無と有

三鹿ショート

無と有

 私の人生の目的は、一体何だろうか。

 幼少の時分より、流行り物どころかあらゆる娯楽に無関心であり、恋愛に積極的になるであろう学生時代においても、異性を目で追うこともなく、漫然と日々を過ごしていた。

 食事を口に運ぶ理由は、そうしなければ生きていくことができないためだというだけのもので、好みはまるで無く、栄養があれば泥水を飲むことにも抵抗はない。

 死というものを避けているのならば、生きるということが人生の目的なのだろうか。

 だが、他者の人生を豊かにするわけでもなく、次世代を担う子どもを作るというこもない私が生きていたところで、意味はあるのだろうか。

 しかし、考えたところで、私は己が変化するとは思えなかった。

 ゆえに、私は設定された通りに動く機械のように、今日という日を昨日と同じように過ごすだけだった。


***


 新入社員としてやってきた彼女の教育係を任されることになった。

 他の人間は自身の仕事で手一杯であるために、彼らは私に感謝の言葉を述べていく。

 多忙なのは私も同じだが、私が何をされても文句を言わず、黙々と仕事をこなすことを会社側も理解しているのだろう。

 雇われている以上、指示に従うのは当然のことであるため、同僚や上司が私に感謝する姿に違和感を覚えるが、余計なことは口にしない。


***


 端的に言えば、彼女は役立たずだった。

 一を聞いて十を知るどころか、十を聞いてようやく一を理解するような人間である。

 私以外の人間が教育係ならば、常に怒鳴り声を発しているだろう。

 だが、怒鳴ったところで理解が進むわけではない。

 新入社員ゆえに何も出来ないのは当然であり、それを使い物にするのが教育係の役割ではないか。

 私は淡々と、彼女の仕事の世話をしていった。

 しかし、半年が経過しても、彼女は通常の人間の半分以下の働きしか出来ていなかった。

 彼女が失敗する姿を見て、多くの同僚が私に同情していたが、内心では自分が教育係で無かったことを喜んでいることだろう。

 それでも彼女が首を切られない理由は、その愛想の良さに尽きる。

 常に笑顔を振りまき、退勤時間になるまでそれを維持し続けることができていた。

 落ち込んでいる人間がいれば昼食に誘い、会社に戻ってくる頃には、その相手は何を気にしていたのかを忘れてしまっているほどに気分を転換していた。

 ゆえに、彼女の本業は、社員の心的負担の軽減だといえる。

 実際、彼女が入社して以来、会社の雰囲気は明るくなり、これまで笑顔を見せたことが無い人間でも、歯を見せて笑うようになった。

 だからこそ、彼女は私が気になっていたのだろうか。

「何故、先輩は笑わないのですか」

 共に昼食に出ている際、そのような疑問をぶつけられた。

 他者が聞けば、失礼極まりない質問の内容である。

 しかし、私がどのようなことにも過剰な反応を見せないことを知っているのだろう。

 長い間同じ相手を見続けていたのは、私だけではない。

 彼女の問いに対して、私は答えた。

「笑う必要が無いからだ。笑えば金が湧いて出てくるのならばそうするが、そのような都合の良いことはない」

「笑えば、良い気分になりますよ」

 そう口にすると、彼女は得意の笑顔を見せた。

 周囲の人間が思わず振り返ってしまうようなものだが、私にはただの表情にしか見えない。

「気分が良くなれば、何か良いことでもあるのか」

「気分が良いと、優しくなることができます。優しくなれば、他の人間も幸福になります。つまり、世界が幸福で満たされるのです」

「では、私は最後に残った異物ということになるだろう」

 彼女の理論は理解できる。

 だが、理解することと実行することは、同義ではない。

 気分の良し悪しで変化するような世界ならば、最初から気分を変動させなければいいだけのことだ。

 それならば、世界は常に一定である。

 無駄なことが起きることはないだろう。

 私はそれ以来口を利くことなく、食事を進める。

 彼女もまた、私にそれ以上言っても無駄だということを理解しているのだろう、料理の味に過剰に反応しながら、皿を空にしていった。


***


 仕事を終え、彼女と共に会社を出たところで、一人の男性が我々に近付いてきた。

 相手の顔を見た瞬間、彼女にしては珍しく、表情を曇らせる。

 彼女に意識を向けていたことが災いだったのか、腹部に痛みを感じたとき、ようやく私は男性に刺されたのだと理解した。

 周囲に悲鳴が木霊するが、男性は狂ったように笑い声を発している。

