第5話 はじめてのきもち⑤
次の日になっても、優美からの返信はなかった。
優美は学校にすら来ていない。
あの写真を撮ったのも、写真をコピーして黒板に貼ったのも、結局誰なのかはわからずじまいで、山内の授業は一時的に別の先生が担当することになった。
写真はうちのクラスにしか貼られていなかった。
教師たちの間では、うちのクラスの一限目が山内の数学だから、って話になったみたいだけど、生徒の間では、うちのクラスに山内の彼女がいるに違いないって噂になった。
幸い、始業式が面倒くさいって休んでた子が数人いたおかげで、昨日の時点であたしや優美が疑われることはなかったらしい。
でも、今日学校に来てないのは優美だけだし、相手が優美だって噂が流れ始めるのも、時間の問題かもしれない。
【優美、変な噂が流れる前に、学校来た方がいいと思う。無理なら、どっかで会って話そう】
メール作成画面に浮かんだ文字を見る。
話そう、って一体何を話すというのだろう。優美はあたしが山内を気になってたことなんて知らないし、あたしはもうそれを優美に話せない。
完成したメールを送信できないまま、スマホをポケットに仕舞った。
もうすぐ休み時間も終わるし、次は移動教室だから早めに戻らないと。
教室にいたくなくて、こもっていたトイレの個室から出ようとしたとき、外から高い笑い声が聞こえてきた。
「優美だってさ~。ホントありえない」
「山内もセンスないよね」
「マジでそれ」
キャハハハという高い笑い声が耳の奥で反響した。
どこから聞いてきたのか、本間たちが優美に対する陰口を、楽しげにしている。
もうあの写真が優美だったという噂が流れているみたいだ。
ふと心のうちに沸いた小さな気持ちに気が付いて、あたしは全身から力が抜けていくのを感じた。
親友が陰口を叩かれているのに、あたしの中では怒りよりも先に、ほんの少しの安心が生まれた。
追いかけるように怒りも感じたけど、自分自身にこの好奇の目が向けられていないことに、あたしは確かにホッとした。
いくら昨日見た夢がリアルで怖かったとはいえ、最悪だ。
喉の奥が、ぐっと苦しくなる。
何が、お互いを大事にし合える存在だ。笑える。
あたしは、自分のことしか考えてないじゃないか。
「本当のところどうなんだろうね」
「優美で間違いないっしょ。学校来てないのが一番の証拠じゃん」
本間たちの声が、トイレの中で響く。
きんきんと響く高い笑い声に顔をしかめながら個室から出ると、本間たちの視線が一斉にあたしに集まった。
「あっ、亜紀~! 亜紀のクラス、なんかヤバいことになってんね」
本間がいつものように絡んでくる。
「ぶっちゃけ、どうなの? あれ優美なわけ?」
あんたたちには関係ないでしょ、と思ったけれど、あたしが今優美にできるせめてものことは、優美の立ち位置を守ることだけ、と考え直す。
「冗談きついって。優美なわけないでしょ。休んでるのも、風邪ひいたからみたいだし」
「へ~~」
あたしの言葉を全く信じてないような本間の態度にカチンと来たけど、あたしはそのままトイレを後にした。
背後では、本間たちの嫌な笑い声がまだ聞こえている。
教室に戻って席に着こうとしたとき、目に飛び込んできた光景に、あたしは愕然とした。
優美の机の上には、花瓶に刺された花が置かれていた。
それは明らかな悪意だった。
典型的で、古典的な、いじめの手法。
あんたの居場所はここに無いよという意思表示。
教室内のみんなが、あたしを見ていた。
あたしの様子を観察するように、あくまで傍観の位置で、優美の机とあたしを見比べている。
みんなスキャンダルが好きなんだ、そんなことはわかっている。
教師と恋に落ちた愚かな女生徒として、みんな優美をおもしろいものを見るように見ている。
教室中の嫌な目が、こちらをにやにやと眺めていた。
「これ、誰がやった?」
あたしから出た声は、熱を帯びて震えていた。
喉が熱い。頭の奥の方が熱い。
「さっき、亜紀ちゃんが出て行ってから、本間さんたちが……」
恐る恐る声を出したのは、中野だった。
目はあたしを見ていない。その口元は、かすかに笑っていた。
ねえ、あんたたちが優美の何を知ってんの。
優美は、長年の恋にリスクがあったことはわかっていたはずだ。
