第7話 満天の星②

 木口さんに連れられて、もう何年も入っていないハンバーガーショップに入ると、制服姿の学生が、たくさんある席のほとんどを埋めていた。

 平日の午後のハンバーガーショップが、こんなに賑やかだなんて知らなかった。


 木口さんは迷いに迷って、チキンナゲットと、フルーリーという名前の、クッキーが混ざったアイスクリームを注文した。

 私は、小さいサイズのバニラシェイクとフライドポテトにした。

 トレーに乗せられて渡された揚げたてのポテトから、塩気のきいたいい匂いがする。


 トレーを持ったまま、座れる場所を探して店内を歩き回っている間、私は、クラスの子がいたりしないか、少しだけそわそわしていた。

 クラスメイトと一緒に行動していることが嬉しい反面、できれば、誰にも会いたくない、こんなところで、よく目立つ木口さんと一緒にいるところを見られたくない、そう思っていた。


 座れそうなところを見つけた木口さんは、トレーを持った手の指で器用に席を指さし、「ここでいい?」と私の方に振り向いた。

 あいている二人席に、私たちは向かい合わせで座った。


 木口さんは、チキンナゲットを一口かじって、「さくさくだ、うま~」とご満悦だ。

 その様子を、まだ固いバニラシェイクをストローで無理やりかき混ぜながら眺める。

 ストローが蓋とこすれて、きゅっきゅと間抜けな音が鳴る。


 近くで見た木口さんは、その子供のような無邪気な表情とは裏腹に、大人っぽい顔立ちをしていた。

 鼻筋がまっすぐで、まつげが長い。

 肌も白くて綺麗で、そばかすのある自分が恥ずかしく思える。

 一歳年上、という噂も、事実なのかもしれない、と感じた。


 彼女みたいな人が、どうして、地味で、クラスのみんなから距離をとられているような私に、声をかけてくれたのだろう。

 

 「食べる?」


 私の視線に気が付いたのか、木口さんはナゲットの入った箱を、こちらに向けて傾ける。

 揚げたばかりの衣のいい匂いが、こちらにふわっと香ってきた。


 「あ、いえ、私は、」

 

 食べられませんので、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 せっかく話しかけてくれたのに、他の人と同じように距離をとられてしまうのが怖かった。


 「私は、これ、あるので」


 フライドポテトの箱の口を、木口さんの方に向けて「木口さんもどうぞ」と促す。

 彼女は「やった~、ありがと」と、ポテトを一本箱から引き抜く。

 にこにことポテトをかじる彼女を見て、私は胸をなでおろした。変に思われなくてよかった。


 チキンナゲットの味って、どんなだっただろう。

 もう何年も前に一度食べたきり、ずっと食べていない。


 木口さんは、ナゲットを食べながら、ゆっくりと会話をしてくれた。

 上手に会話ができない私にイライラしたり、返事をせかしたりすることもなかった。

 スローテンポでも、会話のキャッチボールができていることが、とても心地よかった。


 チキンナゲットを食べ終えて、アイスクリームを満面の笑みで頬張る木口さんの話に、たどたどしい返事をする。

 私は、放課後にクラスメイトと寄り道をしているということへの喜びで、落ち着かなかった。

 木口さんとは、今日初めて会話をしたばかりだから、友達とは言えないのだろうけど、ずっと一人だった私が、同世代の女の子と一緒にハンバーガーショップに寄り、何かをつまみながら会話をしている。

 彼女がどう思っているかはわからないけれど、私にとっては、とても充実した時間を過ごしていた。


 木口さんとの会話に慣れ始めた頃、彼女の後ろをクラスの目立つ子二人組が通りかかるのが見えた。

 あ、と思った時には遅く、私と彼女らのうち一人との視線が交わった。

 カラーコンタクトによって黒目がちになった目が細められ、眉間に深い皺が寄る。


 「あれ、村田と木口さんじゃない?」

 「え、どれ? ……あ、ほんとだ」


 騒がしい店内で、彼女たちの声だけがはっきりと聞こえたように感じた。

 見られた。きっと何か言われる。


 今のクラス割りになってすぐ、彼女らが中心になって企画して、駅近の焼肉屋で行われたクラスの親睦会に、参加すればよかった。

 行ったところで食べられるものなんかほとんどなかっただろうけれど、それでもあのとき、無理にでも行っておけば。


 もうかけらしか残っていないポテトの箱に、慌てて目線を落とした。

 握った手のひらにじわっと汗が滲む。

 木口さんが私の様子に気付き、首を傾げながら振り返る。

 

