第4話 はじめてのきもち④
夏休み明けの登校初日、久々の朝の満員電車のせいでひどく疲れたあたしは、下駄箱の前でのろのろと靴を履き替えていた。
またこれから毎日、あの人がぎゅうぎゅうに詰め込まれた車両に揺られるのかと思うと、気分が悪くなる。
ぐったりしながら上履きに目を落としていたら、ぱたぱたと焦るような足音が耳に届いた。
顔を上げた先にいたのは、青い顔をした優美だった。
優美は鞄を両腕で抱えて、校内から小走りで玄関に向かってくる。
「あれ、早いじゃん優美。おはよ」
「亜紀……ごめん、私帰るね」
「え、早くない?」
優美はあたしの顔もまともに見ないまま、上履きをローファーに履きかえた。
冗談だと思ったけど、本当に帰ろうとしてるらしい。
何も言わないまま足早に帰ろうとする優美の肩が、すれ違いざまあたしの腕に軽くあたって、あたしの手からスマホがかしゃんと音を立てて落ちた。
「ちょっと優美、ほんとどうした?」
スマホを拾って顔を上げたら、優美の姿はもうなかった。
【どうした? 体調悪い?】と優美宛てのメールを送りながら入った教室の中は、いつもと違う、変な空気をしていた。
騒がしいのは変わらないけど、いつもはてんでバラバラなみんなの意識が、一か所に集まっているような、なんか嫌な雰囲気だった。
黒板の前には、人が集まっていた。
みんな一様に黒板に貼られた紙を見ては、近くにいる人と話している。
誰かの噂話をしているときのような、嫌な笑顔が黒板に向けられている。
あたしは、人混みをかわすようにして黒板を覗いた。
夏休み前に綺麗に拭かれて、チョークの跡のなくなったまっさらな黒板に大きく貼り出されていたのは、男女の写真だった。
女性の顔の方はご丁寧に加工されて隠されていたけど、男性の顔ははっきりと写っていた。
あたしの後ろから黒板を覗き込んだ中野が、「え……」と声を漏らす。
周りの子たちの「やばくない?」「いややばいでしょ」と口々に呟く声が、水中で聞く音のように、ゴボゴボと濁った音としてあたしの耳に届く。
写真には、山内と、うちの制服を着た女子が、手を繋いで写っていた。
あたしは、優美が突然帰った理由がわかって、目の前が真っ白になった。
同時に、なんでもあたしに見せたがるはずの優美が、「お兄ちゃん」の写真だけは見せてこなかったことや、いつまでも「お兄ちゃん」呼びを変えなかったことの理由もわかってしまった。
頭の中心が、ひどく振り回されたようにぐらぐらとして、首と肩の力が抜けていく。
指先にまで流れていかない血液が、体の中心で行き場を失って、ここから出せと暴れまわっているみたいだった。
教室中の注目を一身に受けた一枚の写真は、手ぶれはしているし、拡大コピーで引き伸ばされたせいで画質は荒い。
けどあたしの目には、山内の手と繋がれた女子生徒の細い右手首に巻かれた、見覚えのある深い藍色の華奢なブレスレットが、ひどく光って見えた。
○
始業式には出なかった。
あたしは黒板の写真を見たあと、そのまま席に着かずに学校から出てきた。
みんなが写真を見て面白がっているあの空間が、吐きそうになるほど気持ち悪くて、一秒でも早くあの場からいなくなりたかった。
とにかくショックだったんだと思う。
親友に隠し事をされていたことが、ひそかに思いを寄せていた人に恋人がいたことが、好きな人同士が恋人同士だったことが、そのどれもがあたしには衝撃的過ぎて、いても立ってもいられなかった。
真夏ほどではないにしろ、まだ熱を照り返してくるコンクリートを睨みつけながら、家までの見慣れた道を引き返す。
さっき落として傷の入ったスマホをポケットから出してみたけど、優美からの返信はまだ来ていなかった。
お昼ご飯を買うために寄った家の近くのコンビニは、冷房が効きすぎていて肌寒いくらいだった。
店員のおばさんは夏服の制服の上にパーカーを羽織っている。
あたしは適当に、目に入ったサンドイッチとお茶を買ってから帰宅した。
