第6話 満天の星①
窓際の席で良かった。
端の席なら、休み時間に一つの席の周りに集まって、大きい声で話すクラスメイトに気を遣わなくていいし、お弁当の中身を見られないように、隠しながら食事をしなくてもいい。
久々にできた治りかけの大きい青あざがずきずきと痛む体の左側に、人がぶつかることもない。
視力の悪い子と場所を交換させられて、一番後ろの席になれたのもラッキーだった。
席替えが終わったばかりでまだ騒がしい教室の隅で、私は手に持った文庫本を開いた。
古くなって少し黄ばんだ本は、開いたときに、押し入れの奥のような、なんだか少し懐かしい不思議なにおいがする。
昨日読み始めたばかりのミステリーは、もうクライマックスに差し掛かっていた。ほとんどの時間を、誰とも会話をせずに読み進めていたのだから当然だろう。
今日もまた、図書館に寄ってから帰ろう。
残り数ページになった小説の中で、母親を殺された少女が、犯人に向かって「お母さんを返して」と叫ぶ。
少女の悲痛な叫びの描写に、私は喉の奥が苦しくなるのを感じた。
母親が居なくなってしまって、この子はこれからどう生きていくのだろう。
無情にも、少女の今後が描かれることのないまま、物語は終わってしまった。
静かに本を閉じて、一息つく。
字が思ったより小さくて、少しだけ目が疲れた。
ホームルームが終わって、ばたばたと帰り支度を始めたクラスメイトたちを、教室の隅から眺める。
机に向かって勉強を続ける子や、そそくさと部活動に向かう子、「カラオケ行こう」と数人ではしゃいでいる子たちもいる。
最後に放課後に友達と寄り道したのはいつだっただろう。
高校に入ってすぐは、クラスの子たちとも、それなりに仲良くできていたと思う。
クラスの中心にいる子たちとは、あまり関わったりはしなかったけれど、それでも今みたいに一人ぼっちでいるようなことはなかった。
今となっては、そう呼んでもいいものか迷うけれど、友達と呼べる子も少ないなりにいたと思う。
しかし、会話が苦手で、すぐどもってしまう私は、会話の相手をたびたびイライラさせた。
はっきりとものが言えないし、声も小さい。
返事に困って、会話の相手を待たせてしまう。
早く返事をしなければと焦れば焦るほど、喉が絞まって、声が出にくくなる。
最初は私の遅い返事を待ってくれていた友人たちも、毎度会話のペースを乱されるのに嫌気がさしたのか、次第に私に話を振るのをやめた。
それ以外にも、私は他の子たちと違うところがいくつかあって、気付けば私の周りからは誰もいなくなってしまっていた。
いじめと呼ばれるようなことはなく、ただ少し距離を置かれているだけなのが、せめてもの救いだった。
全部私自身の問題が原因だし、仕方がないと諦めている部分もある。
「隣、よろしくね」
そういうことで、学校で声をかけられることなんかそうないので、不意に声をかけられて、とても驚いた。
反射でヒッと喉が絞まる。
右隣の席に座った女子は、少しだけ首を傾けて、私の顔を覗き込むようにしていた。
華奢な肩にかかった、茶色のゆるい巻き髪が、さらりと流れる。
「……き、木口さん?」
「おっ、名前覚えてくれてたんだ」
いつもは背筋をしゃんとして、周りと距離をとっているようだった木口さんが、ふにゃっと笑うのを見て少し意外だった。
「木口さんは、その、目立つので……」
「あはは、やっぱ悪目立ちしてるよねぇ。村田あかりさん、でいいんだよね?」
こくんと頷く。
木口さんみたいな人に名前を覚えてもらっていたことが、少しだけ嬉しい。
クラスメイトと会話をしたのが久々すぎて、少し声を出しただけなのに、喉がからからに乾いてしまった。
しかもその会話の相手が木口さんなのだから、余計に緊張する。
ため口でいいのだろうか、それとも敬語? そもそも、クラスメイトとの会話ってどうするんだっけ。
何を話せばいいのだろう。
「村田さん、今日、一緒に帰ろうよ」
「え?」
木口さんは、机の横にかけていたスクールバッグを掴んで立ち上がる。
早く早く、と小さく手を叩く彼女に困惑しつつ、机の中の教科書類を急いでリュックに詰め込んだ。
手のひらにじわりと滲んだ汗は、せかされて焦っているからじゃないと思う。
