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海を渡り終える頃、空は鈍色に垂れこめていた。
鳳に示された方向に進んだ先には、やはり小さな島があった。島の面積の割には山が多く、緑豊かな島であった。
海岸を過ぎ、山に入って進み続けると、目の前を一匹の猫が走り去っていった。高性能カメラがとらえた姿は、人間に愛玩されていた猫のどれにも当てはまらず、記録がたたき出したのは、空に旅立つ前、絶滅危惧種とされていたネコ科の生き物だった。技術の国と言われたこの地でさえ、こうも容易く文明が自然に淘汰されてしまったのだろうか。
鳳は言った、人類は空に旅立ったと。だが、もしかしたらと思ったのだ。故国に及ばずとも、世界の先を行き、であるのに何をするにも腰の重いこの地なら。あるいは、残っている数寄者がいるのではないかと。
何を期待していたのだろう。鳳はこうも言っていた。新しい人を育てている最中だと。ならばいるはずもない。
道なき山中を進んでいく。天候のせいで森の中はひどく暗い。己が進むたび、低木がぱきぱきと枝を折っていく。
何でもいい、故国に帰りたい。たとえそこに人がいなくとも。鳳のような存在を探し、故国への足を尋ねよう。
山頂を過ぎ、なだらかな坂を下っていく。行けども行けども同じ景色ばかり。ここがこの地の玄関口だと言っていた。しかるに鳳のような存在がいると思っていたが、だんだんと不安になる。なにせ己にはこの島の記録が地図以外にはないのだ。木立から垣間見える空が、いよいよ黒に転じいた。一荒れ来るのかもしれない。
少し進行速度を上げようとした矢先、また、目の前にひゅんと影が躍り出た。大きさ、形状、熱量――、これは、猫ではない。
「?」
子供だ。頭髪以外に体毛は薄く、二足歩行、服という概念を持つ、人間。人間だ、人間が! 鳳や羌のような人類の遺物ではなく、あの小人たちのような人型をした人非ざるものではない。バイタルサインも記録にある人間そのもの。
やはり残っていたのかもしれない! 生き長らえて、細々と子孫を残していたのかもしれない!
子供はこの地の浴衣という民族衣裳に似た格好をしている。少々みすぼらしい雰囲気だが、人間であることに変わりはない。
子供の手には小さな猫が抱えられていた。不味いと思うよりも先に、茂みから親猫が飛び出し、鋭い爪を子供目掛けて振りかかる。咄嗟に子供と猫の間に滑り込む。カンッと爪が合金にはじかれ、猫は茂みへと落ちる。しかし、すぐに目の前に現れた。目と尖らせ、牙を剥き出しにし、小さい体で威嚇してくる。原因は十中八九、己の背後に隠れている子供が抱える子猫だ。
体をくるりと子供に向け、アームを伸ばし、子猫を返すように促す。子供は渋る様子を見せたが、威嚇する親猫に圧されたのか、良心が痛んだのか、存外あっさりと子猫を手放した。
一目散に親猫に駆け寄る子猫。子猫を茂みに押し込み、親猫は最後に牙を見せつけながら、茂みに逃げていった。渋ったわりに、子供は手を振って見送っていた。
小さなトラブルも去り、ようやく子供に向き合えた。
この地の言語は記録されている。子供がこちらをジッと見ているので、電光板に挨拶文を映す。子供の反応は首を傾げるだけだった。いや、分かっていた。鳳とは文字でのやり取りはできたが、それ以外の存在とはやり取りはできなかった。きっとこの子供も文字が読めないのだろう。
今度は絵を映す。大きな人型と小さな人型、そして己を模した丸型。丸形を明滅させ、己自信を指さす。子供がそれに倣ったので軽く体を上下させる。次に小さな人型を明滅させ、子供を指さす。子供がこちらの意図を認識したようだ。最後に大きな人型を明滅させ、体を左右に振る。そして今度は家を模した絵を映し、明滅させ、また体を左右に揺らす。子供の目が輝いた。
