戦後東京を舞台にした奇妙な話『人形の棺』

所クーネル

第1話 ペテン師の調査

 195X年八月七日、その日帝都新聞の一面を飾ったのは銀座の宝石店で起こった密室殺人事件の解決を知らせる記事だった。


【警察が見事に解決!】と大々的に報じられたが、その報道を覆す小さな噂が東京の片隅をじわりと這っていた。


 それはとある下世話な大衆雑誌が小さく取り上げたにすぎない話だが、この事件は警察ではなく一般市民が解決したというのだ。

 その一般市民というのはある警察官の友人で、これまで幾度も事件現場に現れては難事件を解決しているとまで書いている。


 記事は「まるで神か魔物のような鋭さ」と煽り立てる。


 その男は目白のあたりで時計屋を営む見目麗しい青年で、近所の住人によれば「彼に頼めば困りごとはなんでもたちどころに解決する」とのこと。

 昨年の冬に起こった『府中老婆連続誘拐事件』も解決したとあり、「困りごとがあれば、この男を探すと良い」と締め括られていた。


 市井の人間からすれば、退屈な日常をほんのいっとき潤してくれる娯楽にすぎない噂だが、警察からすればたまったものではない。だからといって火消しに回れば事実であると認めるようなもの。

 ただその噂が消える四十五日を待つよりほかない。


 警視庁捜査一課の低く汚れた応接机に無造作に放り出されたその雑誌は、夏の暑さを掻き回すだけのくたびれた扇風機の風を受け、音を立ててページをめくった。



  ◇◇◇



 うだるような暑さが続いている。


 ここ何日かは、重い空気の息苦しさから夜中に何度も目を覚ました。

 人ごみを掻き分けながら歩いていると、それがなおさら感じられる。


 新宿の喧騒は私には不釣合いだと、自分でもよく理解している。もうすぐ四十歳。薄くなってきた頭は脂っぽく、細身のくせに下腹が出始めている。


 遊びに来ているわけではない。公僕として市民のために身を粉にして働くのが警察官だ。


 町が活気で溢れる午後三時。

 汗で湿ったワイシャツの袖を二の腕の中ほどまで捲り上げて、私はある男を尾行していた。


 「紀藤」という名でとおっているペテン師だ。

 もちろん偽名だろう。

 被害者はわかっているだけで五人。

 いずれも戦争で夫を亡くしたり、いき遅れて肩身の狭い思いをしているような年増の女だ。


 不幸な女は悪人に付け入る隙を与える。

 私は女の不注意に腹が立った。


 相談に来た者たちは皆一様に「紀藤はまるで悪人に見えない」と言っていたが、素人の意見などなんの役にも立たない。

 すらりと高い背に柔らかい物腰で、目を細めて笑う仕草など極悪人に決まっている。


 しかも相談者というのは全部、本人ではなく身内や親しい友人で、本人は被害に気付いていないという。


 というより、被害などないのだ。

 まだ殺人や強姦や、それこそ詐欺さえ起こっていない。「人心を惑わした」という理由だけで、私はこの炎天下に駆り出されているのだ。


 未然に防げなどと言われたが、要するにヘマをして現場から追い出されている哀れだが肩書きだけはある男に、なにか当たり障りのない仕事をさせておこうということだろう。


 腹が立つ。腹が立つといっそう暑い。

 私は顎から落ちそうになる汗を、もう水を吸わなくなった白いハンカチでぬぐった。

 舞い上がった土埃がまとわりついていてとにかく不快だ。


 それにしても、数メートル先を行く紀藤は涼しい顔をしている。


——憎たらしい


 白いポロシャツに薄茶色のスラックス、麦わらの中折れ帽を被って、まるで紳士だ。

 被害届を出した連中は決まって言った。


「あの子の魂は、あの男に吸い取られてしまったんです」

「恐ろしいことが起こる前に早く」


 左遷された身だから、文句も言わずに庶民の戯言に付き合っているが、全く馬鹿馬鹿しい。

 私がこんな事件とも呼べないようなヤマを担当しなければならなくなったのは、不運が重なってしまっただけだ。


 自分の担当している事件が難解な密室殺人だなんて、誰が予想できるだろうか。

 その上、配属されたばかりだというのに礼儀のなっていない、色黒体力自慢の若造が尋問しようとした相手が犯人だったなんて、誰が気づくだろうか。

 関係ない相手をしつこく問いただすなと制した私に、本当に非があるだろうか。


 偶然が重なっただけだ。

 事件は結局、若造の友人だという私立探偵が解決した。なんという失態だ。

 いやしかし、あの現場にいたら、私でなくても、あの若造には注意をしただろう。

 勝手が過ぎる、いかにも青い男なのだ。


【午後三時半、劇場前広場で女と合流】


 女はみすぼらしい成りをしているが、出来る限り着飾ってきたのだろう明るい色に大きな花柄の着物を着ている。

 紀藤は帽子を取ってあいさつすると、まず姿を褒めたようで、女が恥じらって笑っている。薄寒い光景だ。

 歩き出した二人を追いかける。

 紀藤の歩みは、女に合わせてゆっくりになっていた。


【午後三時三十五分、喫茶店入店】


 女が甘ったれて「疲れた」だの「暑い」だのと言い出す前に喫茶店に入ったのだろう。ジャズのかかる小奇麗な店だ。

 女を口説くのにはもってこいか。なにより涼しいことがありがたかった。


 私は紀藤と背中合わせの席に座し、木枠に収められた磨りガラスの仕切り越しに二人の会話に耳をそばだてた。アイス珈琲の注文も忘れない。

 店員への目眩しのために広げた新聞の上に、びっしりとメモの書かれた手帳を置き、漏れ聞こえるか細い声に集中する。


 紀藤について、わかっていることは多くない。

 都内で人形職人をしているが、個人で制作も販売もしているため、そこから関係者を探すのは難しい。


「体の調子はどう?」

 紀藤の声だ。

 なんとも心地いい、子守歌のようだ。

「ええ、おかげさまで」

 女は恥らいながらも嬉しそうに答える。

「でも心配だよ、こう暑くっちゃ」

「そうですね、確かに、ちょっとつらい日もあるんです」

 弱みに付け込む連中は、まずそのつらさに寄り添うのだという。

 わかっている、心配していると言う風に見せる。

「この間の話、考えてくれたかな」

 詐欺師の常套句に私は心躍った。

 敵の尻尾をつかめるかもしれない。

「大丈夫だよ。無理にお布施を取ろうって言うんじゃないんだ」女が答えに窮していたのか紀藤は優しく続けた。「ちょっとだけ、話を聞きにおいでよ」

「ええ、そうね」

 女は渋々という声色で答える。

「よかった。良寛和尚は素晴らしい人だから、僕なんかより、きっときみの力になってくださる」


 私はメモに【りょうかん和尚】と書き足した。

 妙な宗教への勧誘。


 一人につきいくら、というように報酬を受け取っているか、さもなければ紀藤も幹部という可能性もある。


 この男の調査を始めて一週間になるが、やっとその姿が見えたようだ。

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