見て、ぼくは安堵の息を陰でこぼした。


「次はお前な」


 チョークを奪い取り、ハルジオンは乱暴にぼくを幹に押しやった。彼が背伸びしながら線を引こうとしている隙に、ぼくは軽く膝を曲げる。


「サマーは変化なしだな」

「そっか」

「お前は横に伸びてんだもんな」


 ハルジオンはチョークを放り投げると、ぼくの腹部をつつく。笑いながら身をよじると、ハルジオンは意外にもあっさり手を引っ込め、関心をなくす。彼はぼくの体型を茶化しはしても、他の子のようにしつこくからかってくることは一度もなかった。


「あーあ、もうおわっちゃうな」


 ハルジオンは跳びあがり上のほうの枝からサクランボを引きちぎった。たわんだ反動で熟しきっていた実が幾粒も足元にぼろぼろ落ちてくる。


 ハルジオンと遊ぶようになったきっかけは、サクランボの花が散り出した頃に、果樹園で偶然出くわしたからだった。


 果樹園にはサクランボの他に、カキ、イチジク、ユズなどの木が植えてある。育てているのはぼくの祖母だったのだが、そのことをハルジオンは知らなかったようだ。


 ハルジオンは、ずっと前から果樹園に実る果実を勝手に食べに来ていたと、悪びれたところは一つもなく話した。かといって挑発的でもない態度に、ぼくは「そうなんだ」とあっさり言い返しただけだったけれど、この場に居合わせたことを気まずく思うのを隠せてはいなかったろう。


 ハルジオンの上目遣いの視線は、ぼくを値踏みしているようだった。それから彼は別れの言葉もなく走り去り、ぼくはその後ろ姿をまるで恥じ入るような気持ちで見送ったのだった。


 けれども、この日からハルジオンは頻繁に果樹園に来るようになり、ぼくはそんな彼を笑みをたたえて出迎えるようになった。小さな果樹園は家の裏手、坂をあがった箇所にあったから、たとえ祖母が窓から裏を見ても、ぼくらの姿はいつも見えなかったろう。


「ずっと採れりゃいいのに」


 ぼくがすっかり飽きているサクランボでも、ハルジオンは続けざまに何粒も方張り、跳んではもぎ取る。それから名残惜しそうに種を飴のように転がして長い時間しゃぶっていた。


「そんなにサクランボが好き?」


「べつに。食えるから、ずっとあったらいいと思っただけ。肉が木になるならそっちのほうがいいな。でもこいつは魔法の木じゃないだろ」


 ハルジオンは幹を蹴飛ばし、ぷっ、と種を吐きだした。そしてしゃがみ、幹に背をあずけるようにしてあぐらをかく。ぼくも向かいで体育座りして膝を抱えた。ハルジオンはぼくが持ってきた週刊雑誌の漫画をめくり始める。


 貸すよと勧めても、ハルジオンはいつもその場で読むばかりで、家に持ち帰ろうとはしなかった。それはサクランボも同じだ。何粒も食べていくハルジオンを見て、たくさん採って家に持って帰りなよ、とビニール袋を取りに家に戻ろうとしたことがある。でも彼は「盗んだと思われるからいい」と吐き捨て、その日はすぐ帰ってしまった。


 そんな似たようなやり取りを繰り返し、ぼくは何かを彼に持ち帰るよう勧めることはやめた。その代わり、漫画や菓子を持ち運び、彼と果樹園で一緒に過ごす。


 おばあちゃんが作った梅シロップをソーダで割ったジュースをこぼさないようここまで運んできて飲んだのがきっかけで、ピクニックみたいにして敷物を広げ、サンドイッチや飲料水、冷凍のパスタやたこ焼きを温めたものを並べて一緒に食べた日もある。


 スナック菓子にクッキー、煎餅。好きじゃないのに大量に常備してある黒糖飴だって、ハルジオンは美味そうに口に運んでいた。


 ハルジオンと過ごす時間が楽しかったのだと思う。得意になっていたともいえるかもしれない。クラスの厄介者のハルジオンとうまくやっていけている自分は、何かとても価値のある人物のような気がしていた。今日は何を持って行こう。下校時にはそればかり考えていたくらいである。


