ALBERT’S LIFE
Nekome
アルバートという人物
今、私は死にかけている。後ろから刃物で刺されたのだ。
誰に刺されたのかは……わからない、心当たりがありすぎる。
冷えた地面に、自身の血が少しずつ流れていくのが分かる。真夜中だから、通りすがりの人に助けられるということもない。
私を刺した人物は、立ち去ることもせず血の付いたナイフを持ちながら、私のそばに立っていた。
誰だろうか。暗闇のせいで、何も見えない。
私の人生、思い返せば、生まれたことが最初の間違いだったように思う。
私は裕福な靴屋の三男坊として生まれた。
私は、家族の邪魔者だった。私が生まれると同時に母が死んだ。母を愛していた父は、私を疫病神と罵った。
父はアルバートと言う名を私に与えたきり、私の面倒を一人の使用人に押し付け、私と関わることを辞めた。
「アル、今日、友達からお菓子を貰ったのよ、いる?」
兄弟達が執拗に私をいじめる中、一番上の姉だけは、私のことをアルと呼び、私に良くしてくれたことを覚えている。
「うん、ねえさん、ありがとう」
幼い私は、姉の存在に酷く救われていたように思う。
だからこそ、私が七つのとき、姉の嫁ぎ先が見つかったという知らせを聞いて、酷く狼狽えたのだ。
「ねえさん、行かないで、僕一人ぼっちになっちゃう」
周りに兄弟が居たのに、私は姉の足を掴み、醜く縋った。周りの兄第はそんな私を殴り、引きはがし、軽蔑の目を向けた。
姉はそんな私をみて、笑っていた。笑っていたのだ。腹を抱えることはしていなかったが、肩を震わせていた。姉は、まるで愚かな猿を見ているかのような目で、私を見ていた。おもしろいと、思われたのだ。姉は最初から私のことなど好いていなかった。自身に心酔しているさまを、面白がっていたのだ。
今思えば、滑稽でしかない。私は誰からも愛されていなかった。愛だと思っていたものも、まがい物だったのだから。
それから五年、私が十二歳になるころには暴力を振るわれることは無くなった。ただ、上から三番目の姉が毎晩私の胸に泣きつくようになっていた。
「父様ったら酷いのよ、さっさと結婚しなさいだなんて」
上から三番目の姉、アンナは私ほどではないものの、家族の中から浮いていた。もう十五歳にもなるのに、本人がいつまでたっても結婚を渋ったのだ。
「アルだけよ、私の話を聞いてくれるの」
少し前までほかの兄妹たちと共に私に暴力を振るっていた記憶を忘れ、アンナは私の小さな体を抱きしめた。
「大丈夫だよ姉さん、大丈夫」
数年前まで私の体を傷つけていた手が私の体を優しく抱きしめていると思うと反吐が出るようだったが、それで姉の手を振り払うことが出来る程私は強く無かったし、久しぶりに与えられた人の温もりが気持ち良く、手放す気は起きなかった。
「結婚するかどうかは自分で決めるって何度も言ってるのに、父様ったら聞きやしない」
「姉さんの人生は姉さんだけの物だから、負けないで」
「そう言ってくれるのはアルだけよ、ありがとうね」
私はアンナからあることを教えてもらった。女性を慰める方法である。
毎晩姉を慰めるという変わった習慣も、二年ほどで終わりを向かえた。アンナが結婚相手を見つけたのである。
「父様から紹介されて、初めはいつものようにやり過ごそうと思っていたんだけど……本当に素敵な人だったの。この人とだったら結婚しても良いって、結婚したいって初めて思えたわ!」
アンナの結婚相手は、町のはずれに居を構える牧師だった。一度だけ家に来た時に見た顔の印象は真面目そうな優男というもので、毎晩のように聞かされていたアンナの好みとはかけ離れていたが、隣に立つアンナの顔はとても満足気で輝いていたことを覚えている。毎晩与えられていた少しばかりの温かみが無くなることになり、少しばかり枕を濡らしたが、一番上の姉が居なくなるときのように醜く縋ることは無かった。昔と違い心酔しきってはいなかったし、縋った末にまた失笑を浮かべられるのではないかという恐怖心があったのだと思う。
