第9話 満天の星④
廊下を走るのは、初めてだった。
階段を駆け上がるのなんて、小学校以来だった。
木口さんは何も言わないまま、ただ私の後ろをついてきていた。
握った手首は、今にも折れてしまいそうなくらい細かった。
力任せに開け放った屋上のドアの向こうは、絵にかいたような青空で、私は走って苦しくなった胸を押さえて、少し冷たい空気を吸い込んだ。
ひいっと喉が鳴る。
後ろから小さな息切れと、鼻をすする音が聞こえた。
木口さんは、手のひらで強めに目を押さえていた。
涙を拭っているのだと気が付くのに、時間がかかった。
掴んだままだった木口さんの手首に気が付いて、慌てて手を離す。
「あ、ご、ごめんなさい、痛かった……?」
「……ははっ」
木口さんは涙を拭いながら笑った。目尻が下がる、優しい笑顔だった。
笑った目尻から、ぽろぽろと絶え間なく透明な涙が流れる。
「痛いよぉ~」
「ご、ごめんなさい、大丈夫?」
「昨日はいきなり帰っちゃうしさぁ~」
「ごめんなさい……」
「嫌われちゃったかと思ったじゃんよぉ~」
「え?」
木口さんは流れる涙を、化粧が崩れるのも気にしないで強く拭った。
きょとんとしていたら、「またハトの顔してる」と頬を引っ張られた。
「連れ出してくれて、ありがとう」
木口さんは私の頬をつまんだまま、優しい笑顔でそう言った。
温かい言葉だった。
お礼を言われることなんて今までなかったから、どうしていいかわからない。
胸の中に温かい感覚だけが広がって、むずがゆい。
つねられている頬が熱くなるのは、木口さんの手があたたかいからだろうか。
屋上で風を浴びる私たちに声をかけるように、始業のチャイムが鳴った。
木口さんと私の、「あっ」という声がそろって、二人で顔を見合わせる。
「今から戻っても遅いね。てか戻りたくないし。サボりだぁ~」
木口さんが大きく伸びをした。
秋の風が、彼女の茶色い髪と短いスカートの裾を揺らす。
授業をサボるのなんて、初めてだった。
木口さんといると、初めてばかりだ。
木口さんはその場に腰を下ろして、フェンスに背中を預けた。
がしゃ、と小さい音を立てて、フェンスがしなる。
彼女は自分の隣を手のひらでぽんぽんと叩き、私にも座るように促した。
私は木口さんの横に座って、膝を抱える。
日が当たって熱を吸収したコンクリートの床が、じんわりと温かい。
「教師と付き合ってたのがバレて編入して来たっていうのも、ちょっと前に噂になった一歳年上だっていうのも、ほんとだよ。一年休学してたんだ」
木口さんは伸ばした両足の爪先同士を軽くぶつけて、こつこつとリズム良く音を立てながら、ゆっくりと話し始めた。
まだ新しい学校指定の上履きが、視界の隅でゆらゆら揺れる。
「私にとっては、教師である前に、幼馴染のお兄ちゃんだったけどね。やっぱ教師と生徒じゃ、駄目なんだね。禁断、ってやつ?」
ははは、という彼女の渇いた笑いに、冷たい風が、彼女の柔らかい髪の毛を揺らすことで返事をする。
木口さんが絞り出すようにして言った「教師」という単語に、彼女の気持ちがすべて込められている気がして、私は自分のつま先に目線を落とした。
「亜紀(あき)にだけは言おうと思ったんだけど、亜紀も、お兄ちゃんのこと好きになっちゃってさ。まあ、本人は言ってくれなかったけど。親友だもん、見りゃわかるよね。余計言えるような雰囲気じゃなくなっちゃって」
聞いた事のない名前が出てきて少し焦ったけれど、その名を呼ぶ木口さんの少し寂しそうな顔には見覚えがあった。
いつか私は、なぜ孤立していた私に声をかけたのかを、木口さんに聞いた事がある。
木口さんは今と同じような顔で笑いながら、親友だった子に似てたから、と答えた。
自覚はなかったけれど、私はたまに、所謂「友達グループ」を羨ましそうに眺めるらしい。
孤立していた私にとって、数人で楽しそうにしているクラスメイト達は輝いて見えていたし、改めて考えると確かに羨ましく感じていた。
自分でも無自覚だった胸の内を言い当てられ驚く私に、木口さんは「その子は村田さんと違って、そう感じる事すらかっこ悪いって思ってたみたいで、絶対口にしなかったんだけどね」と続けた。
木口さんが以前、親友だった子と形容したのが、きっとその「亜紀」さんなのだろう。
