抱くは灰

@hitofumi

抱くは灰

 起きる。いつもと同じ時間。顔を洗い、歯を磨く。朝食を食べる。着替えて荷物をもって家を出る。変わらない。ありふれた行為。あなたのもとへ向かう。道を歩き、信号で止まり、角を曲がり、階段を上る。錆びた階段のきしむ音すらも予定調和を示している。合鍵を出し、鍵穴に差し込む。ガチャリ。音を立てて鍵は回る。ドアノブに手をかけ、扉を開ける。ぎぃ。と音が鳴る。ばたん。という音とともに扉が閉まる衝撃で冷蔵庫の上のレンジが少し揺れた。ぎぃ。ぎぃ。まだなっている。扉の音ではない。部屋の奥のほうから聞こえてくる。廊下を歩く。部屋に入るとベットの手前。机の少し後ろのほうに、あなたが見えた。左右に揺れながらぎぃ、ぎぃと音を立てている。足元に横たわる椅子が、あなたの最後を物語っていた。

 起きる。いつもより早い時間。顔を洗い、歯を磨く。朝食はのどを通らない。吸い込まれるような色の服に着替え、荷物をまとめる。バッグをもって立ち上がると、数珠が落ちた。それを見て口元を抑えてトイレへ駆け込む。もう一度歯を磨き、外へ出る。空は暗くて、重かった。駅に向かう。すれ違う人の目は、共通して私に同じ感情を訴えていた。電車に乗る。漠然と外を眺める。重く重なった雲は今にも落ちてきそうだった。いつもより低く感じられる空は私の中の、孤独と絶望を浮き彫りにした。電車を降りる。少し歩いて民家につく。5台ほどの車が停まっていた。インターホンを鳴らし、返事を待ってドアを開ける。頭を下げて、靴をそろえる。

 居間に進むと、横になったあなたがいた。少し高めの枕はあなたには辛そうに感じた。目を閉じている。鼻に綿を詰められ、唇は渇いていた。冷え切ったあなたの頬はまるで氷のようだった。柔らかな頬に指を這わせる。いつものような微笑みは帰ってこなかった。あなたの手を握る。大きくて、ごつごつしたあなたの手は、どれだけ強く握りしめても、握り返してはくれなかった。あなたの胸に顔を寄せる。どれだけ泣いても、抱きしめてはくれなかった。

 バスに乗る。どれくらいの時間揺られていただろう。私は、まばたきも忘れて外を見ていた。バスの前には、あなたを乗せた車が走っていた。バスが右に曲がる。否が応でも景色が変わった。バスを降りる。大きな木の箱に入れられたあなたが運ばれていくのが見えた。あなたの後をついていく。長い廊下を歩く。しばらくすると無機質な、広間にでた。最後にもう一度あなたに触れたい。あなたを感じたい。あなたの前に立つ。小さな両開きの扉を開く。あなたがいた。きっともう起きることはない、あなたがいた。私の涙であなたの唇が濡れていた。銀色の扉が開く。あなたが消えていく。私は思わず手を伸ばす。もしかしたらあなたは私の手をつかんでくれるかもしれないから。空をつかんだ私の手には受け入れたくない感情が握られていた。

 時間が経つ。あなたに会いたかった。待合室の襖が開かれる。靴を履き、歩く。銀色の扉が開く。あなたが出てくる。変わり果てたあなただった。笑うと細くなった目も、少し低かった鼻も、微笑みかけてくれた口も、柔らかかった頬も、ただの白になっていた。私を撫でた手も私を包んだ胸も、細く、白くなっていた。受け入れたくない現実は、部屋と同じように白かった。あなたが拾われていく。あなたがいなくなっていく。最後にあなたの喉が拾われた。あなたが消えた。まるで最初からいなかったみたいに。

 起きる。いつもと同じ時間。顔を洗い、歯を磨く。朝食を食べる。着替えて荷物をまとめる。あなたに一言声をかける。あなたを首にかけ、私は外へ出た。

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