 「宗教で肉食べれないとか言っときながら、木口さんとマックには来れるんだ」


 身体がかあっと熱くなるのが分かった。

 その声には小さな棘が沢山あって、私に聞こえるように放った言葉なのだということは、考えなくても分かった。

 「宗教」の部分に力が込められて放たれた言葉は、私の熱くなった耳の奥で何度も反響する。


 木口さんにも、聞こえたに違いない。

 宗教、なんて、引かれてしまっただろう。


 「ねえ」

 木口さんの冷たい声に、肩が震えた。がたっと音を立てて、木口さんが椅子から立ち上がる。


 「そんな言い方、ないんじゃない?」


 少し大きめに張られた声の行先は、私ではなく彼女たちだった。

 力を込めてつむっていた目を開いて見上げると、木口さんは背筋を伸ばして、彼女らの方を真っ直ぐと見ていた。

 木口さんの表情は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。


 木口さんの真っ直ぐな言葉と背筋に気を取られて、私たちに集まる他のお客さんの目線が、少しの間気にならないくらいだった。


 クラスの子たちが「もう行こ」とその場を立ち去ってから、木口さんはゆっくりと椅子に座った。

 それから私の顔を見て、子供のような顔でひひっと笑った。


 「何その顔。あれみたい、あの、鳥が鉄砲で撃たれた的な」

 「……ハトが、豆鉄砲を食らったような、ですか?」

 「それそれ」


 いひひ、と笑う彼女を見て、私も自然と笑みがこぼれた。

 さっきまで冷えていた指先が、じんわりと温かくなっていく。


 私が笑うのを見て彼女は、たれ目に見えるようにメイクされた目尻をさらに下げて、優しく笑った。


 「お肉食べられないなら、言ってくれればよかったのに。次はマックじゃなくて、駅前のパンケーキ屋に行こう」


 そう言って彼女は、スマホに表示されたパンケーキの検索画面を、「これこれ」と私に向けて見せる。

 彼女の口から出た、次、という言葉に驚いた。

 また、一緒に寄り道をしてくれるということだろうか。


 彼女の言葉が温かくて、冷たくなってしまっていた私の心が、じんわりと温まっていくようだった。


 木口さんは私に、「宗教」のことについて詳しく聞かなかった。

 最初は、気を遣ってなるべく触れないようにしてくれているのかと思った。

 けれどどうやらそうではないようで、彼女は、そんなことは大した問題ではないと思っているのだと、彼女の口ぶりからわかった。


 今まで新興宗教に入信しているというだけで、周りの人に好奇の目で見られ、距離を置かれてきた私にとって、そのことを知っても分け隔てなく接してくれたのは、木口さんが初めてだった。


              ○


 小学四年生のとき、母とは別の女性と親密になった父が、私たちを置いて家を出て行った。


 突然父がいなくなってしまってからというもの、母は、毎日泣くようになった。

 私が声をかけると、「あんたがいるから」と悲痛に歪んだ表情で私を睨みつけ、ときには涙を流しながら私を押し入れに閉じ込めた。


 湿気た匂いのする暗い押入れの中で私は、母に嫌われたかもしれないという悲しさ以上に、ひどく辛そうな表情の母を心配して、小さく膝を抱えて泣いた。


 しばらくすると母は、毎晩、部屋の隅に置かれた小さな像に向かって手を合わせ、お祈りのようなことをするようになった。


 それ以来母は、泣いていた日々が嘘だったかのように、よく笑うようになった。

 ヒステリックを起こして声を荒げたり、私を狭いところへ閉じ込めることもなくなった。


 母がお祈りをするようになってから、母自身の生活の中にいくつかのルールができた。

 体の左側には父親の血が流れている、と言い、母は私の身体の左側に決して触れないようにした。

 家畜を食らうのは卑しい、と言い、お肉を食べなくなり、食卓に並ぶ肉料理は私のためだけに作られたものになった。母は大好きだったとんかつを食べなくなった。

 

 私は子どもながらに、母が何か、自分の知らない世界に行ってしまったような気がしていた。

 しかしその小さな違和感以上に、父がいなくなって以来全く笑わなくなっていた母が、父がいたころの優しく明るい母に戻ったことが嬉しかった。


 私が中学に上がると同時に、母の入信していた新興宗教に、私も入信することになった。

 

 よくわからないまま母に連れていかれた「会合場」と呼ばれるところには、母と同世代の人がたくさんいて、どの人も私と母によくしてくれた。

 そこにいる人たちはみな笑顔で、幸せそうに見えた。


 私はそこにいる人たちや母の言う、神様というものをあまり信じていなかったが、母と一緒に毎晩お祈りをし、母に言われるまま、肉料理を食べるのをやめた。

 そうすることで、母が喜ぶのが嬉しかった。


 しかし私が、たくさんある宗教での決まり事をひとつでも破ったとき、母は猛烈に怒り、私の身体の左側を、その冷え性の冷たい手で殴った。

 折檻が終わると母は、「あんたは悪くない、父親の血が悪いんだよね」と私を抱きしめて泣いた。


 一度だけ、母が「あんたに手を上げる、私が一番悪いのよね」と泣きながら呟いたことがある。

 母の折檻が、私への戒めだけに行われているのではなく、母が私の左側に父を見ているのだと気が付いたのは、そのときだった。


 母は、父を憎む自分を変えるため、神に縋っていた。

 

 私はいまだに、数ある決まり事の全てを把握できておらず、たびたび体の左側に青あざをつくっている。

 入信したての頃に比べ、母の暴力の力が弱まったように感じるのは、私の身体が成長したからではないだろう。


 母は、自分を裏切った男への憎しみを込めた拳を、折檻という形で娘へと向ける自分自身に、悩み、抗おうとしている。

 年々、一度の折檻で身体に残る青あざは減ってきている。

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