アンナが結婚し、家を出てからそんなに時間が経っていない頃、私は父の書斎へと足を出向くことになった。そのとき私は十四歳になっていたから、世間体のために父が私にも縁談の話を持ってきたのかと思い、緊張しつつも、気楽に書斎へと足を踏み入れたのだが、その予想は大いに外れた。
「ああ、本当だ……」
初めて正面から見た父の顔は酷く歪んでいた。父は震えた手で私の肩を掴み涙を流し、私は自然な流れで安楽椅子へと押し倒された。
「マリー……マリー……」
結論から言うと、私は父に犯されたのだ。その時のことは今でも鮮明に覚えている。父は家の主としての仕事や子供たちへの教育に疲れ、乱心していたのだろう。母と瓜二つの私を使い、その寂しさや苦しさを和らげようとしたのだろう。私に快感などは無かった。父は母への執着心しか持ち合わせていなかったため、優しく扱われることは無かった。快感などは微塵もない、殺人的な行為である。私は週末の夜、父の部屋へ出入りすることとなった。
私は抵抗しなかった。抵抗しても敵わないことは分かりきっていたし、温もりが欲しかった私にとって、その行為は都合の良いものだったから。
行為中の父の様子は今でも強く記憶に焼き付いている。父はずっと泣いていた。今は亡き母の名前を一心不乱に呟きながら、私の唇を貪った。
この、週末行われる気の狂った交わりは、父が床に臥せるまで、十年もの間続いたが、その間に父が私の名を呼ぶことは無かった。
行為が始まってから二年、十六歳の頃、私は初めて一人で外に出た。私達が住む場所の治安は少々悪く、盗賊なども蔓延っていたため、金持ちの息子である私は使用人無しでは外に出ることを許されていなかったのである。初めての一人での外出はなかなか刺激的なものだった。
人と人との間で物や金が飛び交う姿はにこやかで、輝いていた。その一方、少し路地に目を向けると孤児の餓死体が転がっていて、欝々としている。なんとも綺麗な対比だった。
この初めての外出で、私の人生に強い影響を与えた人物と出会った。ある一人の少女の話である。
その少女とは、私が出店でクッキーを買おうとしたときに出会った。
「おい!盗人だ!捕まえてくれ」
そう叫ぶ男の声。少女が出店から硬貨を盗んだのだ。年は私と同じぐらいに見えた。少女は通行人にすぐ捕まえられて、店主の前へと突き出された。少女は罰を受けた。棒で殴られたのである。何度も何度も振るわれる暴力に、少女は顔色一つ変えなかった。体中が痣だらけになり、通行人が目を背けるようになったころ、ようやく少女は解放された。
「お客さん、みっともねぇもん見せてすみませんね……クッキー、何枚買うんでしたっけ?」
「五枚で」
さっきまで少女を鬼の形相で罰していたとは思えないほど、男はにこやかだった。嬉々としていた。嬉々とした表情が、少女を罰したことによって表れたものだと感じたのは、私の心が穢れているからだろうか。
出店の立ち並ぶ通りで買い物を済ませたあと、夕暮れ時、帰路についた。少し歩いたところで、道の脇に先ほどの小女を発見した。彼女はボソボソと不味そうなパンをかじり、座り込んでいた。
「君、これをあげるよ」
少女に、可哀そうだと思う同情心は一切無かった。ただただ、興味が沸いたのだ。金も服も家も無い、そんな劣悪な環境の中で、盗みをしてまで生きようとする心理がわからなかった。彼女の目の中に強い意志が感じられる理由が知りたかったのだ。
こくこくと小さく頷いた少女は、私の手を取り、路地裏の奥へと連れ込んだ。殺されるのかと、ぼんやりとした頭で考えていると、少女が言葉を発した。
「服は着たまま?」
この言葉を聞いて、やっと自分の置かれている状況を理解した。少女は金を貰ったとき、身体を買われたと解釈したのだ。
「着たままで」
薄暗い、肌寒い、暮れ頃だった。私は少女と交わった。抱かれるのが常だった私にとって、抱くという行為は新鮮だった。少女は、艶やかな声を上げたが、そのほとんどが演技だったと思う。身体における快感は、私も感じなかった。私は成長が遅く、まだ成長しきっていない身だったというのもあるし、わざとらしい表情をする少女に心奪われていて、身体のことなど気にしていられなかったのだ。