それでも、その恋に進んだ。
軽い気持ちじゃなかったのは、誰も優美の彼氏の正体を知らなかったことからわかる。
あんたたちが今引っ掻き回して面白がってるそれは、素直で隠し事が苦手な優美が、あたしに隠してまで守りたかったものなんだけど。
あんたたちが今面白がって傷つけようとしてる優美は、あたしが大事にしたい人なんだけど。
面白いから、興味があるから、それだけの理由で、今優美にたくさんの凶器が向けられている。
あたしは、優美の机ごと、花瓶を蹴り倒した。
大きな音と共に机は倒れ、花瓶は中の水をまき散らしながら、嫌な音を立てて割れた。
どいつもこいつも、自分のことしか考えずに、自分の感情を相手にぶつけてる。
だったらあたしも、もう「優美のため」とか考えるのをやめてしまおう。
あたしは、親友が傷つけられて腹が立ったから、親友を傷つけたやつらを許せないし、その感情を隠したり抑えたりもしない。
今まで感じたことがないくらいの感情の起伏が、割れた花瓶から弾け出た水のように、あたしの中で溢れていた。
教室を見渡す。
こちらに向けられていた嫌な目の半分は、怯えを含んだものへと変わっていた。
許してやるもんか。
ついこの前まで仲良くしてたはずなのに、急に態度を変えて好奇のまなざしを向けるクラスメイトも、自分たちをまるで正義みたいに考えてる本間たちも。
次の授業まで、あと数分。
本間たちはまだトイレで甲高い笑い声をあげてるはずだ。
あたしを目で追うクラスメイト達の間を通って、教室を出ようとしたとき、開けようと手をかけた扉から、山内が飛び込んできた。
「どうした? さっきの、何の音だ?」
教室を覗きこんだ山内は、いつかあたしが椅子から落ちたときと同じ、心配そうな表情をしていた。
割れた花瓶と倒れた机を見つけて、ぎょっとするところまで、あの日と同じだった。
「どうしたんだこれ、誰も怪我してないか?」
誰がやったのかより先に、生徒の心配をする。
そういうところが好きだった。山内は本当にいい「先生」だ。
「もっと先に心配すべきことがあるんじゃないですか」
でもあたしは山内に、「先生」としてよりも先に、「彼氏」として優美を心配して欲しかった。
倒れた優美の机と、割れた花瓶を見て、こんなこと一体誰がやったんだ、と怒ってほしかった。
あたしの好きだった「山内先生」じゃなくて、優美の大好きな「お兄ちゃん」という人は、そうする人なんだと思うから。
あたしの口からこぼれた言葉は、思っていたよりもまっすぐ、教室に響いた。
クラスメイトからは「自分の問題のことを心配したら?」という嫌味に聞こえたと思う。
山内本人には、「まず優美を心配して」という、優美の親友のメッセージとして伝わっててほしい。
あたしは山内の顔を見ないまま、教室を出た。
一瞬張りつめた教室の空気が、山内が来たことで緩和したようで、教室からはクラスメイトの話し声がちらほらと聞こえてきた。
ポケットに仕舞っておいたスマホを取り出して、優美の電話番号を呼び出す。
出るわけないのはわかっているけど、どうしても伝えたいことがあった。
六回のコールの後、留守番電話の機械音声に切り替わる。
「もしもし、優美。あのね、口にしたら安っぽくなるから言いたくなかったんだけど、あたしはあんたのこと親友だと思ってるし、あんたの味方だから。話したい事があるから、落ち着いたら連絡してよ。待ってるから、ずっと。また、あんたの好きな甘い物でも食べながら」
受話器の向こうのピーという間抜けな機械音に、あたしの言葉は途中で遮られてしまった。
留守電の録音時間って、こんなに少なかったっけ。
でも、一番言いたかったことは言いきれた。
あたしは、優美の味方でいたい。
いつになるかはわからないけど、優美が連絡をくれたときは、あたしは山内のことが好きだったことを正直に話して、隠してたことを謝ろうと思ってる。
それから、一人で悩んでる優美に、あたしがいるってことをちゃんと伝えたい。
あたしは、スマホをポケットに仕舞ってから、本間たちのいるトイレへと向かった。
あたしの右手首では、深い赤のブレスレットが燃えるように光っている。
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