両親は共働きだし、弟も先週から学校が始まっているから、当然家には誰もいなかった。
あたしの「ただいま」が、玄関でさみしく反響する。
夏休み中に磨かれて、新品のようにぴかぴかになったローファーを脱ぎ捨てて、あたしは真っ直ぐ自分の部屋に入った。
それなりに片付いている六畳ほどの部屋。
窓際の勉強机の上に、鞄とコンビニ袋を放って、制服のままベッドに倒れ込んだ。
何もする気が起きない。
まだ昼にもなっていないけど、このまま眠ってしまいたい。
自分の好きな人が、親友と恋人同士だった。
恋愛ドラマなんかではよく見る展開。
行き場のなくなった思いを胸に主人公が涙を流すのまで、一通りの流れとして、見飽きるくらいよく見た。
なのに、いざ自分の身に降りかかると、涙も出なかった。
気分が落ち込んでるのはわかるけど、その原因がはっきりとしない。
優美は、どうして話してくれなかったんだろう。
教師と付き合ってることに、うしろめたさがあったのだろうか。
あたしにくらい、話してくれたってよかったじゃないか。
そんなことで、あたしは優美と距離を取ったりしないのに。
そこまで考えて、あたしだって優美に、山内への気持ちを隠してたじゃないかと思い直す。
優美への嫉妬がないかと言われたら、もちろん嘘になる。
あんなに楽しそうに話してた「お兄ちゃん」の話が全部、山内のことだったと思うと、みぞおちの辺りがじわっと熱くなって、目の奥にぎゅっと力が入る。
少し伸びてきた左手の爪が、手のひらの柔らかい皮膚にゆっくりと食い込むのを感じた。
山内のあの、細身な身体とは似つかないごつごつした手が、優美の、丁寧に手入れされた爪の光る華奢な手と繋がれるのを想像して、あたしは化粧を落としてない顔を、枕に埋めた。
これ以上、考えたくない。
優美が本気で恋をしていたのを知っているからこそ、優美が大事な友達だからこそ、あたしは優美へ抱いている醜い嫉妬心を受け入れたくなかったし、優美があたしに隠し事をしていた事実を受け入れられなかった。
優美のことも、山内のことも、憎みたくない。
優美から連絡が来るかもしれないスマホを右手で握りしめたまま、あたしはゆっくり目を瞑った。
身体がベッドに重く沈んでいくような感覚だった。
そのまま眠ってしまったあたしは、夢を見た。
あたしは普通に学校に行って、普通に席に着く。
顔を上げたら、黒板には変わらず写真が貼りつけてあるんだけど、山内と手を繋いでいる生徒の顔が、優美じゃなくてあたしになってる。
あたしが驚いて席から立ち上がったら、クラスメイトがあたしの方を、くすくす笑いながら嫌な目で見てて、誰もあたしの「違う、あたしじゃない」っていう叫びなんか聞いてくれない。
あたしは、教室から出ようとするんだけど、教室の外から聞こえる本間たちの笑い声が怖くて、教室から出られない。
あたしは、その最悪な空間から逃げられなくて、頭を抱えて蹲る。
教師に恋をしてしまったことへの罪の意識や、恥ずかしさ、そのことを親友にすら打ち明けられなかった罪悪感。
あらゆる気持ちが押し寄せてきて、人前で泣きたくないというあたしのプライドとは裏腹に、瞳には涙が溜まっていく。
右手に光る赤いブレスレットが、あたしの手首をぐいぐいと締め付け、最後にはぷつんとちぎれて、床に落ちる。
目を覚ましたときにはもう夕方になっていた。
べたべたとする気持ち悪い汗をかいたあたしの手は、窓から差す西日に照らされて赤く染まっていた。
流れた涙は顔を伝って、枕を湿らせている。
不思議なことに、眠る前に胸を満たしていたはずの優美への嫉妬は、あたしの中からすっかり抜け落ちてしまっていた。
握りしめていたはずのスマホも、いつの間にか手から離れて、ベッドの下に落ちてしまっている。
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