一通り終わった後、私は少女と別れた。また来ても良いかと問うと、彼女は快く了承した。わざとらしく服をはだけさせ、暗闇の中、少女は色っぽく手を振った。
「いらっしゃい」
私はそれからも何度も何度も少女の元へと通った。有り余る銀貨を抱えて、時にはパンを持っていくこともあった。そのたびそのたび彼女は私のことを笑顔で出迎えた。貴方のすることなんて目に見えているとでもいうかのようなその目が、その豪胆さが好きだった。
会うたび会うたび、なにも行為ばかりをしていたわけではない。金だけを渡して、そのまま帰る時だってあった。家に帰らず、そのまま一緒に眠る時だってあった。
彼女に恋愛的な感情を持ち合わせていたわけではなかった。どちらかと言えば、生徒が先生を敬うような、尊敬、憧れ、その類の感情だったように思う。私は毎夜、彼女に習いに行っていたのだ。どうして生きているのか、人はどうして生きるのか。それらを知ることが出来ると、当時の私は思っていた。
その答えを教えてもらう前に、私と彼女の関係は終わりを告げた。二年もの月日が経った頃だった。ある日突然、彼女が姿を消したのである。ずっとずっと彼女を探した。朝から晩まで町を歩き回った。
探し続けて約一年もの月日が経ったとき、とうとう私は、彼女を見つけた。隣町にある袋路地に、彼女は居た。彼女は横たわっていた。毛布を被っていた。彼女は死んでいた。腐敗臭はしなかった。つい先ほど、息絶えたのだと理解した。盗みを働いてまで、身体を売ってまで生きようとしていた、彼女が死んだ!当時の私にとっては衝撃的だった。私は暫くその場に立ち尽くしていた。いくら立ち尽くそうと、彼女があの計算高い笑みを浮かべることは無かった。
喪失感を覚えながら、その場を立ち去ろうとしたとき、後ろから声が聞こえた。
「うー」
赤子の声だった。赤子の声だった。私は咄嗟に、反射的に彼女の死体の近くへ行き、彼女が纏っていた毛布を勢いよく引きはがした。
頭を、ガンと殴られたような気がした。赤子は、乳を吸っていた。死体となった母の乳を吸っていたのだ。まだ生えたばかりであろう産毛は、彼女と同じ、少しくすんだ赤毛だった。そして、目の色は、青色。父と同じ色だった。私と同じ色だった。この子は、私の子だった。
私は、その神秘的な光景を見て、気づいた。やっと気づいたのだ。人が生きたいと思うことは、人に生来備わっている本能だったのだ。意味があるとかないとかじゃない。これが本能という奴なのだと。
私は赤子を抱きかかえて、袋路地を出た。行先は決まっている。赤子を毛布で包め、向かった先は修道院だった。修道院の目の前、私は白紙に鉛筆で『アントニー』と咄嗟に思いついた名前を書き、赤子に持たせ、捨て置いた。
私に育てるという選択肢は無かった。私は赤子の育て方を知らないし、家の者が協力してくれるとは到底思えなかった。赤子には、あの少女、母親のように生きて欲しかった。生きることに希望を持ったまま、育って、死んでほしかった。私のようになってはいけないと思った。
捨て置いたまま、私は帰路に就いた。私の胸の中は高揚感で満ち溢れていた。人生で初めての感情だった。
町中の殺伐とした空気も、家の中の陰鬱とした空気も、私に関係のないことのように思えた。人が生きたいと感じるその本能を、もっと詳しく知りたいと思えた。
家にいる時間が前よりさらに短くなった。あるとすれば、週末、父に抱かれるときぐらいのものだった。私は外出中、さまざまな人を観察した。主に売春婦。金を払い、抱いた。手酷く抱くこともあれば、優しく、細工を扱うように抱くこともあった。恨みの篭もった目で見られることもあれば、目を背けたくなるほど熱のこもった目で見られることもあった。
数は少ないが、男娼にも手を出した。男娼と一夜を過ごすときには私は好き勝手に抱かせた。いつもは抱かれる側の男娼が私を下にして戸惑いの気持ちを見せているのが、とても微笑ましかったのを覚えている。
遊び呆けた私だったが、完全に堕落したわけではなかった。町の人たちには『良い人』として認識されるように振舞った。にこやかな笑顔で、すれ違う人々に「こんにちは」と笑顔を振りまいていくのだ。町の人々、路地裏で眠る孤児を知らぬ、善良な人々には、ただの好青年に見えたことだろう。
