第4話 鬼の内

 言葉を発そうとした私の口から大きな泡が溢れ出た。

 苦しくて仕方がない。さっきまでの心地よさはどこへ行ってしまったのか。


 水の中だと気がつき慌ててもがく私の腕を、ひやりとする小さな手が掴んだ。

 それがさっと背中へ回ったかと思うと、力強く水面へ押し上げられる。


 あれ程深く永遠に思えた水は、寝そべった私の体がやっと浸る高さに溜められているだけだった。


 浅い呼吸を繰り返しながら、浴槽の縁を強く握りしめる。

 長方形のそれは美しい木製で、まるで棺桶のようだった。

 湯気のせいか視界も思考もぼやけて、自分の動作がひどく緩慢に感じる。

 危険だと思っているのに、頭が働かない。


 板張りの浴室には照明がないように見えるのに、部屋全体が生ぬるい暖色に染まっている。

 ふと見ると、白い着物の子供が隅にしゃがみ込んで何かしている。


 いつからいたのだろう。

 いや最初からだ。


 私を引き上げたのは、その子供だろう。部屋には私とその子の他いない。

 立ち上がり振り向いたその子供が、美しい少女だったことで、私の緊張は少し和らいだ。

 少女の差し出す手を取って、何とも無防備に湯から体を持ち上げた。少女の運んできた椅子に腰掛けると、彼女は手際よく私を拭いていく。

 それが終わると今度は、顔や首、胸元から背中へと、丁寧に粉をはたいてくれる。

 ぼんやりしている間に、少女は真っ赤な襦袢を広げて私の腕を袖へ通した。

 左右の腕が通ると、私は自然と立ち上がり、彼女がそれを整えてくれるのを待った。

 不思議な時間だった。

 まるで儀式のように、私たちは静かに事を進めていた。

 心地よい緊張感が、これから起こることを期待させる。


——ああ、あの男に、会えるのだ。あの男の腕に、抱かれる……


 あれほど憎かったはずの男の顔を思い浮かべ、私は心躍らせていた。

 憎かったのではない。

 初めから、あの男に惹かれていたのだ。

 あの若くて無謀で逞しい男に。

 すっかり準備の整った私は少女に先導され、風呂場から少し離れた部屋へ入った。

 もちろん寝室だ。

 私は、なぜか何もかも知っていたような気持ちになった。

 これから起こることも、すべて私の望んだことで、すべて私の仕組んだことのように。

 敷かれた布団の上に座り、大きく息を吐いた。

 彼の姿を思い浮かべる。


 あの浅黒く逞しい腕。

 意志の強そうな瞳。

 心臓が早鐘を打っている。


 彼の無遠慮な友人は、私を居丈高で脂性のろくでもない男だと笑った。


 確かにそうだ。

 そうだ、私などが、彼に抱かれてよいものなのか。


 私は急に恐ろしくなって着物の端を強く握り締めた。

 ちょうど廊下から足音がした。


 彼だ。



 はっと顔を上げると、ノックをするでも声をかけるでもなく『彼』は襖を開けて入ってきた。


 かあっと頭の芯まで熱くなった。


——怖い


 しかし、こんな姿の私に躊躇なく近づいてくる『彼』を見て、私は確信した。

 彼も私を求めている。少なくとも今は。

 私はうやうやしく頭を下げた。

 『彼』は震えている私の肩を、大きな手で掴むとそっと引き起こしてくれた。

 目が合っただけで、私は全て投げ出してしまった。


 彼の前では、私は無力だと思い知らされる。

 逃げ惑っていた真実が突きつけられる。


私は彼に嫉妬して、敵わないことが許せなくて悔しかったのだ……!

認めなくてはいけない……


 涙を流す私を、『彼』が優しく私を抱き寄せてくれる。

 熱が、息遣いが、鼓動が伝わる。

 敵わない。叶わない。


 私は彼を越えられはしない。


「ああ、悔しい…」

「貴方は私には成れやしない。でも、私だって、貴方には成れやしない」


 『彼』の熱い手のひらが、私の頭をゆっくり撫でる。

 堪らず抱きつくと『彼』も抱き返してくれる。


「貴方は美しい」

 ぞくりと快感が体を走った。こんなことは初めてだ。


「貴方は貴方だからこそ魅力的なのです。誰かと比べる必要はありません。貴方の魂は貴方の中で光り輝いている……。恐がらないで。私など、気にすること自体が無意味なのです。その美しい光は、少しも曇ってなどいませんよ」


 優しく甘い声や、同じくらい優しい手つきに私はひどく混乱した。

 頭の中に手を入れられて、ぐちゃぐちゃとかき回されているようだ。


——やめてくれ! 助けてくれ!


