帰ってきたら

青井志葉

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「ちょっと銀河の果てを調査してきてくれ」

 子供にお遣いを頼むような口振りで宇宙に投げ出され、もう千年以上も経った。

 元々地球に帰還することは考えられてはいなかった。調査が終われば身に溜めたエネルギーがなくなるまで暗く広大な宇宙を彷徨い、生まれた自我もボディそのものも闇に溶かされる、人が言うところのそれが運命であった。

 だが、人の思惑に反して地球に帰還した。十日前のことだ。

 銀河系から出ていたはずなのに、気付いたら見覚えのある、研究者たちを歓喜の渦に巻いた星が目の前にあった。宇宙からでも分かるほど茶色ばかりの星に、やっぱり無理だったのかと、少し失望する。それを過ぎればとてもよく見知った星々とその配置。

 千年前、通過記念にと祖国に画像を送信した老いを与える星、その星を囲う美しい環の健在に柄にもなく感動し、戦神の名を冠する星は相も変わらず裸のままでちょっと残念に思い、偉大なる我らが太陽は懸念されていた爆発も膨張もしなかったようで、記録にあるものと寸分違わずそこにあり、少し安心した。

 ならばと記録を頼りに進んだ先には――ああ、母なる地球、我が故郷よ。

 今思い出してもあの時の感動は容易く蘇る。奇跡的に銀河系には入れたことよりも、変わらない光景を懐かしく思った時よりも、激しい感情が湧き上がったものだ。

 帰った。帰ってきた。帰ってきたのだ。もう二度と拝むことは叶わないと覚悟した地球に――。

 しかし、喜び勇んで降りた故郷にはかつての文明どころか、人だと言っていいのか分からない者の姿しかなかった。

「なるほど、それで入水しそうな空気をまとい、我らが母たる河の前で途方に暮れていたというわけか」

 驢馬に跨りくつくつと茶化す男、ほうにはその時の絶望は分かるまい。

 吊り目がちな黒い目に黒い髪、白くも黒くもない黄味がかった肌、どこから見ても東洋人である。彼は長い布を体に幾重にも巻き付けて、帯び紐一本を腰で縛った緩い衣服を身に付けていた。それは五千年余りの歴史を有したこの国の、人類が古代と定義づけた時代に貴族達がまとっていた衣服にとてもよく似ていた。

 ここは祖国ではなかった。

 浮かれに浮かれて降りた先はかつての大国の成れの果て、確か千年前、最悪な環境汚染を引き起こしていた国である。

 しかしながら、かのスモッグは一筋とて認められない。

 陽に染められた赤い空は澄んで遥か高く、陰っているが山は木々の繁茂に覆われ稜線は丸みを帯び、広大な大地で揺れる草花は夜も近いというのにいまだに花弁を力強く開き続けていた。

 一大文明を築いたかの国が抱いていた、これが本来の姿か――。

「どうだ、凄かろう。これが我が悠久の大地が本来の姿よ」

 鳳はおかしそうに笑った。

「かつて、こう提言した者がいたそうな。人類は地球の癌であると」

 際限なく増加し、宿主を蝕み、やがて宿主と共に死んでいく。だが、もしすべてを除去してしまえば、見る間に回復するものだと。

「人類がこの星を棄てて約百年後、自然が文明を呑み込んだ。破壊し尽くされたこの星は、忽ち蘇ったのだ。人が再生させようと知恵を出し、奮起したというのにこの有様、中々の皮肉ではないか」

 驢馬が鼻を鳴らす。鳳に抱えられていた、きょうという子供が驚き起きてしまった。不安げに周囲を見回し、最後に鳳を見上げる。鳳が「大丈夫だ」と囁き、羌のまぶたをそっと手で下してやると、羌はまた眠りに就く。

 夕闇が迫る。

 陽を背にして、長く延びた影をゆっくりと追いかける。高い空から鳶の声が、海まではまだ遠いと届けてきた。

「だが、最も愚かなのは、人によって生み出され、崇められた我等だ」

 傍を滔々と流れる雄大な河、四大文明の一つが興った黄河の煌めく水面がおもむろに波打った。瞬く間に海の白浪さながらの大波へと発展する。勿論、氾濫した。しかし、鳳はまったくのんびりとしたもので、驢馬までもが四肢の半分を水に浸けたまま、ゆっくりと歩いて行く。

 水中で何かが光った。次の瞬間、水中より顔を出したのは一匹の龍であった。

 川幅程もある巨大な龍は、大きく丸い金の眼でこちらをちらりと見遣るも、何もせず、ゆっくりと飛翔し、沈みゆく陽を目指して空を滑っていく。

 波が一層押し寄せる。

 夕陽に照らされる大きな鱗は黄金で神々しく、水晶を思わせる三股の二本の角はいかめしく、鱗よりも薄い金のたてがみはなめらかで、水から上がったばかりだというのに風に悠々とたなびいている。西洋の龍とは異なる神にも等しき、あるいは、神と崇められる東洋の龍。

