最終話 満天の星⑤

 いつも私の行きたいところばっかりじゃん、と木口さんは膨れた顔を見せた。

 もう毎日恒例になっている、放課後の寄り道の行き先が、木口さんの提案でしか決まらないことに、彼女はご立腹らしい。

 

 私には母が定めた門限があり、あまり遅くまで遊べない。

 それを考慮した上で遊びに行けるところは、彼女の知っている中では、もうあらかた行きつくしてしまったらしかった。


 私の寄り道のレパートリーが図書館しかないことを話すと、木口さんは露骨に嫌そうな顔をした。


 彼女は活字の類が苦手らしく、ファッション雑誌しか読まない。

 おすすめの本を貸してくれと言われ、考えに考えて選んだ本を、やっぱり無理だったと一頁も読まずに返されたときは、少し落ち込んだ。


 「ねえ~、どっか行きたいところとか、なんかやりたいこととかないの~?」

 「やりたいこと……。あ」

 「なに? なんか思いついた?」


 目をきらきらとさせながら、食い気味で返されて、少しためらう。


 「……今日、流星群、だよね。見てみたいなあって」


 朝のニュースで、今日の夜が最も流星群を観測しやすい、と言っていたのを思い出した。

 流れ星を見てみたい。

 しかし、夜遅くの外出を、母が許してくれるだろうか。

 私は今まで母に、何かをしたいとお願いしたことがないため、どんな反応が返ってくるか全くわからない。


 私は携帯電話を持っていなかったので、ほかの子たちのようにメールや電話ができない。

 誰かと連絡を取るのはもっぱら家の固定電話で、木口さんの携帯番号は手帳にメモを取ってある。

 母との交渉の後、電話を掛けるという約束をして、私は家路を急いだ。


 もちろん、会話が苦手な私が、木口さんに電話を掛けたことは一度もない。

 初めての電話では、いい報告がしたい。


 玄関のドアを開けると、お味噌汁のいい匂いがしてきた。

 とんとん、と包丁がまな板を叩く小気味いい音が聞こえる。


 「ただいま」

 「おかえりなさい」


 母はねぎを切る手を止め、私の方に振り返った。

 一本にくくられた、白髪交じりの髪がさらりと流れる。


 この頃母は、相変わらず私の身体の左側には触れようとしなかったけど、もうほとんど暴力的になることはなくなっていた。

 母は今も毎晩、神に祈り、自分自身と闘っている。


 「あのね、お母さん……」

 料理をする母の背中に向かって、声を絞り出す。


 「今日ね、……友達、と、流星群、見に行ってもいい?」

 「友達?」


 母は目を見開いて振り向いた。

 その顔は、想像していた怒りの表情ではなく、ただただ驚きの表情をしていた。


 母はスリッパをぱたぱた鳴らしながら私の目の前まで来て、青いネギが付いたままの左の手のひらで、私の右手を握った。


 「あんた、友達ができたの?」

 母の目にはうっすら涙がたまっていた。


 「うん、木口さん、っていうんだけど……。一緒に流星群、見たい。夜に出歩くのは、神様の、お、教えに、背くことになる?」


 母は私の手もとへ視線を落とし、俯いたまま、震える右手で私の左腕にそっと触れた。


 「あのね、あかり。夜にはね、蛇が潜んでいるの。嫁入り前の娘が、親の同伴なしに夜に出歩くのは危険とされているわ。だから、……ダメ」


 母の声が耳に届くのと同時に、私の左腕に母の爪が立てられる。

 ピリッとした痛みが走り、母の爪に私の血が薄っすらと滲む。だめだった、怒らせてしまった。


 俯いた母の表情は分からない。

 「ご、ごめんなさい、お母さん」

 「ダメなの、本来なら。でも、でもね」


 私の謝罪を遮ったのは、母の震える声だった。

 顔を上げた母の瞳からは、大粒の涙が流れていた。


 母の泣き顔を見て、肩に力が入る。

 最後に母が涙を流すのを見たのは、もう思い出せないくらい昔のような気がした。

 お母さんを悲しませて、怒らせて、涙を流させて、ごめんなさい。

 行かないから、私が我慢するから、だから泣かないで、お母さん。


 「お、お母さん」

 