 ハルジオンが一方的に決めた二人だけの特別な呼び名も、ぼくの得意げな気持ちを膨らませるに十分だった。ハルジオン、サマー。くすぐったくて嬉しかった。秘密を共有することは甘く、そしてぼくのちっぽけな虚栄心を満たしたのだろう。


 でもその得意げな気持ちは、彼がチョークを持ってきたことで陰り始めた。木の幹で身長を測りたいから、と見せてきたチョークは白く真新しかった。教卓に保管してある予備のチョーク。ぼくは瞬時にそう考えた。


 ハルジオンにいわれるまま、幹に線を引いたけれど、心臓がきりりと痛んだ。そのことを彼に悟られたくなかった。でもチョークを手渡した瞬間に見せたハルジオンの表情を思えば、すべてお見通しだったろう。


 いつもそうだった。ハルジオンは簡単にぼくの心を見透かすし、ぼくはハルジオンの心理を察して視線を逸らす。


 それでも、ぼくはどうにかしてハルジオンとの時間を引き延ばそうとしていた。教室では遠巻きに見やるだけのハルジオン。でもここへ来れば、ぼくをサマーと呼び、笑顔さえ見せるのだ。


 ハルジオンが持ってきたチョークは、カードゲームが入っていた小さな缶に入れ、サクランボの木の下に投げていた。ハルジオンがそうすると決めたからだ。


 でも、ぼくはどうしてもそれがここにあるのが我慢できなくなって、数日後、こっそり学校の黒板にそのチョークを返した。そして代わりに祖母の裁縫箱から黄色の三角チャコを見つけてきて缶に入れた。


 あの日、背を測ろうと缶を開け、中身に気づいたハルジオンの様子。


 今でもその場面だけは何度も繰り返し観た映画のようにくっきり思い出せる。さっと首筋まで紅潮していく横顔。鋭く向けられた視線。ぼくは怖くなってハルジオンが怒鳴り出す前に、「おばあちゃんからもらってきたんだ」と口走り訴えた。


「学校のはよくないよ。先生が気づいたら怒るだろうしさ。だからそれを使おう。他の色がよかったら交換してくる。白とピンクに青もあったから——」


 と、続ける言葉に、ぼくはどんな救いを見出したかったのだろう。ハルジオンは角が削れ、丸み帯びている三角チャコを二つに割ると、ぼくの腹に向かって投げつけた。


「サマー、お前、明日学校行ったらチョークとって来いよ。こんなの使いたくねぇから」

「でも」

「それは戻して来いよ、どうせ盗んできたんだろ」


 そう、ぼくは祖母の裁縫箱から盗んできた。でも祖母は三角チャコのひとつがなくなっていることに気づくだろうか?


「ハルジオン、学校のチョークを使うのはよくない」

「あれはおれのだ、返せよサマー、ここに」


 ハルジオンは缶を蹴飛ばした。びくりと反応するぼくに、彼は皮肉気な笑みを浮かべる。


「学校のはだめだって。無理だよ」

「どうしてだよ、おまえのばあさんのだってダメじゃんか」

「それは、だって。だって、それはぼくんちのだ。おばあちゃんは家族だし、それに盗んだんじゃなく借りてきたみたいなものだよ。だから」


 ぼくだってこの言い訳が矛盾をはらんでいるのはわかっていた。


 ぼくとハルジオン。どちらも同じことをしている。学校か祖母か。


 けれどその違いはあまりに大きい。その違いをわかろうとしないハルジオンに腹が立った。でもぼくはうつむき彼から視線をそらした。しばらく無言が続く。


「あっそ」


 先に口を開いたのはハルジオンだった。背を向け、下り坂を駆けていく。そして翌日の放課後、果樹園にハルジオンは来なかった。その翌日も翌々日も。


 でも土曜日、缶の蓋を開けてみると、そこにはチョークが入っていた。クレヨンのように並ぶチョークの箱。ぼくは缶の蓋を強く押さえて閉めると、雑草が茂る中に潜り込ませて逃げるように家に帰った。


