ソメイヨシノ
緋雪
光
――その絵は、光っていたんだ。
一周1.2km。その池は、僕のジョギングコースだった。中学、高校と、毎朝2周走ってから登校するのが日課だったのだ。
春になると、池の
大学に入って、部活動を続ける暇もなければ、続けたいと思うほどの熱意も才能もなく、いつの間にかジョギングはやめてしまった。
就職して、地元を離れた頃には、その池のことすら忘れてしまっていた。
職場恋愛で結婚したが、30歳の時に重い鬱病を発症した。あまりに完璧主義過ぎた僕が、僕自身を苦しめ、ついには僕を壊したのだ。
僕は仕事を辞めざるを得なくなり、妻子を養えなくなり、離婚を余儀なくされた。
そうして約10年ぶりに実家に戻ったときの僕は、「死人」のようだった。放っておくと、食べることもしない。テレビは何も観る気になれず、あれだけ大好きだった本も読む気になれなかった。運動どころか、家から一歩も出られなかった。
そんなある日、母が僕を個展に誘ったのだ。母の友人の旦那さんの個展だということだった。
「たまにはどう?絵は好きでしょ?難しいこと考えなくていいんだから、行きましょ。ね?」
そう言って、母は、僕を連れ出した。
一言で個展というと、油絵ばかり、水彩画ばかりを想像するが、それは、水彩も油彩も、水墨画のようなタッチのも、デッサンも……。
まるで、この人の人生すべてが一気に展示されているようだった。
ふと、一枚の絵が目に止まる。
「えっ?」
それは何も特別な絵ではない。僕がジョギングコースにしていた池の桜を、坂の下から見上げた絵だった。珍しい風景ではない。他にも同様な作品は数点あった。
だが、僕は、その絵から目を離すことができなかった。
その絵は、光っていたのだ。
本当に光が出ているとか、キラキラと輝いているとか、光を反射しているとかではなく。透明な光を放っていた。人に聞かれても上手く説明できない。例えるなら、ハイビジョンのテレビを初めて見たときの眩しさ……のような。
ずっと不思議そうに眺めている僕のところに、母が女の人を伴ってやってくる。
「どうかしましたか?」
女の人が聞いてくる。
「この絵が、光ってるんです」
僕は、変な人だと思われるかもな、と思いながらも、正直に答える。
「ああ……そうですか。何故かわからないんですけどね、皆さん、この絵を売って欲しいとおっしゃるんですよ」
「そうなんですか」
「主人の最後の作品なんです」
彼女によれば、ご主人は、この絵を描き終わった翌日、突然死という形で、彼女のもとを去ってしまったとのこと。
「違います……」
僕には、「彼」の今居るところがわかった。
「初めてお会いした僕が、こんなことを言うのは変に思われるかもしれませんけど……この絵は、絶対に売ってはダメです」
「……ええ。私もね、この絵だけは手放したくなくて。だから、大丈夫。ありがとう」
彼女が少し涙ぐんだのがわかった。
この桜は、あなたを見守り続けていくんでしょうね。
僕は心の中で、そっと手を合わせたのだった。
僕も、少し勇気を貰った気がした。
春がまた巡り来て、僕の体と心は少しずつだが回復の兆しを見せていた。
それでも油断はできない。些細なことで激しく落ち込んで、何度か自殺を企てたりもしていた。未来が全く見えなかった。このまま生きていくことに何の意味も見出だせなくなっていた。
その日は、特別うららかな日で。
久しぶりに庭に出てみると、家の前を通っていく、リュックサックを背負った幼稚園児たち。
「遠足かな?」
傍で洗濯物を干していた母に言う。
「そうね。お花見遠足かもね」
「お花見遠足か……」
あの池のほとりにある公園で、お弁当を食べるのかな。僕は、微笑ましく想像した。
「僕も……見に行ってこようかな、桜」
ぽつりと呟くと、母が驚いたような笑顔になった。
「うん。うん、うん、うん。行っておいで。お弁当作ろうか?」
「大袈裟だなあ。歩いてくるだけだよ」
「ゆっくりね、疲れたら引き返してくるのよ」
母に大いに心配されながら、僕は池へと歩いた。
昔のジョギングコース。家からスタートして、池の周りを2周して帰ると丁度3kmのコースだ。これを昔は毎日走っていたんだなあ。今じゃ、歩いて池に着く前に倒れるかもな。そう自嘲しながら歩く。
池の手前の木々は、少し早めに緑の葉をつけ、木漏れ日のトンネルを作っていた。葉が風で揺れて、キラキラと光がさざめく。
「綺麗……」
僕は光のシャワーを浴びながら、そのトンネルをくぐりぬけ、池のほとりに出た。
桜。
あの桜。
あの、光っていた桜がそこに広がっていたのだ。
「生きなさい」
その桜たちに、そう言われていた。
僕は、もう、涙が止まらなかった。
ソメイヨシノ 緋雪 @hiyuki0714
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
義母様伝説/緋雪
★58 エッセイ・ノンフィクション 連載中 12話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます