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焦がれに焦がれた大地に投げ捨てられて、逸る気持ちを抑えながら帰り着いた我が家は、想像に難くなく、自然に呑まれていた。
白く四角い建物は土にまみれ、蔦に覆われ、硝子は破れていた。恋い焦がれた古巣の変わり果てた姿に絶句した。もしかしたら帰って来るのを待っていてくれたのかとも思ったが、朽ちてしまった生家に近付くことができなかった。
からからの大地から、砂が熱をはらんだ風に浚われていく。足の短い若草がさわさわと揺れる。かつてのこの地の姿を喜ぶが如く、太陽が強く大地を照りつける。東の大陸、島とは異なるからりとした暑さだけが、故郷であった唯一の証となってしまった。
身を焦がすほどに、帰れないと嘆き自ら害しようと思えるほどに願い、願い続けた故郷は、やはりどこにもなかった。
「おお、珍しいものがいたもんだ」
声がした。驚いているというよりは無感情。ただ思ったことが口を突いたとでもいえる抑揚だった。
東の大陸、小さな島にいたように、ここにもやはり彼等はいたらしい。己を作り、己が望んだ人々とは異なる、この地にずっとずっと昔に住まった人々と共に生きた存在。
その存在は己の目の前に回り込み、しゃがんだ。視線が重なった。
「久し振りだな、東の置き土産。戻っていたのか」
褐色の拳でカンッと軽く叩かれる。この暑さの中、麻の長袖に焦げ茶色の革のチョッキ、薄茶色のズボン姿の男。東の大陸、小さな島の住人たちのように黒い髪に黒い目をしている。
生みの親、己に夢を託した人々とは違う肌の色、髪の色、目の色。
彼は座り込んだ。胡坐をかき、体の後ろに手を付き、空を仰ぐ。
高い高い空には、かつての文明の象徴たる鉄の森の影はなく、真っ白な綿雲が悠然と流れていく様がありありと見える。
「呆気ないものだと思わねぇか」
男は、そう切り出した。
埃臭い風が吹く。遠い昔に漂っていた排気ガスの臭いなど何もない、自然の息吹が運ばれる。ころころと枯草の玉が転がっていく。
「俺達の地を蹂躙し、民を駆逐し、やれ科学だ文明だと声高に叫び、戦に明け暮れた国が、こうも容易く消え失せた。毎度のことながら、虚しさに泣けばいいのか、笑うべきか」
から笑いが痛々しい。
この男はやはり我等が祖国を恨んでいるのだろう。憎んでいるのだろう。遠い東の島国が怒りを露わにしたように。
男の手のひらがそっと触れてくる。慰めるようにゆっくりと撫でてくれた。
「共に生きてきたものが無くなるのは、悲しいなあ。永遠と信じて疑わなかったものが消えてしまうのは、寂しいよなあ」
きりきりと胸が痛い。温度などはなから存在しないはずなのに、芯が凍えてしまったように寒い。出るはずもない涙がさめざめと心に降り出す。
心を読まれてしまったのか、男はしきりに撫でてくれた。嘲笑するでもなく、憎悪を向けるでもなく、罵詈を並べたてるわけでもなく、泣くだけ泣けと言わんばかりに優しく撫で続けてくれた。
「皆、同じだ。俺も、お前も」
羽音を勇ましく鳴らし、一羽の大鷲が舞い降りる。大鷲は男の傍らに寄ると、自らも撫でろと頭を押し付けている。男は軽く謝るも、大鷲を撫でることはしなかった。
男の手が体と体の繋ぎ目を執拗に撫ぜる。その度に茶色い粉が風に乗ってどこかに運ばれていく。何の粉であるのだろうか、粉が噴くほどに男は顔を歪める。その理由を考える余裕すら己にはなかった。
手に体を預けながら、視界を闇に閉ざせば故郷の姿が浮かんだ。
たった数分間の故郷。空から見下ろした生まれ故郷は、科学と文明が謳歌し、人が世を治めていたとても誇らしい町並みだった。風を感じたのも数分だった。排気ガスと乾いた風だったが、人の活気が満ち満ちていた。
そっと視界に光を戻すと、そこには荒涼な大地が広がるばかりだった。
人間が遺していった唯一の縁は、ずっと撫でてくれている人非ざる、鳳に曰く、人に生み出され崇められた存在。だが、この男とて自分の本当の故郷ではない。そして、西に進んだところで、そこも自分の帰るべき場所ではない。
男は硬く冷たい自分を抱き締めてくれた。
鷲がつついてくる。男が微かに笑い、鷲を離してくれた。
「お前の故郷は失われた。けど、ここは確かにお前が生まれ、旅立った、たった一つのお前の故郷だ」
ぽたりと冷たい水が弾け、風に運ばれる。鷲が男の傍らに寄り、硬そうな翼を擦り付ける。まるで気持ちを共有しているかのように。
「もう二度と、この地にお前の故郷が建たないかもしれない。それでもいいのなら、ここで眠ってしまえ。ここはお前の帰る地だ」
そう言われ、風の吹きしく身の内に確かな安堵と温もりが湧いた。その言葉を、許しを待っていたとばかりに電子信号が途切れていく。
「眠るのならば、俺が守ろう。ただ一人空に旅立ち、永い行路の果てに、恋い焦がれた故郷に戻ったお前に敬意を表し、お前の眠りを守り続けよう」
鷲が鳴く。高く高く響き、風が遠く遙かな彼方まで物憂げな声を渡していく。
ガラガラと生まれた建物が瓦礫と化した。砂煙を上げて、地面を揺らし、重い軋みが届く。
胸が震えた。人ならば感情のままに声を嗄れるまで咽び、うち震えただろう。機械である自分でさえ感じてしまった。崩れ落ちる建物が、砕ける瓦礫が歌っている。大きな欠片も、小さな粒子も朽ち、消えていく間際だというのに、心地良い声なき声で歌い掛けてくる。
「おかえり。よく戻った。お前の帰還を歓迎しよう」
真白の太陽は未だ頂点に座しているにも関わらず、目の前はどんどん暗くなる。各部位が信号を拒絶する。運ばれることのなかった命令は、暗黒に引きずられていった。
閉ざされる視界、闇に飲まれる思考の中、男の声がぼんやりと聞こえてきた。
「何度願えばいいんだろう」
自嘲する涙声が――、
「人が空に興味を持たないことを、お前達が生まれことを」
諦観を滲ませる――。
「だけどお前達は生まれ旅立ち、人は俺達を裏切っていくんだ」
ぽたぽたと水が鉄を打つ。
「お前達の旅立ちはいつも人類の終わりを告げた。お前達の帰還は、いつだって人類の始まりだった」
瓦礫の歌が吹き抜けた一陣の風によって終幕する。
「また、会えるんだな。――そして、また、別れを迎えるんだな」
遠く遠くに、男とは違う声が聞こえたような気がした。それはとても楽しそうな声だった。
「永く繰り返される歴史の中で、人はいつになったら俺達の孤独に気づいてくれるんだろうな」
ぷつりとすべての信号が消え失せた。
帰ってきたら 青井志葉 @aoishiba
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