第3話 はじめてのきもち③
山内は明らかに椅子から落ちた格好の私に気が付くと、ぎょっとして駆け寄ってきた。そして「大丈夫か」「怪我はないか」とひとしきりばたばたとした後、私がなんともないとわかると、声を出して笑い出した。
「なんでそんな笑うんすか」
細身な見た目からは想像できないほど豪快に笑う山内を見て、あたしは正直ちょっと引いた。授業のときのまじめそうなイメージと、生徒がすっ転んでるのに笑い倒すような今の雰囲気とに、かなりのギャップがあったから。
山内ってこんな感じだっけ?
「いや~、川島って実はドジだったんだな。ほら」
笑いながら差し出された手に、あたしはちょっとためらいながらも、小声で「すいません」と言って掴まった。掴んだ手は思った以上にごつごつしてて、それもなんか不思議な感覚だった。
軽々引き上げられてはじめて、自分が不格好に尻もちをついていた恥ずかしさがやってきた。嫌なところを人に見られた。
「川島は、もっとなんかこう、しっかりしてるんだと思ってたよ」
「あたしがしっかりしてないってことっすか」
少しむっとして返すと、山内は焦ったように「ちがうちがう」と首を小刻みに振った。次から次へ、ころころと表情が変わるのが新鮮だった。
「山内、先生だって、もっと固い人だと思ってました」
「そうか? 俺いつもこんな感じだと思うけど。あ、でもそうか。川島とは授業以外のところで話さないもんな」
そう言って山内はまた、見たことのない笑顔を浮かべた。
授業では「僕」の一人称が、今は「俺」なことにも驚いて、そこで、この授業とそうでないときのギャップが、山内ファンが多い本当の理由なのだと気が付いた。
あたしらくらいの歳の女子は、大人の男性のギャップに弱い。本間たちや中野が山内を慕うのは、あたしが知らなかった山内のこういう面を知ったからなのかもしれない。
「何してたらあんな風に転ぶんだよ」
山内は腕を組んで、あきれたように笑った。山内を一瞥して、あたしはスカートについた埃を掃いながら「そうすね、」と口を開いた。
「さっき彼氏から電話きて、突然振られて」
自嘲しながらそう言ってから、自分でも驚いた。言うつもりなんかなかったのに。
山内は優美の席に座って、あたしにも「まあ座れ座れ」と自分の席に着くように促した。
あたしは、いつも優美と話すときにするみたいに、椅子を横に向けて座る。
山内のノリの軽さが心地よくて、仲のいい同級生と一緒にいるような気分だった。
親友に彼氏ができたことや、一人の教室が想像以上に寂しかったこと、彼氏に振られたこと、無様に転んだことなんかが全部重なったせいで、あたしは、なんとなく気が緩んでいたのかもしれない。ていうか、実は結構ショックだったのかもしれない。
普段のあたしだったら、自分の話を大人にするなんて、考えもしないはずだった。
あたしが優美やタクヤの話をしている間、山内は一つ一つの話にちょっとオーバーなくらいに表情を変えながら、でも口をはさんだりはしないで、黙って聞いていた。
あたしの話を真剣に聞いてる山内を見ながら、あたしは、自分の思ったことをこんなに素直に話したのは久しぶりのような気がしていた。
優美といるときもありのままの自分でいられてるように思うけど、山内と話してるときは、それとはまた少し違う感覚だった。山内に自分の話を聞いてもらうのは、気分がすっと晴れていくようで、気持ちがいい。
仲のいい兄貴がいたりしたら、こんな感じかもしれない。
「なんか思ったより元気そうで、先生ちょっと安心したわ。彼氏に振られたっていうから、泣くんじゃないかと思ったけど」
一通りの話を聞いたあと、山内は少しほっとしたような顔でそう言った。
「まあ、泣くほどのことじゃないし」
「彼氏に振られたことより、親友に振られたことの方が、ショックでかそうだしな」
山内はさぞ楽しそうに、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
この数十分で、あたしの中の山内のイメージは随分と変わった。
