第8話 満天の星③

 「ねえ、ボウリング行きたくない?」


 一緒にハンバーガーショップに行った日から、木口さんとは毎日のように放課後一緒に寄り道をするようになった。

 彼女は、私の生活の中にいろいろな決まりごとがあることを理解してくれている。

 そのため行き先を決めるときに、私が決まりごとを破らなくて済むよう、必ず確認をしてくれる。


 同情や憐れみからではなく、そうすることが当たり前のように振る舞う彼女の、純粋な優しさがあたたかい。


 「行ったことないので……でも、行ってみたいです」

 「え、ボウリングしたことない?」

 「ごめんなさい……」

 「なんで謝るの? 初めてなら、私が教えてあげる。ボウリング得意なんだよね」


 ばんばんストライク出せるようにしてあげよう、と胸を張る木口さんを見て、頬が緩む。

 彼女が楽しそうにしていると、私まで楽しくなる。


 一人ぼっちのままだったら決して行くこともなかったような場所に、木口さんは連れて行ってくれた。

 図書館に行ってから、家に帰る、それしかなかった私の放課後が、彼女のおかげで、色づいて広がっていくようだった。


 毎日が楽しいと感じた。

 

 私が周りの子たちと違うから、距離をとられてひとりでいることは仕方がないことだと思っていた。

 私が周りと違うから、友達なんか作ってはいけないと思っていた。

 でも、彼女といると、そのままでいいと、自分を肯定してもらえているようで、居心地がよかった。


 初めて入ったボウリング場の中は、思ったよりも広くて、店中の音がこもって聞こえた。


 ガラガラとピンの倒れる大きな音と、レーンの上を球が転がっていく音が聞こえる。

 木口さんに靴のサイズを聞かれて、ボウリングをするときは靴を履き替える、ということを知った。


 小さめのスイカくらいの、カラフルな球がたくさん並んでいる。

 色ごとによって、重さが違うらしい。

 赤いのを持ち上げようとして、その重さに驚いていたら、木口さんに腹を抱えて笑われた。


 「あれ、木口さんじゃん」


 木口さんと並んで、片手で持てる重さの球を探しているとき、ふいに後ろから声をかけられた。

 聞き覚えのある、大きくて低い声。


 振り向いた先にいたのは、いつもクラスの中心にいる男子だった。

 私は咄嗟に、目をそらして俯く。

 木口さんと話すようになっても、クラスの子が自分に注目しているのが怖いのは変わらない。


 「ほんとだ、木口さんだ。偶然だね」

 「木口さんもボウリングなんてするんだ」


 最初の彼の声を聞いたほかの男子たちも、周りに集まってきた。

 彼らにそんなつもりはないのだろうけど、背の大きい男子数人に周りを囲まれるのなんて、私には恐怖でしかない。


 「私だってボウリングくらいするよ」

 「ちょうどいいし、一緒にやろうよ」


 彼らのグループの中心の子が、木口さんの返答に食い気味で返した。

 

 彼は木口さんに好意を持っている。

 彼女が孤立してすぐのころ、猛アピールをしていたはずだ。


 木口さんは困ったように、眉毛をハの字にして少し硬い笑顔をする。


 「ううん、遠慮しとく。友達も一緒だから」


 私が怯えていることに気が付いたのか、木口さんはあたたかい華奢な手で、私の震える手をきゅっと握った。


 「村井も一緒でいいじゃん」

 「ばかお前、村田だろ」

 「あ、やべ、ごめん村田」


 わはは、と大きい笑いが起きる。

 

 彼らに悪意がないのはわかる。

 名前を間違えられたくらいで、腹が立ったりはしない。

 ただ恐ろしい。彼らの話題の中心になっていることが、注目されていることが、怖い。


 早くこの場からいなくなりたい。


 「ちょっとぉ、早く靴借りに行ってってば」


 男子たちの後ろから、高い声が届いた。


 「あれ、木口さん……と、村田」


 そこにいたのは、木口さんとハンバーガーショップに行ったときにいた、あの子たちだった。

 私の手を握る木口さんの手に、少しだけ力が込められる。


 「二人も一緒でいい?」

 「ちょっと、私一緒でいいなんて一言も……」

 「まあまあ」


 木口さんの制止を振り切り、木口さんに好意を持っている彼は話を進めようとする。

 

 木口さんは、求められている。

 この場にいらないのは、私だけだ。


 「え~……別にいいけどさあ……。てか、木口さんと村田って、仲いいの? よく一緒にいるよね」

 「あ、そうなの?」

 「ち、がいます」

 「え?」


 咄嗟に声が出た。喉が渇いて気管が絞まる。

 でも、言葉は止まらない。


 「木口さんとは、仲がいいわけでは、ないです。なので、わ、私は、帰ります」

 「村田さん?」

 「失礼します」


 握られていた手を振りほどいて、私はその場を後にした。

 

 手に残っていた木口さんのあたたかさは、ほどなくして消えた。

 木口さんがどんな顔をしていたのかはわからない。

 けれど、最後に私を呼んだ声が、いつもの楽しそうな声でなかったことだけはわかった。


               ○


 彼女の手を振りほどいてしまった夜、私は母に連れられて会合場に行った。


 大きなちゃぶ台テーブルに、野菜や魚が中心の、精進料理とはまた少し違う料理がたくさん並んでいる。

 こうやって月に一度、田舎のおばあちゃんの家のような雰囲気の食卓を、神を信じる人たちと囲む。

 宗教が原因で差別されるのは辛かったけれど、この時間が苦痛というわけではない。

 