重たいリュックを背負って顔を上げると、木口さんは「よし、行こっ」と目じりをふにゃっと下げた、かわいらしい笑顔を私に向けた。
○
木口優美さんは、二か月前、高校二年生の夏休み明けに、私のクラスに編入してきた。
中途半端な時期に編入してきたということもあってか、彼女は、学年でちょっとした噂になった。
編入生というだけでも目立つのに、それ以外にも、彼女はその見た目から目立っていた。
彼女は登校初日から、校内で目立つ女子たちと同じような恰好をしていた。
茶色がかった巻き髪に、短いスカート。
華奢な手首に光る、藍色のアクセサリー。
ピンク色の目もとから、一目で化粧をしているということもわかった。
それに、木口さんは見た目が派手というだけでなく、実際にかわいかった。
明るいアイシャドウだって似合っていたし、短いスカートから伸びる足は、白くて細かった。
廊下ですれ違った他のクラスの男子が、「かわいい女子が二組に編入してきた」と噂しているのを聞いたこともある。
学年内でちょっとした有名人になった木口さんには、目立つ女子たちがたくさん群がった。
見るからに前の学校でカースト上位にいたであろう彼女を、自分たちのグループに取り込もうとしているんだと、すぐにわかった。
木口さんは、誘われたらどのグループの子とも昼休みを一緒に過ごしていたし、いつもにこにこと笑顔だった。
けれど彼女は、自分から誰かに話しかけたり、どこかのグループと特に仲良くすることはなかった。
私には、周りに少し壁をつくっているように見えた。
最初は積極的に木口さんに話しかけていた女子たちは、次第に、どこのグループにも所属せず自由に行き来している木口さんを、陰で悪く言うようになった。
「八方美人だよね」「うちらといても、楽しくないんじゃない? あんまりしゃべらないし」「男子と話すときだけ、声高くない?」「ちょっとかわいいからって」彼女のいない女子トイレでは、そんな悪意のある言葉たちが飛び交った。
木口さんを取り巻く雰囲気がおかしくなり始めてからしばらくして、どこからか「木口は一歳年上だ」という噂が流れ始めた。
木口さんをそれとなく避け始めていた女子たちにとって、その噂が真実だろうがデマだろうが、そんなことはどちらでもよかったのだろう。
噂が囁かれ始めてから、木口さんと仲良くしようとする女子は、一人もいなくなった。
木口さんの周りに女子がいなくなってからは、男子がここぞとばかりに彼女にアピールをするようになったけれど、彼女はそれを少し困ったように笑って、うまくかわすばかりだった。
さらにそれが、女子たちの火に油を注いだようだった。
年上かもしれないということから、女子たちの木口さんに対する直接的な攻撃などはなかったものの、木口さんはすっかり孤立してしまった。
同じように孤立している私は、毎日背中を丸めて、誰とも目を合わさないように過ごしていた。
目立つのが、怖い。
クラスの中心にいる人たちに、何かをされたことなどないけれど、目立つ人たちにはなるべく関わらないようにして、気配を殺して過ごす。
それが当たり前だったし、私のような子は、そうするのが普通だった。
けれど、木口さんは違った。
彼女は一人でいることなど、全く気にしていないかのように、いつも背筋をまっすぐに伸ばしていた。
彼女は私と違って、きっと強い人なんだろうと感じた。
「ねえ、どっか寄ってこうよ」
学校からの帰り道、特に話すことも思いつかず、木口さんの言葉にしどろもどろで返事をすることしかできなかった私に、木口さんは楽しそうな声で言った。
まともに会話すらできない私なんかと一緒にいて、彼女はどうしてこんなに楽しそうなのだろう。
「どっかって……」
「ん~、あ、マックとかは? 村田さんお腹すいてない?」
「ええと……、少し」
「じゃあ決まり! ナゲット食べたいな。あ、でもフルーリーも捨てがたい」
木口さんはスマホの画面に映るクーポンを見ながら、真剣に悩んでいる。
普段の凛としている感じとギャップがあって、驚いた。
本当は、思っているよりずっと、明るくて子供っぽい人なのかもしれない。
歩くたびに彼女の茶色い巻き髪がふわふわと揺れて、私についておいでと言っているようだった。
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