笑い声は大きいし、生徒のことはからかうし、教師とは思えないくらい子供っぽい。若干の馴れ馴れしさもあるけど、でもその分、距離が近くて話しやすい。女子人気が高いだけある。
「からかわないでください」
「木口に彼氏ができたからって、なにもお前と友達じゃなくなるわけじゃないんだから、遠慮しないでいっぱい遊びにでも誘えばいい。高校生じゃなきゃできないことって、お前らが思ってる以上に結構あるんだぜ」
「セリフがクサいし、おっさんっぽいっすよ」
「なんだよ、励ましてんのに」
むすっとする顔が面白くて、あたしは小さく笑った。
胸を満たしていた寂しい気持ちは、山内に吐き出すことですっきりしたのか、今はもうすっかり晴れてしまった。むしろ、山内と話をするのが楽しくて、あたしは少し元気を取り戻していた。
笑ったあたしを見て、少し満足そうな表情を浮かべた山内は、「すっ転ばないように、気を付けて帰れよ」と言って教室を出て行った。
教室に一人になったあたしは、窓際で野球部の声を聞きながら、少し冷たくなってきた風を浴びつつ考える。山内に話をしているうちに、わかったことがあった。
あたしはそんなにタクヤが好きじゃなかったってこと。あたしがショックだったのは、タクヤに振られたことじゃなくて、彼氏という存在がいなくなったこと。
前から思ってたけど、あたしは今まで、本気で人を好きになったことって、ないのかもしれない。
もちろんタクヤだって今までの彼氏だって、付き合ってるときは好きだと感じていた。でも別れた後に引きずったことは一度もないし、恋のことで泣いたことも一度もない。
今思えば、好きだから大事にしてたんじゃなくて、彼氏だから大事にしてたんだろう。
今日の優美を思い出す。優美は「お兄ちゃん」の話になると、目がきらきらして、耳が少しだけ赤くなる。
自分の恋バナをするときの優美は、いつものくしゃっとした笑顔とはまた違って、少し困ったような、それでいて嬉しそうな、微妙な顔で笑う。
優美は「本気の恋」をしていて、それを成就させた。それって、実はものすごく大変で、すごいことなんじゃないだろうか。
鞄を背負いながら、帰り道から少しそれたところにある雑貨屋に寄ろうと思った。優美が本当に好きな人と恋人になれた記念に、何かプレゼントでも買って帰ろう。
それと明日は、放課後に駅前のカフェのハムサンドを一緒に食べに行こう。
○
次の日の放課後、ハムサンドを齧るあたしの向かいの席で、優美は大きめのパフェを頬張っていた。見てるだけで胸やけがするほど飾り付けられたパフェを、優美はものすごく嬉しそうに食べている。
こんなに喜ぶなら、駅前のカフェをあきらめて正解だった。
あたしがカフェに誘う前に、優美がパフェのキャンペーンをやっているカラオケに行きたいと言い出したために、あたしは焼きの甘いパンのハムサンドを食べている。
満面の笑みでスプーンを動かす優美の右手首では、深い藍色のチェーンに金色の飾りのついた、華奢なブレスレットが光った。
「まさか、あの亜紀が、私にプレゼントをくれるなんてねぇ。しかも、お、そ、ろ、い」
優美はにやにやしながら、あたしの顔に「うりゃうりゃ」とブレスレットを付けた腕を近づけてくる。
優美のたれ目メイクがされた目尻が、余計ふにゃっと下がっているところを見ると、よっぽど嬉しいらしい。
あたしの右手首には、優美のと同じデザインの、深い赤色のブレスレットが付いている。
「うっさいな。あたしだって、らしくないことしたって後悔してんだからさ」
昨日の帰り、雑貨屋でアクセサリーを見てるときに、優美からメールが届いた。
「服、これにしたんだけど、変じゃないかな?」という文のあとに、服が並べられた写真が添付されていた。この前一緒にショッピングしたときに買ってた、白いTシャツとイエローのレースキャミのセットに、デニムのタイトスカート。
もっと攻めた服にするんだと思ってたのに、ロングめのスカートとは、置きにいったな、と思った。たくさん撮ったスクショの中の記事を、何かしら参考にしたのだろう。でもたしかに、優美によく似合う。
