第3話 今村警部
人形が生きているなどという馬鹿げた事が頭に浮かんでから、住職の言葉が何度も蘇った。
——鬼の正体を確かめねばならない。
寺へ行った翌日、私はついに紀藤のアトリエに向かった。どの駅からも程よく遠い、閑静な住宅街だ。
人形師というものがどれほど儲かるのか、その家は平屋だが立派なものだった。
門の内側、玄関までのほんの少しの空間に、両側から木が覆いかぶさるように生えている。
たじろいでしまうほどの威圧感を持って、侵入者を拒むように。
「鬼は、外か」
私の呟きに答えるように枝葉が唸った。
恐る恐る、門柱にしがみ付いている虫のような小さなチャイムを押す。
無愛想なブザー音がし、ややあって、ガラスの引き戸が静かに開いた。
「どなたです」
木陰になった玄関に立つ、鬼。
男は微笑んで私を見ていた。鬼などとは縁遠い、柔和な顔をしている。
まるで福だと思ってしまった。
「あ、あの、人形師の、紀藤さんのお宅で間違いないでしょうか」
「はい。僕が紀藤です」
「私、今村と申しまして、良寛氏から、あなたの話を伺ったんです」
福の仮面をした鬼は、戸を開けたまま一歩こちらへ歩み寄った。
「まぁ、あの方が僕の話をするだなんて珍しい」
私の嘘を見透かすように、鬼は目を細めた。
切れ長で、なんとも涼やかな目元だ。
はっとして、私は門に飛びつかん勢いで前へ出た。
「に、人形を……私に人形を作ってください」
すると紀藤は、「おや」と言うように目を丸めた。
「災いや不幸を、人形が引き受けてくれると聞いたのです。私は……私の人生はろくなもんじゃない」
それは本当のことだ。ここ最近は特に。
「妻とはずっとうまくいっていないし、子供からも疎まれている。仕事では……、仕事では失敗をしたばかりで左遷され、元のところへ戻れるか見当もつかない。いや、望み薄だ……」
嘘をつくのは好きではなかったので、職業は黙っておくことにした。
しかしこうして話してみると、私という人間はなんとも惨めな男じゃないか。
紀藤は、そんな私の愚痴にも似た話をじっと聞いていた。
そしてゆっくり、本当にゆっくりと近づいてくると、腰ほどの高さの鉄門に手をかけた。
「今村さん、と仰いましたね。申し訳ないのですが、僕の人形は、そう簡単に作って差し上げることはないのです」
私を見つめる目は、深く、深く何かを沈めているようだった。
息をするのを忘れるほど、私は彼を見つめていた。
私のその表情に、何を読み取ったのか、紀藤は小さく笑った。
「ですから、もう少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか。中へ、どうぞ」
きい、と静かに門が開いた。
玉砂利が微かに土の上に積もり、雑草がそこここから顔を出している。
案外すんなりと、私は迎え入れられてしまったのだ。
鬼の巣へ。
家の中は大層涼しかった。
ぐるりと木々に囲まれ、日差しが家屋まで届かないからだろう。それと同時に、四方から風が吹いている。昨日訪れた寺と似ていると思った。
違うのは、不気味なほど静かだということ。
私は促されるまま玄関脇の小さな客間で座っていた。
うねる模様が描かれた紅い絨毯が敷かれ、古いが安物ではない椅子とテーブルが据えてある。
隅に置かれた、これも見事な本棚には、難しそうな分厚い本が整然と並んでいる。
私が部屋中を観察し終えた頃、紀藤は茶と茶請けを盆に乗せて戻ってきた。
「すみません、こんな物しかなくて」
「私こそ急に押し掛けてしまい」
「いえいえ、僕に人形を依頼される方は、いつでもぎりぎりでいらっしゃいますから。お気になさらず」
ぎりぎり、とはなんのことだ。何がぎりぎりなのだろう。
私は手に取った湯呑みまで品がよいことに気付き、目眩を覚えた。
完璧なのだ、この紀藤という男は。女を垂らし込むのにも、聖人君主に付け入るのにも。
笑顔を絶やさず穏やかに話し、まるで邪気がないように振舞う。
だが警察へ駆け込んできた何人もの関係者は、皆、紀藤を恐れていた。愛する者を早くこいつから遠ざけたいと必死だった。
その姿のほうが、よっぽど鬼に見えたほど……。
「さて、話を、聞かせてもらいましょうか」
紀藤は、勿体付けるようにことさらゆっくり話した。
一音一音を正確に口がなぞる。
「あなたの、闇を……」
紀藤の声がたわむ。
途端に、世界が歪んだ。
座っていることすらできないほど、部屋が右へ右へと回っていく。私は嗚咽を漏らしながら床に倒れこんだ。
強烈な吐き気と、はらわたを溶かされていくような熱が全身を包む。目の前がチカチカと喧しく光っている。
一瞬の暗転。
徐々に世界は柔らかな光に包まれた。
ここはどこなのだろうか。痛みも苦しみも、あっという間に消え、私は生ぬるい湯に浸かっているようだ。
深い深い水の中。響く音は、声なのだろうか、全身から私の中へ沁みていく。
ああ、そうだ。あいつが憎いんだ。
若くて、馬鹿で。
なのに、なのに全てあいつのおかげで解決する。
噂には聞いていたが、こんなに悔しい思いをさせられるなんて思ってもなかった。
この私が。
自分が無能だってことぐらい知っているさ。
だから必死にそれを隠して出世を目指したんだ。
——なのになんてことだ!
気泡が頭上へ消えていく。
——私があんな男を羨ましいと思うなんて。あんな若造を。
——嗚呼、妬ましい。狂おしい。あの若さ。美しさ……
息ができない。
——あの腕に抱かれたいだなんて!
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