出していたアームを掴まれ、こっちだと引っ張られる。
人間とコミュニケーションを取れた。自分の気持ちが相手に伝わることが、嬉しいと知った。
この世に生まれ、空に旅立ち、暗い宇宙を渡航し続ける最中、人間の言葉はいつも一方通行だった。己が送る映像に歓声を上げる声も嬉しかったが、己の気持ちを送ることはできなかった。故国の喜びを分かち合えなかった。故国への寂しさを伝えることもできなかった。
温かい気持ちと、締め付けられような痛みが同時に襲ってくる。
子供と一緒に山を下る。子供は時折振り返っては笑顔で頷いていた。大丈夫とでも言いたいのかもしれない。だから己も電光板に笑顔のマークを乗せて上下に体を揺らす。分かってくれたかは分からないが、嬉しかった。
しっかりした足取りの子供に導かれ、ようやく山を抜け、草原に出る。人影などない草原を抜け、川を渡り、森へ。
子供に励まされながら辿り着いたのは海辺だった。茅屋が数件建っている。廃屋、ではなさそうだった。子供はそのうちの一件を指差し、大きく頷く。
あそこに大人の人間が。
促され進もうとしたとき、突如空が光った。遂に雨が降り出したのだ。雨粒が合金の体を打ち付ける。風も出てきた。潮風が吹きしく。
子供だけでも家屋へ。子供の手を握り返す。
「どこへ連れて行くのか」
声。女性の声だ。大人だ。歓喜が湧く、しかし、たちまち暗澹に伏した。
声の主は、雨に濡れすぼる女性――、鳳と同じ存在の女性だった。鳳と似通った出で立ちで、長いぬばたまの髪は、雨で一層艶めいていた。女性は弓をその手に構え、矢先をひたとこちらに向けている。
「また我等が民を駆逐しに参ったのか」
雷光よりも鋭い双眸に射抜かれる。子供が萎縮し、己の丸いボディの影に入ろうとする。
「今度は空に連れて行こうとするのか」
違う。己はこの子供を家屋に避難させよとした、それだけだ。
潮騒が吹き抜けた。己の体を温めていた感触がふと消えた。子供がいない。風に飛ばされたか。いや、違う。女性の背後で、何者かに抱えられている。あれは、緑色の悪魔――?
「殺させはせぬ、連れて行かせはせぬ!」
放たれた矢が風雨を裂き、真っ直ぐに飛んでくる。すんで、転がって避ける。しかし、避けた先で無数の矢の襲撃に遭う。放たれたのは一矢だった。何故。
悪魔が笑っている。子供が心配そうにこちらを見ている。
「今度こそ我等が手で守ってみせる、あんな思いは、もう二度とッ」
女性は泣いていた。悪魔は笑いながら怒っている。
違う。己はこの地を、子供を害したいわけではない。故国に帰りたいだけだ。あなた達がこの地を想うように、あの地に帰りたいだけだ。
必死に訴える。電子板の文字は鳳も読めた。なら、同じ存在である女性も読めるはずだ。だのに、女性は聞く耳を持ってはくれない。悪魔は笑ってばかり。子供が暴れ出している。
空から落ちた雷光が体を掠った。電子経路に僅かな誤差が起こる。潮風は相も変わらず体を打ち付ける。このままでは徐々に侵食されてしまう。石の矢のダメージは然程ないが、千年以上保った体はいつガタが出るか分からない。
待って、話を聞いて。己は、ただ帰りたいだけなのだ。何もしないから、ただ帰る道を教えてほしいのだ。
女性が矢を射った。一矢は瞬く間に二矢、三矢、数多に分裂する。悪魔が唇を尖らせ高い音を奏でる。矢は強い風を受け、速度を上げた。
すべての矢が的を己に定めている。前左右は勿論、後ろからも矢は来ている。耐えられるか、これだけの矢を古い体は耐えられるのか。故国に帰る前に壊れるわけには――。