 鳳がくつくつと笑った。

「驚くか、西洋のものよ」

 水は押し寄せては土を伴い引いていくき、すぐにまた寄せてくる。

「あの雄々しく美しいものでさえ、人がいたからこそ生まれたもの。なに、滑稽よ」

 橋が見えてきた。道は橋を境に二岐となる。橋を渡り、北に進路を取れば、道の続く先には平野があるのだという。平野を過ぎると草原、山岳、雪原、最後には氷の世界となるらしい。さらに氷の世界を東に行き、少しだけ海を進めば祖国の地を踏める、というわけだ。これは記録にある地図と一致する。

 橋の手前で驢馬が足を止めた。

「さて、どちらに行く」

 一方で、このまま川沿いに東を目指すといずれ海に辿り着く。そこもまた海を少し渡れば、荒々しき海に守られた小さな島があったはずである。

「北に行くは安全だ。だが、かつての都市から離れているためか、かの方向には我等のような存在が少ないと聞く。極寒の地だ、案内無くして渡るのはお前でも厳しいだろう」

 竜の尾が飛沫を上げて宙に躍り出る。水に浸っていたにも拘らず、ふさふさとしている毛から、ひょっこりと顔を出す人の子の姿をした、しかし、人と呼ぶにはとても小さな存在がある。その数、十あまり。子供たちは鳳に気付くと元気一杯に手を振ってくる。やがて、その子等も龍に連れられて西の空に旅立った。

 遠い山の頂に夕陽がかかる。

 水が完全に引いた岸辺には、泥の塊という波の置き土産が転がっていた。その泥の塊は瞬く間に乾き、崩れ、中から小さな人の姿をした者を生み出した。彼らは鳳のような服をすでに身にまとい、ひょいひょいと鳳の下に集い出す。なんとも奇妙な光景だった。

「それに比べて東の島に行くは容易い。この河に沿って行けばいい。が、かの島に入れるか否かは、果たして」

 鳳は羌を驢馬の上に降ろし下馬した。途端に小人たちが群がってきて、聞き取れない言語で何やら必死に訴えている。鳳には判るようで「ああ、帰ろう」と穏やかに返していた。

 いよいよ空に紫色が混じり、すでに紺青となった東の空には白い月が昇っていた。

「かの島は、かつて大陸に良いようにされてなあ。今に至ってもなお、腹の虫がおさまらないらしい。長き付き合いの我でさえ入れてくれぬ時がある。西洋のものならば、尚更拒絶するやもしれない」

 鳳は東を見晴るかし溜め息を付いた。

「だが、我等のような存在がどこの地よりも多くいるという点では心強い。何せ、そこいらに転がる石にでさえ、精霊が宿ると言われた地だ。地に根付きしその概念たるや、いやいや抜けはしなかったらしい。それとも……」

 羌が起きた。「お腹が空いた」と目を擦る。鳳が眦を下げ「ああ、帰ろう」と宥める。

「さて、どうするか」

 極寒の地か、荒れ狂う海の先にある外国嫌いの島か。

 月が煌々と輝き始めた。陽はもう沈んでしまった。大いなる陽の残滓が空の端を照らしているが、やがて消えてしまうだろう。弱々しい星の光でさえ大地に届き始めたのだから。

「――東に行くか。言っておくが、かの島の主はこの地もさることながら、お前の故郷を最も目の敵にしている。それでも東を目指すか」

 こちらに来いと月が囁めく。

 鳳が肩を竦めた。

「ならば河に沿っていけ。海に出たならば真っ直ぐ進め。さすればまた大地が見えよう。だが、そこは目指す島ではない。ただの半島だ。その半島を南東に下れ。そうすれば、とある大きな島が見える。そこがかの島の玄関口だ。そこからが一番安全に渡れる。いいか、南東だ。間違っても東に進むな。からくりであるお前ならば方角は間違えないだろう」

 鳳は驢馬の首を二度叩く。驢馬は心得たように身を翻し、西へと進路を取った。鳳もまた東に背を向けた。彼も人の姿をした小人たちを連れて、住処に帰るのだろう。

「運が良ければ入れてくれるだろう。だが、かの島もまた、新たな人を大事に育てているところ。無駄骨であっても、我を恨むなよ」

 くつくつと笑う。

「いずれまた、お前のようなものを作れる時が来ような。そうなれば、人は再び我等を忘れよう。だが、人の世は見ていて飽きない。かの島の者達はどう思うか知れないが、少なくとも我は楽しみで仕方がない」

 環境破壊だけは勘弁こうむりたいがな、と彼は言う。彼の周りの小人たちが一斉に声を上げた。専ら、何を言っているか判らないが、小人たちの表情はあまり良いものではないから、きっと非難であろう。

 鳳は気にも留めない様子で、うっそりと口端を釣り上げた。

「さらばだ、西洋のものよ。お前に黄河の守りがあらんことを」

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