第2話 寺の生き人形

 蝉の声が、鬱陶しく頭の周りにまとわりついてくる。

 耳だけではなく身体中から私の中へ入ろうとしているようだ。


 三鷹にあるその寺は、鬱蒼とした森の中に身を潜めている。

 良寛和尚というのはこの寺の住職で、生い立ちも経歴も綺麗なものだった。

 戦中には境内を避難所として開放し、それ以来毎日のように炊き出しをしている。ついでのように行われる説法には多くの人間が耳を傾け、この寺のおかげで立ち直った連中は多いという。


 通された客間は質素な造りだった。

 豪華な装飾は寺のどこにも見当たらない。

 使い古した座布団に腰を下ろして、同じく使い古したような住職と向かい合う。

 境内で遊ぶ子供の声が、風鈴の澄んだ響きと重なって聞こえている。

 肥やした私腹はどこへいっているのだろうか。


「紀藤さん、ですか」

「ええ、ご存じないですか。こちらによく出入りしていると伺ったのですが」

「存じております。とてもよい方です」

「そうですか。具体的に、どんな人物です」

 私は逸る気持ちが抑え切れなかった。

 この住職だって怪しいかも知れないのに、あの男のことが知りたくて仕方ない。

「紀藤さんは、近くで人形職人をしておられる方で、そのご縁で知り合った方々を、時々ここへ連れていらっしゃるんです。その……」

 住職は一度言葉を切って、それより一層深い声を発した。

「心を、患っておられるような方々を」

 私はメモをとる手が止まっていることに気がついた。

 垂れた白い眉毛の奥の、くぼんだ小さな住職の目が、私を透かして見ている。


 私の心の奥を、覗いている。


「ほ、他には」

 私の声は酷く上ずっていて、それだけ搾り出すのが精一杯だった。

「何か、変わったところなど……」

「変わっているといえば、全ての人間が変わっているでしょうな。他人から見れば、私も貴方も紀藤さんも相当変わっている」

 和尚は膝を打って豪快に笑った。

 私も釣られて苦笑いを浮かべる。

「そうだ、ご覧になりますか」

「え、何をです」

「人形ですよ。紀藤さんのお作りになった」

「え、ええ、ぜひ……」

 住職がよろりと立ち上がったのを思わず支えると、またあの目が私を射抜いた。

「どうもありがとう」

「いえ……」


 穏やかな話し方は、あの男に似ている。

 この二人には何か他にも関係があるのではないだろうか。

 もっと深い何かが。


 よく鳴る廊下を歩いていく二人分の足音と、衣擦れの音。

 ひんやりとした風が奥から吹いてくる。


「こちらです。どうぞ」

 住職が奥の部屋の障子を開けて、私を中へ促した。

 外気と隔離されている、埃っぽい冷えた空気。


 右側から誰かに見られているような気がして、慌てて振り返ると、


「ひっ」と思わず声が漏れた。


 雛壇にぎっちりと並んだ日本人形が、ざっと見ただけでも二十体。

 四十の眼が私を見ている。


「驚かれるのも無理はないですがね、そんなに怖がらなくてもよいのですよ。ただの人形です」

「しかし、なぜこんなにたくさん……」

 気味が悪い、と言いかけてやめた。


 住職がゆったりとした動作で一体を手に取った。

 まるで我が子を抱くように、丁寧に、慎重に腕の中に収め、頭を撫でている。

「これは、人形供養を待つ子らです」


 恐る恐る近づいて、住職の腕の中の人形を覗き込んだ。

 とても美しいが、不気味だ。

 まるで生きているような鮮やかさがある。


「紀藤さんの素性は、詳しくは知りません。しかし、彼はこうして、人々の悲しみを取り除くために人形を作っておられる」


 私はされるがまま、住職から人形を受け取った。

 ずしりと重い、確かな重量感と、微かに伝わる熱。


——何の熱だ? 住職のものか?


 気味悪さが増して、人形から目を逸らした。


「人形は誰かの身代わり。人に代わって災いを受けてくれるのです。この子達もそう……。そうだ、刑事さん、うちでは節分を大々的にやるのですよ。節分の掛け声をご存知ですか。福は内、鬼は外というあれです。あれはね、つまり鬼も外にならいてもいいと言っているのです。家に入らず、縁の下や庭や屋根の上で災いを追い払ってくれと言っている。鬼は暴れん坊ですからね、家の中へ入られちゃ、家財道具をめちゃめちゃにされてしまう。でも、消えろとは言っていない。そういう物も必要なのです。日本という国が栄えてきたのも、その心のおかげだと思うのです。鬼も、外ならよい、と、そういうね」


 話を聞きながら、私はずっと人形の髪を撫でていた。

 無意識でそうしていたのだ。住職の滑らかな口が動きを止めて、初めて自分の行為に気がついた。


 はたと見下ろして、そして目が合った。

 人形と、だ。


 描かれた瞳と視線が合ったような気がした、とういものではない。


 例えるならば、日が沈んだ頃の都電の中で、鏡になった窓硝子越しに隣の乗客と目が合ってしまったような、そんな気まずい、なんとも不気味な感覚なのだ。


 危うく人形を取り落としそうになった私の手の下に、すっと住職の皺だらけの手が差し入れられた。


「もし、知りたいことがあるのならば、回り道は疑念や誤解を膨らませるだけです。鬼も、会えば福だったりするもんですよ」


 恵比寿のような笑みで、良寛氏は手の中の不気味なぬくもりを引き取ってくれた。

 私はそぞろなまま寺を後にした。


 相変わらず蝉が私を責め立てる。



「駄目だ……」思わず呟いた。



——あれは、生きている。


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