 詳しい話をしたりはしないけれど、ここにいる人はみんな、心に歪んだ部分がある。

 

 母はスイッチが入ると、普段の天然っぷりが嘘のように、娘の私に暴力的になる。

 斜め前に座っているおばさんは、息子さんが幼いうちに亡くなってしまってからというもの、万引きが止められないらしい。

 テーブルの端に座っているおじさんは、失業を機に、神経質な性格が病的になり、置いてあるものが少しでも斜めになっていたりすると、真っ直ぐに直さないと気が済まない。


 彼らは皆、神を信じ、救われている。

 人に優しくあろうとし、差別をしたりしない。

 彼らの信じる神の教えに沿って生きることで、自分自身の歪んだ部分を、どうにかしようとしている。

 変わりたい、と願っている。神の言う、美しい人間であろうとしている。


 傷の舐め合いだと言われても仕方ないかもしれないが、彼らはここでお互いに支え合いながら、駄目な自分自身に向き合い、戦っている。

 

 私は、母を含めここにいる人たちを、弱い人間だとは思わない。


 私は今日、自分のことを友達だと言ってくれた子を置き去りにして逃げてしまった。

 注目されたことが恐ろしくて、何を言われるのかびくびくする時間が辛くて、優しい手を振り払い、その場から逃げ出した。


 彼女は、私なんかでなく、もっと普通で派手な子たちと一緒にいるべきだ。

 木口さんは、明るくて、かわいくて、真っ直ぐだ。

 私のような卑屈で、暗くて、普通じゃない子といる必要なんかない。


 そうやって言い訳を探していないと、潰れてしまいそうだった。

 胸の奥が、棘が引っかかっているように居心地悪く、ずきずきと痛んだ。


 私は、やはりひとりでも背筋のしゃんとしている木口さんや、自分と向き合い戦っている会合場のみんなと違って、弱い人間だった。


 母と並んで歩く帰り道、ふと見上げた空は、絵の具を溶いて濁ってしまった水のような色をしていた。


 夕方まで晴れていたはず空は、黒くて重そうな雲が覆い、星も月も隠れてしまっている。


               ○


 いつもは始業の一時間前には教室に着くようにしているけれど、今日ばかりは遅く家を出た。

 早く行って、木口さんと顔を合わせるのが怖かった。

 昨日私が帰ってしまってから、木口さんは彼らとボウリングをしたのだろうか。

 

 教室の前について、汗ばむ手でドアを開けた。

 木口さんは、いつものように背筋を伸ばして席に座っていた。

 なるべく彼女の方を向かないように、彼女の後ろを通って自分の席に着く。


 「おはよ」

 木口さんはこちらを向いている。彼女の声は、いつもと変わらないトーンだった。


 「お、おはよう、ございます」

 彼女の顔を見ずに、俯いたまま答える。喉が渇いて、声がかすれた。


 「あのさ、村田さん。昨日のことなんだけど……」

 「ね、ね、木口さん。聞きたいことあるんだけどいい?」

 

 木口さんの声を遮ったのは、彼女に好意を持っている彼の声だった。

 彼は彼女の机の前まで来て、座っている彼女と目線を合わせるように少し屈んだ。


 「なに?」

 頑なに顔を見ようとしない私の方を諦めて、木口さんは彼に向き合う。


 「部活で知り合った他校の先輩に聞いたんだけどさ……」

 「ごめん、早くして。私、村田さんに話があるから」

 

 彼は聞きにくそうに、言葉を濁す。

 それに対して、木口さんは少しイライラした口調で返した。

 こんな彼女は、初めて見た。やはり、昨日突然帰ってしまった私に怒っているのかもしれない。


 「木口さん、前の学校で、教師と付き合ってるのばれたから転校してきた、っていうのホント?」

 

 彼の声が、教室の中で反響して聞こえたような気がした。


 咄嗟に木口さんの顔を見る。

 目を見開いて言葉を失った彼女は、伸ばしていた背筋を丸め、手のひらで口を覆った。


 返事が無いことが、最大の肯定だった。

 彼女の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。


 「あ、もしかして、まじだった? ごめん、俺……」


 彼は、木口さんの反応に驚いて、焦り始めた。

 木口さんは何も答えない。

 ただ震える手で口を覆ったまま、俯いている。


 悪気が無かった、では済まされない。

 どうしてこういう人は、人の踏み込まれたくない所に、土足で踏み込もうとするのだろう。

 どんなデリケートな問題であっても、彼らは「ノリ」というものでカバーできると勘違いしている。

 他人の痛みに鈍感で、自分が人を傷つける可能性について、考えようともしない。


 俯いた木口さんの目に、涙が溜まっていくのが見えた。


 私の足に押し出され、勢いよく倒れた椅子の音が室内に響く。

 気が付くと私は、立ち上がっていた。教室内の目線がばらばらと集まり始める。


 涙で潤んだ木口さんの目が、こちらに向いた。


 「きっ、木口さん! 行こう!」


 私は咄嗟に彼女の手首を掴んだ。

 机の前で屈んでいた彼の、「えっ」という声が耳に届く。

 

 久しく聞いていなかった自分の大声を置き去りにして、私は木口さんの手を引いて教室を飛び出した。

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