それから年月が経ったある日、一番上の兄、名も知らぬ兄が、突然私に話しかけてきた。
「父の料理に、毎日、こいつを砕いて入れろ、良いな?」
そう言って渡されたのは、丸薬。毒薬だった。兄は父を殺害しろとの命を、私に下したのだ。私であれば、誰にも疑われることなく毒を盛れると思ったのだろう。兄は私と父の不気味な関係を知っていたから。
「わかったよ」
私は了承した。ここで兄の話を断る理由を、私は持ち合わせていなかった。肉体的には、誰よりも父と近い環境に居たはずなのに、私と父の間には、破る気すら起きない、とても厚い壁があった。
それから毎日毎日、父の昼食と夕食に薬を盛り続けた。薬の効果は絶大で、二か月もすることには、父はもうベッドから起き上がれなくなっていた。急に危篤状態に陥った父だったが、周りから違和感を持たれることは無かった。もともと、父は乱心しているとのうわさが出回っていたし、町の人々の興味は、容姿端麗で頭が良い、若き秀才と呼ばれた兄へと向いていたのだ。
「……紙と、ペンを」
父の見舞いへ来る人がいなくなったころ、父はそんなことを呟いた。
「起き上がらせてくれ、……遺書を書く」
大慌てで使用人達が紙とペンを用意し、父の背中を摩った。遺書、誰もが目を離せないでいた。跡継ぎは誰なのか。忌々しい関係を持った私の処遇は、一体どうするのか。
緊迫した空気の中、スラスラと書かれていく遺書。
最終的に書かれた遺書は、次のようなものだった。
『跡取りは、長兄とする。遺産の半分を長兄に。残りの半分を分家へ。余ったものはジョン、リリアンヌ、エリス、アンナの順に分けてくれ』
短文の連なり。私の名前は書かれなかった。遺書を書いて三日後、父は死んだ。まるで憑き物が落ちたかのように穏やかな表情だった。相続関係で家がごたつく中、私はぼんやりと、父が座っていた安楽椅子を眺めていた。
父が、死んだ。悲しくは無かったが、なんだか心にぽっかりと穴が空いたようだった。親は、子を愛するものであるというのが、一般論だとするならば、父と私はその関係を大きく逸脱していた。
私は、父に愛される対象ではなかった。むしろ、悪魔だった。私を見るたびに、母を亡くした喪失感と、母が生きていたころの充実感を同時に味わうというのは、どんな地獄だったろう。
愛する人との子を子として扱えず、道具のように扱った。そしてその結果、子供は人並みの幸せすら知らない。悪漢となってしまった。私は父が生み出した罪悪そのものだった。父は、自身で生み出した巨大な罪悪から目を背け続けた。罪悪と目を合わせることは無かった。死ぬ間際でも、見て見ぬふりをした。
父の書斎で、今までの日々のことを振り返り、私は無性に愛が欲しくなった。人間の本能である。実の父親に、遺書にすら記載してもらえなかった息子は、愛が欲しくなったのである。
愛というものがなんなのか、私は知っているつもりだった。私があの少女と、赤子に向けた感情、あれはまさしく、愛だった。恋幕でないにしろ、愛だったのだ。私は自身が抱いた感情と同じものを、他人から与えて欲しかった。私も、眩しい光に照らされたいと思ったのである。
それから、私は前にも増して夜の街に入り浸るようになった。ただし、前と比べて人を変えることは少なくなった。たった一人の売春婦の元へと入り浸り、毎日話をして、好かれようと努力した。失敗することの方が多かった。距離を取られることの方が多かったが、中には私のことを好いてくれる子も居た。ただ、そういう子、つまり、人の行為を素直に受け取り、それに流されるといった純な心を持っている少女は、一ヵ月もすると死体となってしまった。
アプローチをしては別れ、繋がっては別れを繰り返したある日、三年たったころか、私は焦っていた。どうしても、愛してほしかった。一生、自身がどんなに変貌したとしても愛してくれる伴侶が欲しかったのに、三年たっても、影すら見えない。
「私のこと、覚えててね、……貴方の中で、生き続けたいから」
名は忘れてしまったが、何番目かに愛した少女は、病床に臥せながら私にそう言った。
「ああ、もちろん。死ぬまで君を愛すよ」