亜紀さんの話をしながら、彼女は手首に光る藍色のブレスレットを優しく撫でる。
毎日つけていたのは、親友との思い出が詰まったものだったからなのかもしれない。
「付き合ってるのが学校にバレたとき、私が一番に心配したのは、長年片思いしてやっと手に入れた彼氏のことじゃなくて、亜紀のことだったんだ。あの子大丈夫かな、って。私のせいなのに、おかしいよね」
眉を寄せて笑う木口さんを見て、喉の奥がぎゅっと苦しくなる。
木口さんの話すペースはいつもと変わらないはずなのに、私は相槌をうつことすらできなかった。
冷たい風が吹いて、木口さんは目を細める。
「それだけ、亜紀のこと大切だったんだんだと思う。だからこそ、学校を辞めたあと、お兄ちゃんとは長く続かなくてさ。あんなに好きだったはずなのに、終わっちゃうのは一瞬だった」
彼女は自分の心に大きく残っているであろう傷跡を、遠くの住宅地を真っ直ぐと見つめながら、そこにまるで感情なんて残っていないかのように話した。
まだじくじくと痛むであろう傷を、全て過去のこととして消化しようとしているのだろう。
木口さんの言葉や表情からは、後悔のような、それでいて慈しむような、なんともいえない感情が滲んでいるように見えた。
それが、親友である亜紀さんに向けられたものだというのは、木口さんと出会うまでずっと一人だった私でも、痛いほどわかる。
「教師と付き合ってるなんて言って軽蔑されるのが怖くて、大好きな亜紀に隠し事してた自分が許せなくて、でも今さら連絡するのも怖くて、」
木口さんが言葉の途中で口を閉ざし、遠くを眺めていたのは、時間にして一分もなかったと思う。
一瞬にも永遠にも思えるようなその数秒の間、私は彼女の横に腰を下ろしたまま、彼女の柔らかそうな髪が風に揺れるのを眺めていた。
何もない遠くの空を見上げる木口さんが、昨日の自分と重なって見えた。
大切な人に何も伝えることのないまま逃げてしまった罪悪感を、私は今一番知っている。
彼女の胸に引っかかっている棘を、私はよく知っていた。
冷たい風が、頬を撫でる。
「てか、ごめんね。こんな重い話聞きたくないよね」
いつも伸びている背筋を少し曲げ、誤魔化すように笑う木口さんは、いつもより弱々しく見えた。
「あ、あの、木口さん」
「ん?」
小さく首を傾げる木口さんの、私を真っ直ぐと見つめる瞳を、しっかりと見たまま小さく息を吸う。
「き、昨日は、勝手に帰ってしまって、ごめんなさい。あの、私、クラスの子が怖くて、逃げてしまいました。でも、木口さんを、嫌いになったりしたわけじゃ、ないんです。だから、その、私と、な、仲直り、してください」
喉が渇いてかすれる声で、一気に言い切った。
木口さんは、詰まり詰まり話す私の言葉を、口をはさむことなく最後まで聞いてくれた。
「もちろん」
彼女は、泣いたり擦ったりしたせいで化粧がぼろぼろになってしまった顔を、くしゃっとさせて笑った。木口さんの、いつもの優しくてかわいらしい笑顔だった。
「よ、余計なお世話かも、しれないんですけど」
私は木口さんの目を真っ直ぐ見て、かすれた声を絞り出す。
「私は、今、何も言わずに、逃げてしまったことを、と、と、友達に正直に謝ったら、仲直りできました。だから、木口さんと亜紀さん、も、きっと仲直りできる、と思います」
友達、という単語を、すっと言えないのが情けない。
でも、今までだったら絶対に言えなかったようなことを、最後まで言い切ることができた。
思っていることを言葉にして吐き出すたびに、鼓動は早くなり、喉は締まっていった。
それでも、伝えたいことを言葉にすることができた。
私が彼女のためにできることなんて、何一つないと思う。
彼女の傷が癒せるなんて、これっぽっちも思わない。
ただ、私のつたない言葉が、思いが、木口さんに伝わってくれるといい。
「……うん。ありがとう、村田さん」
木口さんは、赤くなった小さな鼻をすすって、「ほんとに良い子だな~」と私の頭をわしわしと撫でたあと、いつもより少しだけ大人びた表情で、真っ青な空を見上げた。
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