 ふいに、母の右腕に込められた力が弱まった。

 「行っておいで」


 母は小さく呟くと、私の腕にできた自分の爪痕をゆっくりと撫でた。

 生まれたての赤ん坊の、まだ毛の薄い小さな頭を撫でるような、優しい手つきだった。

 

「あかりが私に、何かしたいって言うの、初めてじゃない?」


 母の顔に滲んでいたのは、私に暴力的になるときの、悲しみを秘めた怒りではなかった。

 困っているような、喜んでいるような、実に微妙な表情で私を見つめた母は、血の滲んだ爪痕を覆うようにして、私の手を柔らかく握った。


 母が私の身体の左側に暴力以外で触れたのは、実に七年ぶりだった。


 「あかり、変わったね。ごめんね。お母さんも、がんばって変わるからね」


 滲む視界の向こうで母は、しばらくの間私の両手を握ったまま、大粒の涙を流し続けた。

 私の両手を握る冷え症の母の手は、じんわりと温かく、優しかった。


 「ねえあかり、お友達、甘いものは好きかしら?」


 母は、父がいたころによく作ってくれたチョコレートブラウニーを焼いて、私に持たせた。

 もとからお菓子作りが得意だったはずの母は、父が出て行ってからお菓子を作らなくなっていた。

 

 久しぶりにお菓子なんか作るわ、とボウルの中の粉をがちゃがちゃと混ぜる母を見て、少し心配になったけれど、出来上がったブラウニーは、お店で売れそうなほどおいしかった。


 日も落ちて、すっかり暗くなってから木口さんと合流したのは、学校の近くのコンビニエンスストアだった。

 強烈な眩しさを放つコンビニの前で、木口さんがスマートフォンをいじりながら待っている。

 眩しさに目を細めながら近づくと、「その顔ヤバい」と大笑いされた。


 流星群は街灯の少ないところの方がよく見えるということで、私たちは、学校の裏山の少し開けたところに、小さいブルーシートを敷いて座った。

 ブルーシート越しの地面は、お尻から凍ってしまいそうなほど冷たく、冬を感じさせる。


 十二月の夜の空気は冷たく澄んでいて、吐く息が少し白くなった。


 母の作ったブラウニーを頬張った木口さんは、なにこれ超おいしい、と鼻息を荒くして喜んでくれた。

 「超いいお母さんだね」という言葉が、胸の中でじんわり温かい。

 木口さんが家から持ってきてくれた、ポットに入った温かい紅茶が、ブラウニーとよく合った。


 「流れ星見えたらさあ、何お願いする?」

 口をぽかんと開けたまま真上を見上げている木口さんが言う。


 「木口さんは?」

 「ん~、実はさあ。お願いしようと思ってたこと、二個あったんだけど、さっき一個叶っちゃったんだよね」

 「え」


 木口さんは、首をゆらゆらさせながら、にひひと笑う。


 「さっきね、亜紀に連絡したの。久々に話した」

 

 仲直りできた? そう聞いていいものか、迷った。

 仲直りとか、そんな単純な話じゃなかったはずだし、何より、私が踏み込んでいっていいものなのか、わからなかった。


 「村田さんのおかげだよ」


 木口さんの優しい声が、ゆっくりと耳に届く。

 彼女は、私の目をまっすぐ見て言った。


 「村田さんが、私と亜紀を仲直りさせてくれたんだよ」


 ひときわ強い風が吹いて、周りの木々をざあっと揺らした。見上げた空に、一筋の光が横切る。


 「あ!」

 一筋流れてすぐ消え、また別の場所で別の光が流れた。


 「うわっ、すご! めっちゃ流れてる!」

 木口さんはホラあそこ、あっちも! と、光の流れる方向へと指をさし、口を開けたまま星空を見上げている。


 「木口さん、私、他にやりたいこと、思いついたよ」

 「え、今? 何?」


 あらゆるところに走る儚い光を、ひとつも見逃さんとしているように、空に目を凝らしたままでいる木口さんの横で、私は小さく息を吸った。

 

 「優美ちゃん、って、呼んでいい?」


 ぱっと私に向き直った彼女は、目尻を最大限に下げた、子どものような笑顔で笑った。


 「私の願い事、全部叶っちゃったよ、あかり!」


 彼女の目は、たくさんの流れ星を閉じ込めたように、きらきらと輝いていた。

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彼女の笑顔は 八日郎 @happi_rou

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