 それからだ。


 ぼくは小学校を卒業しても、中学を卒業しても、果樹園には行かなかった。


 祖母と両親がユズ採りを手伝うよう頼んできた時だって、滑稽なくらい頑なに断った。やがて祖母も高齢になり菜園の世話が難しくなると、あの小さな果樹園は年に数度、父が芝刈り機で下草を刈るだけになったが、そうなっても足が向くことはなかった。


 ハルジオンは中学二年の夏休み前までは学校に来ていた。けれどその後の進路をぼくは知らない。最後に見かけたのは、確か高校に上がる前の春休みだ。ぼくは家族で回転すしを食べた帰りの車内にいた。彼はヘルメットを後頭部に当てるようにして原付バイクに乗り、後部座席にいたぼくのすぐ横を走り去った。


 そして。


 ——チョークの跡は、雨で消えていると思っていたけれど。


「残ってるんだ」


 数年ぶりに訪れた果樹園は、記憶にあるものよりあまりにみすぼらしく、果樹は朽ちかけ、枯れた枝が目立ち、整っていたはずの樹形は崩れていた。感傷を引き起こすには、あっけなさすぎる現実をさらしていて、ぼくは何を期待していたのかと、自分を笑いたくなった。


 それでもか細い枝先に葉を茂らせ、サクランボはまばらに緑色の実をつけていた。その幹には、白いチョークの線がある。ぼくが記したハルジオンの背丈と、ハルジオンが記したぼくの背丈。でも記憶にない黄色の線も、幹には記してあった。


 その線は白の印を消すように重ねて色づいている。同じ個所に何度も何度も。それからずいぶん離れた上の箇所に薄い線が一本、引いてある。


 ぼくは足元を見回し、目的のものが見当たらなくて、あたりへと視線を飛ばした。祖母が椅子代わりにしていた木箱の上にその缶を見つけた。錆が浮き出た蓋を開けると、黄色の三角チャコの破片が入っていた。それから茶色くなった紙片も。


 取り出して見れば、それは参観日の知らせを書いたプリントだった。裏に文字がある。ぼくはその短い言葉を三回読み返してから、プリントを折りたたみ缶に戻すと、砕けた黄色の三角チャコだけ持ち、缶はジャケットのポケットに入れた。


 サクランボの木に背中をつけ、頭の位置で線を引く。色濃い黄色い線が幹に残る。それは二股に別れた枝の片方にあり、背丈を記すには木が低すぎるのだと痛感させた。


 祖母が亡くなっても果樹園には来なかった。でも海外で仕事が決まった恋人に付いて向こうで暮らそうと決めた時、この場所がどうなっているのか気になってしまった。どうしてももう一度、サクランボの下に立ちたい。


 あの日、ぼくはチョークを黒板に戻したけれど、そうして良かったと今でも信じている。でも自分の正しさを守るためにハルジオンを突き放した現実が、ずっとしこりとして残っていたように思う。


 だから新しい生活を始める前に、ぼくは子ども時代を甘いもので包みたくなったのだ。心残りがあるとするなら、それは理由付けすることで納得したかった。空想が混じろうが構わない。事実はいつも好きに形作られるものだから。


 でもハルジオン。君は過去から呼びかける。


『サマー、ごめん。また遊ぼう?』


 坂を下っていると燕が前を横切った。


 地面に腹をこするようにして弧を描いて舞い上がる燕を、ぼくは姿が見えなくなるまで追い続けた。その燕は仲間とは交わらず、ただひたすら一羽だけ、空に溶けるように飛んでいく。口内で、甘酸っぱいサクランボの味がして振り返る。果樹園に茂る雑草の中、ハルジオンの花が咲いていた。

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