第2話 はじめてのきもち②

 中野騒動のほとぼりが冷めてしばらく経ってから、優美に彼氏ができたことの方が、あたしにとっては大事件だった。


 優美の隣の家には、幼馴染の「お兄ちゃん」がいて、小さい頃からその人のことがずっと好きだという話は聞いていた。

 ころころ彼氏が変わるあたしとは違って、優美は、すごく一途に「お兄ちゃん」に恋をしていた。


 優美だってモテないわけじゃないし、よく告白されたりしてたけど、「お兄ちゃん」以外には興味がないみたいで、全ての告白をきっぱり断っていた。

 優美の恋バナを聞くたびに、あたしは、「本気の恋」みたいなものを感じていた。

 

 「お兄ちゃん、大学行くのに一人暮らしになっちゃったから、もう四年近く会ってなくて。でも今年、就職するのに実家に帰って来たって話、前にしたじゃん? 今逃したらもう一生片思いのままだって思って、ずっと必死にアプローチ続けてさ、昨日、やっとですよ」


 朝、教室に着いてすぐのあたしの腰にタックルしてきた優美は、鼻の穴を膨らませながら、できたての彼氏とのなれそめを話した。

 優美は話の間、いつもの倍以上身振り手振りをしながら、時折飛んだり跳ねたりして興奮を抑えきれない様子だった。


 興奮のあまり、謎に語尾が敬語になったりするのがおかしくて、あたしは、「おめでとう」を言う前にひとしきり腹を抱えて笑った。

 「なんで笑うの?」と慌てる優美の顔は、困った表情の奥から隠しきれない喜びが滲んでいた。


 いつもは遅刻ギリギリで教室に入ってくるのに、今日は早くこの話をしたくて学校まで走って来たのだろう。

 いつもしっかりセットされているはずの優美の前髪は、汗で額に張り付いていた。

 マスカラが目の下で滲んで、黒くなってしまっている。


 そんな優美を見て、あたしの中には、優美と一緒に飛び跳ねたいくらいの喜びが沸き上がっていた。

 そんなのあたしのキャラじゃないから、話を聞いてる間は終始座りっぱなしだったし、そんなこと思ったのだって照れるから本人には絶対に言わないけど、まるで自分のことのように嬉しかった。


 もしかしたら自分のこと以上に感じていたかもしれない。


 自分が、自分のこと以外でこんなに感情が動かされるなんて知らなかったから、あたしはちょっと驚いたし、同時に、あたしにとって優美は大切な友達なのだと改めて思ったりもした。


 部活に入ってないあたしたちは、放課後はいつも一緒に帰っていた。

 優美は甘いものが好きで、よくスイーツのお店を調べてきては、あたしを連れまわした。


 駅前にできたクレープ屋に開店当日に行って、無料で大盛りになった生クリームを満腹になりながら食べたり、行列のできたパンケーキ屋に三時間並んだりしたこともあった。

 あたしは甘いものがそんなに好きじゃないから、どの店でもなるべく甘くなさそうなものを選ぶんだけど、結局途中で気持ち悪くなって優美に食べてもらうことがほとんどだった。


 そんなことがもうずっと続いていたから、その日もてっきり「彼氏ができたお祝い」と称して、一緒に甘いものでも食べに行くのだと思っていたのだけど、そうはならなかった。


 「今日一日、めっちゃ長かった~」

 優美は、ホームルームの終わりのチャイムが鳴った途端に、珍しく素早く帰る準備を始めた。

 話の長い担任への文句を言いながら、ばたばたと帰り支度をしているけど、あたしはこんなに機敏に動く優美を、今まで見たことがない。

 

 「そんなに急いで帰ったって、彼氏は仕事終わってから来るんでしょ?」

 「お兄ちゃんに会う前に化粧だって直さなきゃだし、服だって考えなきゃだし、早く帰んなきゃ間に合わないよ」


 優美は、初めてのデートだからってことで、どんな服を着ていくか悩みまくっていて、いつもは昼寝をして過ごしているはずの休み時間にスマホに噛り付いていた。


 ちらっと覗いた優美のスマホの画面には、「彼の心を射抜く! 初デート編」だとか、「これさえあれば失敗なし! デートのための必須コーデ」だとか、カラフルな文字がたくさん並んでいた。

 優美はこれまでに見たことないくらい真剣な顔で、その胡散臭い記事のスクショをばしゃばしゃ撮りまくっていた。

 

 喉まで出てきた「あんた、こんなの真に受けてるわけじゃないよね」という言葉は、口から出る前に飲み込んだ。

 水を差したくなかったし、なにより、優美が一生懸命なのがあたしには伝わってきてたから。

 

 優美は彼とのデートをよほど楽しみにしているみたいで、一日中心ここにあらずって感じだった。

 一日のうちに三回あった移動教室の全てで忘れ物をしてたし、話しかけても聞こえていないことが何度かあった。


 あたしは、彼氏とのデートが楽しみで仕方なかったことなんて一度もないから、彼のことが好きで好きで仕方がないって感じの優美が、少し、ほんの少しだけ、羨ましいと感じていた。