 溺れたかのように遮二無二『彼』にしがみつき、勢い二人で布団へ倒れこんだ。

 ずしりと重い、確かな存在感。


「今村さん」

 『彼』の声は、深く私の心に染み込んでしまう。

 心地よくて、もう他はどうでもよくなる。

 視界が白く霞んでいく。


……このまま死ぬのだろうか。




「気を確かに。もう大丈夫ですよ……」


 歪む世界は『彼』を奪っていく。


 光が眩しくて、何度も瞬きをした。

 そこには、困惑した様子の紀藤がいるだけだった。


「き、とう……」

「人形は、もうできましたよ。貴方の悲しみや苦しみをしっかり閉じ込めて」

 紀藤は今まで以上に優しくほほ笑み、私の二の腕をさすった。


 見回せばそこはあの小さな客間だった。

 飲みかけの湯飲みからはまだ湯気さえ立っている。


 私はその床に寝そべって、紀藤を抱き寄せているではないか。まさに悪夢だ。

 しかし恐ろしいほど心地よく、軽やかな心持ちがした。


「いったいなにが……」

 私は紀藤に助け起こされて椅子へ座り直すと頭を押さえた。

 ひどい頭痛だ。吐き気もする。


 紀藤は低いテーブルを挟んだ向かいの椅子に腰を下ろして微笑んだ。

 私の狼狽ぶりと反比例して涼しく落ち着いた笑顔だ。

「本来なら、もう少し聞き取りをしたり、事前に確認するのですが……」


 気がつくと、卓の上には人形が座っていた。

「ひっ……」

 それは確かに、さっき私を風呂場で世話していた少女ではないか?


 硝子の目が、じっと私を見ている。


「肉体は魂を入れる器です。美しい魂は、美しい肉体に宿る」

 はっと視線を紀藤へ戻すと、彼も黒く底のない硝子玉のような瞳で私を見ていた。


 言葉を失う。


「人間は、等しく美しいものです。あなたも、『彼』も」

 『彼』とは、奴のことだろう。


 もはや憎しみも、それゆえに生まれたであろう歪んだ愛も感じない相手だ。


「あ、あの、これは」

「これがあなたの人形です。他の女性達にもこうして、治療といいますか、セラピーというやつですか、英語で言えば」

「せ、せら?」

「良寛さんのところへはご自身で持って行ってください。きちんと本人が手を合わせた方が良いですから」

 そう言うと、紀藤は椅子へ深くもたれて微笑んだ。


「それで今村警部、私にはなんの容疑がかかっているのですか?」

「え?」

「そこまでは見通せません。私も万能ではないので」


 言い淀んだのはその姿が神々しかったからなどでは決してない。警察だとなぜわかったのかという疑問が浮かんだからだ。


 そしてなにより、こいつに容疑という容疑がなかったからだ。

 ただ、怪しいから暇つぶしに見張ってこいとそういうだけなのだから。


「なるほど」

 私が何度も驚くのがよほど楽しいのか、紀藤は口元を隠し、誤魔化すように足を組んだ。仕立ての良いズボンを履いている。いったいどれほど儲けているのか。


……いや違う。そんなことはどうでもいい。


「なにが、なるほどなんだ」

「容疑ではなく、暇つぶしなのだと」

 涼しい顔でそう言われ呆気に取られていると、紀藤はさらに続けた。

「例の一件で閑職へ追いやられたのですね。さぞお辛いことでしょう」


 人形と紀藤の視線によって、私は縫い止められたように動けなかった。


「何か困ったことがあれば、いつでもいらしてください。私にできることがあれば、お手伝いしますよ」


 微笑むその顔は、鬼か悪魔か。





 その後『池袋連続押し込み強盗』の捜査に行き詰まった私が、再びこの男を訪ねたのは、二ヵ月後のことだった。



end

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戦後東京を舞台にした奇妙な話『人形の棺』 所クーネル @kaijari_suigyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