そんな、聞く人によっては寒気を感じるようなキザなセリフを言い、看取った。私は『覚えていて欲しい』という意思に、強く共感した。私は気づいたのである。私の願いは、愛されたいのではなく、覚えてほしい、見て欲しいというものなのだと。
それに付属していたのが愛だったというだけであって、本質ではなかったのだ。
自身の願いの本質に気づいた私の行動は早かった。まず、同じ人物と三夜以上共にするということが無くなった。少なく、衝撃的な行為を与えた方が、相手の記憶に残りやすいからである。
売春婦とではなく、男娼と共に過ごすことが増えた。前述で言った通り、男娼を上にし行為をすることによって、彼らは戸惑い、私を深く記憶する。一番、手っ取り早い方法だった。
少年少女らと一夜を共にし、その場を去る時のあの恨みがましかったり、崇拝的な視線は、わたしを歓喜させた。ああ、記憶に残れたのだと、心に刻むことが出来たのだと思うと、日中天にも昇る心地だった。
「大丈夫?傷が残るといけない。おいで」
売春婦や男娼達だけに飽き足らず、私は孤児の中でも上位の、身売りをせず、日が昇ることに働いている子達に手を出した。
彼等に優しく微笑みかけ、絆し、それから襲う。純粋な子が多かったため、行為中は泣く子が多かった。
「アルバートさん、顔色が悪いようですけど、どうなさいました?」
いつもサンドイッチを売っている店の女性が、ふいに、私にそんなことを言った。
「……そうかな?確かに、最近寝不足だから、そのせいかもしれない」
サンドイッチを買って、店を後にする。体調が悪いという自覚は無かった。あまり、関心がなかった。
私の顔色が悪いと言ったその女性の目は確かだった。
次の日、日の出とともに、私は激しく喀血した。肺病の二文字が、私の頭の中を駆け巡った。これこそまさに、天罰というのだろう。今まで散々孤児と共に路地裏などの汚い場所で寝泊まりしていたのだから、病気になるのも当たり前だった。医者には見せた、だが、手遅れだと言われた。
私はその時、ちょうど二十八歳になったばかりだった。私は、医者にもう手遅れだと言われたその日、気味が悪いからと言って、兄から継承された、父が座っていた安楽椅子に身を傾け、泣いた。一日中すすり泣いた。泣いて泣いて、泣きつくした。
それから、自暴自棄になって、生きる活力を貰おうとそこら辺にいた少女達を芝居がかったようにし、犯したりしてみたが、意味は無かった。
そしてそして、肺病が悪化し、喀血する回数も増えて来て、自堕落に、三年もの長い延命をしたところで、今、私は、刃物で刺されたという訳なのである。
「お前のせいで!」
恨みつらみ色々吐かれたが、私の耳にはもう、どんな情報も入らなかった。死への恐怖心は無かった。後二年もすれば死ぬ命だったし、もう生きる意味を探そうという気力すら、消えかけていたころだったから。
「……誰だ?」
最後に、私を刺した人物の顔が見たかった。この、罪悪に塗れた人生に終止符を打った少年が誰なのか、知りたかった。
「覚えがないか?え?」
顔を近づけられる。視界がぼやける中でも、憎悪に塗れた少年の顔が、良く見えた。くるくるとした癖毛に、暗闇で見ずらいが、……赤毛だろうか。瞳の色はわからない。
「……アントニー?」
アントニーだと、確信した。彼の憎悪に塗れた瞳は、気力で溢れた瞳は、母親に良く似ていた。生きていた。あの少女と同じように、生きることの素晴らしさを知ったまま、育っていた。私には、全くといっていいほど似ていなかった。それが、ありがたかった。
ふんわりと、笑みがこぼれる。
彼の顔は、もう見えない。気配も感じない。立ち去ったのか、それとも、私の感覚がダメになっているのか。おそらく、後者だろう。
私は死ぬ。私にとっても、周りにとっても、最悪な人生だった。選択肢を間違えてしまったのかもしれないが、私はこうする方法しか、知らなかった。
後悔は、無い。
ALBERT’S LIFE Nekome @Nekome202113
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