 やがて、男性は勇敢な人々によって取り押さえられた。

 私はその場に座り込みながら、心配する彼女の声を聞いていた。

 痛みで意識を失えば、どれほど楽だっただろう。

 救急車が来るまで、私は入院時の治療費のことなどを考えていた。


***


 話を聞いたところ、彼女は私を刺した男性に付きまとわれていたらしい。

 彼女の笑顔に魅了され、勝手に恋心を募らせた男性は、己が彼女の交際相手だと思い込むようになったようだ。

 やがて、仕事で他社へ向かうときや、並んで昼食を口に運んでいる姿を何度も見ているうちに嫉妬心に支配されるようになり、今回のような事件を起こしたというわけだ。

 彼女が原因といえば原因だが、非があるわけではない。

 気にすることはないと何度も告げたが、彼女は己が犯人の身内であるかのように涙を流しながら謝罪を繰り返した。

 その姿を見ているうちに、私は奇妙な感覚に襲われた。

 それがどのようなものであるのかを即座に言語化することは不可能だったが、気が付けば、彼女の手を握っていた。

「きみが常のような元気な姿を見せることが、私にとっての治療である」

 そして、自分でも聞いたことがないほどの柔らかな声を出していた。

 彼女は私の顔を見ると、驚いたかのように動きを止めた。

 彼女の顔が、段々と赤く染まっていく。

 それを見られないようにするためか、彼女は私から顔を逸らすと、

「また明日、お見舞いに来ます」

 そう告げ、病室を後にした。

 私は、己の変化に困惑した。

 しかし、誤魔化すことは出来ないために、認めなければならないだろう。

 そう思いながら、私は目を閉じた。


***


 私が退院するまで、彼女は毎日のように病室へとやってきた。

 平時と変わらない態度を見せることがほとんどだったが、以前よりも私と目を合わせることが減ったように思えた。

 それが一体何を意味しているのか、私には分かる。

 ゆえに、退院の日、私は彼女に告げた。

「驚くことに、きみと触れ合ううちに、私は変わったようだ」

 その言葉に、彼女は目を見開いた。

 何も言うことができない彼女に代わり、私は彼女の手を握りながら、真っ直ぐに見つめて、

「私は初めて、誰かと特別な時間を過ごしたいと思ったのだ。その誰かとは、きみに他ならない。きみが望まないのならば諦めるが、私の想いを受け入れてくれるだろうか」

 彼女は顔だけではなく耳まで赤く染め上げると、餌を求める金魚のように何度も口を開閉させる。

 やがて、目を潤ませながら、ゆっくりと首肯を返した。


***


 私の部屋は、殺風景以外の何物でもない。

 だが、今は彼女という存在のおかげで、異なった部屋に見えた。

 寝台に並んで座りながら隣を窺うと、彼女は緊張した面持ちだった。

 私が頬に手を添えると、彼女の身体が一瞬大きく跳ねる。

 これから何をされるのかを分かっているのだろう、彼女は小さく震えながら目を閉じた。

 私は彼女の顔を、平手で打った。

 寝台に倒れ込んだ彼女は、痛む頬に手を当てながら、目を白黒させている。

 己が想像していた展開とは異なっているのだろうが、私はそうではない。

 私は彼女を見下ろしながら、告げる。

「きみが病室で泣いている姿を見たとき、私は心を動かされたのだ。普段は笑顔を振りまいている人間が見せる弱々しい姿ほど、美しいものはないのだと」

 今ならば、私の感情を言葉に表すことができる。

 私は、彼女が弱っている姿に、どうしようもなく興奮していたのだ。

 誰もが目にしたことがないような弱り切った様子は、私だけが見ることができる。

 それは、彼女を真に支配したといえる。

 彼女が誰にも見せたことがない姿をこれから目にすることができるのだと思うと、自然と呼吸が荒くなる。

 私は、彼女に感謝するべきだろう。

 自身に隠れていた感情を呼び起こしてくれた彼女に対する感謝の証として、私は彼女を味わい尽くす。

 彼女は怯えた様子を見せるが、それは私をさらに興奮させるだけだ。

 近付く私に対して彼女は後退りしていくが、すぐに壁にぶつかった。

 涙を流し、懇願するような台詞を発していたが、内容は聞き取っていない。

 彼女はこの部屋から、二度と外に出ることはできないのだ。

 どのような理由で彼女が退職するのかを、考えておかなければならないだろう。

 しかし、今は眼前の享楽に身を預けよう。

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