知らず内にアームが女性に向けて伸されていた。
どうか、帰して――。
寸時に見えた女性の顔が引きつった。悪魔の顔が驚愕に染まる。
伸ばしたアームに温かな感触があった。
「久しいな、破滅のものよ」
人を小馬鹿にした声は、初めて聞く男性のものだった。鳳と同じ服装、黒目黒髪の青年だった。男はアームを掴んでいた子供を抱き上げた。
「無視をしようかとも思ったが、帰りたい、帰りたいと小うるさいからな。こいつを助けてくれた礼だ。志那、船を出してやれ」
緑色の悪魔が走り去って行く。
女性が、敷と男を呼び駆け寄ってくる。敷は子供を女性に押し付けた。
「手際が悪いな、瀧。出てくる羽目になった」
女性は子供をきつく抱き締めて、俯き、肩を震わせる。子供は女性の頭を撫でながら、しきりに何かを訴えている。何を言っているのかは、やはり分からなかったが。
「しかし、何故そうまでして戻りたいと思う。かの地、いや、この星に人はいない。大陸の爺に聞かなかったのか」
分かっている。己のメインミッションは、地球に酷似した環境を持つ惑星の発見。地球を捨て、その星に移住するための前段階の計画のために。そして、その星は見付かってしまったのだから。あの時の人々の歓声は決して忘れることができなかった。
あの時の人々の完成に己は強い達成感と高揚を感じ、同時に思った。地球も己と同じように棄てられるのだな、と。
だが、もしかしたらと希望を抱いてもいいではないか。この地には人間がいた。故国にも人間が残り、生き長らえているかもと思って、何が悪い。
敷が声を殺して笑った。侮蔑とも、自嘲ともとれる笑い方。こちらを見下ろす目は、憎しみを色濃く浮かべて。
「我が民が残っただと? 何をほざく。こいつは新たな人類だ。大陸よりも生まれたのが先だったために、人らしくなったまで。だが、破滅のものよ、我が民は空には行ってはいない。滅んだのだ。貴様ら外ツ国の蛮人によって、滅ぼされたのだ」
落雷が大地をえぐった。落ち足りないとばかりに、黒い空を青白い光がほとばしる。雨が激しさを増した。風がやんだぶん、瀑布のような雨は視界を白くする。敷の姿だけがありありと浮かぶ。
「皆々、我等の前で蹂躙され、彼岸へ放られたのだ」
抑揚のない声音とは裏腹に、眼光だけは爛々と怒りもにじませる。見えない牙が向けられている。山中で遭遇した親猫と敷の姿が重なる。
「船が整い次第、とっとと去れ、破滅ものよ。二度とその姿を現すな」
雷鳴が轟き、聴覚機能が情報処理を中断する。空が昼と見まがうほどに白んだ。思わず視界を閉ざす。大地が大きく揺れる。
揺れはしばらく続き、ようやく止まったとき、雨も雷もすっかりどこかへと行ってしまっていた。空には太陽が燦々と照り、雲一つない快晴。吹き抜ける風は湿りもないもない爽やかなものだった。
誰一人としていない海辺に、己はぽつんと置かれていた。
不意に体を持ち上げられる。
「行くのだろう」
あの緑色の悪魔だ。
「なあ、人間はお前が見付けた、この星に似た星に行ったと聞く」
己は体をゆすり、それを肯定する。悪魔は牙を覗かせ、こう尋ねてきた。
「お前はその星がどうなったのか、知っているのか?」
少し迷う。そして、電光板に真実を映す。
悪魔は文字を読み取ると瞑目し、ゆっくりと瞼を上げた。眩しい紺碧の海を見晴るかし、目を細め、
「そうか」
そう、静かに呟いた。あの星を通過するときに、己が感じた気持ちそのままの色を乗せた声で。
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