5
人形町駅に着いたのが十一時半頃。慣れないスーツが窮屈に感じる。地上へと続く階段を登ると、どこか昔の風情を感じる店が並ぶ通りに出た。
あらかじめ調べておいた蕎麦屋に立ち寄る。ゆっくりしたかったから立食い蕎麦ではない店を選んだ。座敷の席に座り、締めすぎたネクタイを少しゆるめる。出されたお茶を飲みながら、蕎麦が出るまで電子書籍を読んで過ごす。だらだらと読み進めてはいるものの、最終面接に備えてなんとなく購入した自己啓発本は、案の定、性に合わない。
エプロンを着たおばあさんがざる蕎麦を運んできてくれた。麺を出汁のきいた濃いめのつゆに浸してすする。つゆには大きめの葱が入っていて、噛んだ瞬間に独特の甘さが口の中いっぱいに広がった。
ふと、たまたま大学で見かけた三条さんの姿を思い出した。今まで常に誰かに囲まれていた三条さんは一人だった。外側からはまだわからない生命を宿したお腹を抱えて、ゆっくりと歩いていた。俺はあの日以来、三条さんと話していない。ただ遠くからぺったんこの靴を履いた彼女の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
蕎麦をじっくりと堪能したつもりだったけど、最終面接までまだ一時間近くもあった。そういえば、この近くに水天宮という安産祈願で有名な神社があると聞いたことがある。頭にこびりついて離れない三条さんのことをせめて慰めたい。俺は意を決して神社に向かうことにした。
水天宮は思ったより近代的な建物に囲われていて、都会的だった。入り口には狛犬や赤ん坊を抱えた河童の像が置かれている。平日だというのに、本殿まではちょっとした列ができていた。前に並んでいる夫婦はお宮参りに来ているようで、赤ん坊は友禅染めの鮮やかな祝着を着ていた。赤ん坊の頭を撫でながら顔を見合わせて微笑む夫婦の姿がなんとも言えず幸せそうで、俺は胸が苦しくなった。
男一人でいたたまれない気持ちになりながらも、やっと自分の番がやってきた。鈴から垂れ下がる紐は赤や黄色、緑に紫に桃色と、色とりどりだ。そのうちの一本を手に取って鈴を鳴らす。お賽銭を丁寧に投げ、二礼二拍手一礼。目をつぶって手を合わせる。非力な俺はただただ三条さんの幸せを願った。
水天宮を出て、面接のある本社に向かう。途中で人形焼きの売ってある店を見つけて、匂いに誘われるように思わず立ち寄る。ディスプレイには、七福神の顔がぎっしりと並んでいた。壺焼きのつぶあんも登り鮎の白あんもどれも美味しそうだったが、それよりも俺を見つめる七福神の顔がなんだか怒っているように見えた。
俺は何のために水天宮に行ったのだろう。本当に彼女の幸せを願うなら、祈るだけでいいはずがない。勝手に嫉妬して、どうしても悔しくて、複雑な思いで彼女を避けてしまっていたけれど、俺はそれでいいのか。自分の意思を貫き、一人で子どもを育てて生きていこうとする彼女を、あれだけ好きだった彼女を、俺は目を背けて見捨てようとしている。
それでも男か。
俺は突き動かされるように走り出した。すれ違った通行人が驚いて振り返ろうとも、ジャケットやワックスで整えた髪が乱れようとも構わない。ただただ、なりふり構わず彼女の元へと向かう。企業の前を通り過ぎようとも、全速力で駆け出した足を止めることはもうない。振り乱して走る俺の背中を押すように、遠くから今日初めての蝉の声が聞こえた。
彼女と二人で 絵子 @1go1eco
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