 帰り支度を済ませた優美は、「じゃ、また明日ね、亜紀! メールする!」と短いスカート丈を気にもせず、小走りで帰って行ってしまった。

 「はいはい、楽しんで」というあたしの声は、優美が全力で開けたドアの音に掻き消された。


 優美が帰ってしまって一人になったあたしは、なんとなくすぐ家に帰る気にはなれなくて、しばらく教室でぼーっとしていた。

 いつもは気にしてなかったけど、放課後に教室に残ってる生徒って結構いるみたいだ。

 一日授業を受けて疲れているはずなのに、開放感からか、みんな心なしか朝より元気そうに見える。


 賑やかだった教室からは徐々に人が減っていき、しばらくすると誰もいなくなって、教室にいるのはあたしだけになった。


 放課後に教室で一人なんて経験、今まで一度もなかったから知らなかったけど、一人の教室って、いつもより広く感じる。

 普段の騒がしい雰囲気とのギャップで、全くの無音みたいに感じる教室の空気が、余計あたしをさみしくさせた。


 開け放った窓から時折、梅雨明けのぬるい風が入ってきて、あたしの髪を揺らした。

 

 優美に彼氏ができたのは、本当に嬉しい。

 嬉しそうな優美を見てると、あたしまで嬉しくなる。それは嘘なんかじゃない。


 でもやっぱり、正直さみしい気持ちもある。

 あたしに彼氏ができるたびに優美が言う、「自分だけ置いていかれたような気分」というのがなんとなくわかった気がして、あたしは溜息をついた。


 口から出た小さな溜息は、あたしの髪をなでる湿った風にさらわれていく。


 窓の外からは、野球部員の太い声と、金属バットが硬式ボールを叩く乾いた音が聞こえている。

 外から聞こえてくる音や声からは、有り余るほどの活気が感じられて、教室の中の静けさを際立たせた。


 優美を盗られた。


 ふと、そんなことを考えている自分に気が付いて、かっと耳が熱くなるのを感じた。

 あたしは馬鹿な考えを吹き飛ばすために、思い切り頭を振る。

 友達に嫉妬なんて、子供じゃないんだから。


 普段考えないようなことを考えてしまうのも、こんな静かなところに一人でいるからに違いない。


 もう帰ろうと椅子を引いたとき、あたしのスマホが間抜けな着信音を鳴らした。

 画面には「タクヤ」と表示されている。


 このまま一人でまっすぐ家に帰る気分でもなかったし、なんていいタイミングなんだろうと思った。

 流石はあたしの彼氏。

 以心伝心って、きっとこのことだ。気まぐれでタクヤのナンパに付き合った、三か月前の自分を褒めてあげたい。


 しんとした教室のせいでいつもよりうるさく聞こえる着信音を、通話ボタンを押してかき消した。


 「亜紀?」

 電話がつながると、もしもしより先に名前を呼ぶのがタクヤの癖だ。

 今まで共感することがなかった、「彼氏の声を聞くと安心する」という話が頭をよぎる。

 

 「もしもし、どうしたの」

 電話がかかってきただけで喜んでいるのを悟られないように、なるべくいつもの調子で返す。

 ちょっと意識しすぎて、怒ってるみたいになったかもしれない。


 「お前今学校?」

 タクヤの低い声が、ちょっとけだるそうに言う。

 この後にはいつも、「学校終わってんなら、どっか行こうぜ」が続く。


 ちょっとお腹もすいてるし、今日は駅前のカフェがいいな。あそこのホットハムサンドはタクヤも好きだったはず。


 「今帰ろうとしてたとこ」

 右手でスマホを耳にあてたまま、左手でカバンを掴んで椅子から立ち上がった。


 「タクヤ今どこにいる? そこまで行くけど」

 「あー、いや、そういうんじゃなくてさ。亜紀、別れよ」

 

 唐突すぎて、咄嗟に言葉が理解できなかった。

 頭の奥の方がくらくらする。

 タクヤは今、なんて言った?

 

 「……は?」

 あたしの喉をやっと揺らした声は、ひどくかすれて、喉に絡んで気持ちが悪かった。

 

 「俺たち別れよう」

 「え、なんで」

 「それだけ。ごめんね。じゃ」

 

 ぶつっと通話が途切れる音を最後に、スマホの向こうからは何の音も聞こえなくなった。


 外から聞こえた、カキーンというバットとボールの衝突音が鼓膜を揺らす。

 さっきまでの静かな教室より、今この瞬間の教室の方がはるかに静かに感じた。


 あたしは、自分の置かれた状況が理解できなくて、通話の切れたスマホを耳にあてたまま、足の力を抜いた。

 しかし、座ろうとした椅子が思っていたところよりも少しずれたところにあったせいで、あたしは椅子に座り損ねてしまった。

 

 見ている景色がスローモーションで傾いていく。

 思った以上に重たい音と、椅子の倒れる耳障りな音がして、あたしの腰とおしりは思いきり床に打ち付けられた。

 

 「痛った……ほんと最悪」

 タクヤは別れる理由も言わないまま、ただ別れだけを告げて、電話を切った。


 悲しいとか辛いとか、そういう感情が追い付かず、あたしの頭には、ただ唐突に振られたという事実だけがぽつんと浮かんでいた。

 タクヤに対して、腹が立ちもしない。

 ただ、ぶつけた箇所の鈍い痛みだけが、激しい自己主張をしていた。

 

 尻もちをついた姿勢のまま、腰をさする。

 本当に馬鹿みたいだ。

 転んだことも、電話なんかで浮かれたことも、振られたことも、全部馬鹿みたい。


 床に座り込んだまま立ち上がれないでいると、教室の扉が勢いよく開いた。


 「なんかでっかい音したけど、誰だ? 大丈夫か?」

 教室を心配そうな表情で覗いたのは、山内だった。

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