「いいんじゃない」と返信してから、あたしは、優美が必死に選んだデートコーデに合うようなアクセサリーを探して、華奢なブレスレットを選んだ。
同じデザインの別の色のが隣に並んでいたから、少し迷って自分用にも買った。
「私すっごい嬉しいんだからね!」
「わかった、わかったから。頼むから、着けるのは学校以外にしてね」
「なんでよ~~」
優美はふてくされたように唇を尖らして、持ってるスプーンでパフェの底に溜まったコーンをかき混ぜた。
あたしたちは放課後、よくカラオケに行く。
優美は歌が下手だからあまり曲を入れないけど、あたしは、カラオケで何かをつまみながら優美と話してる時間が、結構気に入ってる。
優美にとっては、その辺のファミレスとか、ハンバーガーショップに入るのと変わらないんだろうけど、きっと、人混みがそんなに好きじゃないあたしを気遣って、そうしてくれてるんだと思う。
優美の初デートの話をひとしきり聞いたあと、あたしはタクヤと別れたことと、動揺して椅子から落ちたことを話した。
優美は、「はあ? 何あの大学生、意味わかんない、腹立つ!」と、あたし以上に怒った。
顔を真っ赤にして、行き場のない握り拳を震わせる優美を見てあたしは、あたしたちはお互いの身に起きたことを、自分のことのように考えることができるんだな、なんて考えたりもした。
転んだことに関しては、落ち着いてから散々いじられた。
仕返しに、初デートで撮った写真を見せるようにせがんだら、優美は「やだよ恥ずかしいじゃん!」と耳を真っ赤にして照れた。
カラオケの退室時間がくるまで、あたしたちはたくさんくだらない話をした。
話題はいくらでもわいてきたし、小さなことでも笑いが生まれた。
でもあたしは、昨日山内に話を聞いてもらったことや、今日の数学の時間に、山内を目で追ってしまったことは、なんとなく話さなかった。
あたしはそれ以降、無意識に山内を目で追うようになった。
あたしは数学が得意だから、山内に直接質問しに行くようなこともなかったし、山内の周りには必ず本間たちがいて、話しかけるタイミングなんてなかったけど。
でも、嬉しいことがあったとき、悲しいことがあったとき、優美に話した後に話をしたくなるのは、山内だった。
またあのときみたいに会話をしたい、山内の普段見ることのない笑顔が見たい、そう考えることが多くなった。
あたしは、山内に恋をしていたかもしれなかった。
なんで、とか、どのタイミングで、とかは自分でも分からない。
でも、授業中に目が合うと嬉しいし、山内の数学がない日も、校内で見かけるだけでその日一日は少しいい気分だった。
今まで感じたことのない気持ちに、あたしは、これが恋ってやつで、これが好きという気持ちなのかもしれないなんて、柄にもない甘酸っぱいことを思った。
元カレたちには感じたことのない気持ちを、山内に感じている自分に気が付いたあたしは、そのことを誰にも話さなかった。もちろん優美にも。
これが恋だという確証が無かったし、そうだとしても認めるのに勇気が必要だった。
だって、教師に恋するなんてダサいし、あたしが自分から誰かを好きになって、ひそかに目で追っちゃってるとか、キャラじゃないし。
何より、ほかの山内のファンたちと同じだと思われるのが、なんか嫌だった。
しばらくあたしは、優美が「お兄ちゃん」の話をしているのを聞いていると、自分だけ隠し事をしているみたいで少し心苦しかった。
あたしは、もうすぐ始まる夏休みが明けても、まだ山内に感じている気持ちが変わらないままだったら、あたしの恋バナとして、優美に山内の話を聞いてもらおうと考えていた。
そのときは、キャラとかプライドとかを全部投げ捨てて、素直な気持ちを話そうと決めた。
お互いを大事にし合えるような存在の優美には、正直でいたいと思った。
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