双つ

此木晶(しょう)

双つ

さて、こんな場合何から話し始めたらよいのだろうか。こういうことをしたことがないから僕にはよくわからない。

 ……

 じゃあ、まず、僕の生きていた世界について話そうと思う。ほとんど変わらない、そう考えてもらっていいと思う。

世界に存在する国も、歴史も、ほとんど変わらないと、思う。多分、生活なんかも。多少違うところがあるだろうけれど、基本的に懸命に生きていることは一緒だ、と思う。違うのは、僕の住んでいた世界には人間の住む地上のほかに天界と地界が存在する。天界には神が住んでいるというし、地界には悪魔が住むと言われている。実際にそうなのかは、僕は知らない。神を見たことがないし、悪魔にもあったことがないからだ、今も……。

 ただ、天界と地界は確かに存在し、満月の晩空を見上げれば、天界が。新月の晩に水底を覗き込めば地界が見える。

 そして、もう一つ。この世界には化物がいる。


 その時、僕は精神的に追い詰められていた。仕事の環境が急に変わったということもあったのだろう。覚えなければならないことの多さと、期待されることへのプレッシャー、それを含めて自分自身で自分の首を締めつけていたのだと思う。体調が優れなかったのもその原因の一つなのかもしれない。肉体と精神は何らかの形で繋がっている。それが揺るぎようのない真実だから。

 重い体を引きずって、僕は仕事場へ向かった。休むこともできたし、実際仕事の先輩たちには休め、と言われていた。けど、じっとしているのも辛かった。熱でうなされて寝ているのはもっと辛かった。余計なことばかりを考えてしまい、がたがたと震えているのは。 だから、僕は仕事場へ向かう。迎えてくれたのは、売場の責任者の人。大柄で、気性の荒い人。僕はこの人が苦手だった。何かと辛く当たられているような気がして、あまり関わりになりたくなかった。その人が店の入口で待っていた。怖い顔をしていたと思う。それも当然なのだろうと今では思うけれど、その時は恐怖しか覚えなかった。

「休めっつってんだろ、なあ」

 言われて僕はその場で立ち止まった。何か言おうと思ったのだけれど、言葉が喉に絡みついてうまく出てこない。

「あ、その・・・」

 休んでいる事に、罪の意識を感じる。そう言いたかったけれど……。

「きっちり体調整えてから出てきてもらったほうがいいんだよ」

 先輩はそこまで言ってウン?という風に僕の目を見た。胸の奥のほうでむかむかする感じがし始める。不安が膨れ上がる。

「おまえひょっとして……」

 呟く。腕を組少し考え、そして、人を呼んだ。

「ちょっと手伝ってくれ」


 この世界には化物がいる。それは紛れもない事実。


 僕は何人かに腕を捕まれ、羽交い締めにされ、先輩の前に固定された。腹の下のほうで何かが渦を巻いている。寒気が断続的に走り、顔が青ざめる。たとえ辛くとも、家にいればよかった、そう思ったがもう遅い。先輩は動きの取れない僕の顔を持ち上げ目を大きく見開かせた。力任せに瞼を広げさせられて、ちりちりと瞼の端が痛んだ。涙が浮いてくる。視界がぼやけて先輩の姿が化け物じみて見えた。

「やっぱりなぁ~。お前憑かれてるわ」

 しみじみと、先輩は首を振った。

「まあ、痛いかもしれんが我慢しろや、お前の為だから」

 先輩は袖をまくる。みぞおちに衝撃があった。むせ返る暇もなく、胃の辺りが熱くなる。がくがくと頭が揺れる、涙がこぼれる。何かが喉へ逆流してくる。止まらない、止められない。止めようにも、腹への衝撃はまだ続いている。

 意識がはっきりしなくなって来た頃。

 僕は解放された。地面に横たわり、からだを震わせる。それでも、不快感と嘔吐感そして寒気は続き、僕を見下ろす先輩は

「そろそろ出てくるぞ」

 そう言った。

 喉仏が一回大きく動き、ヌルっとしたものが僕の喉元を通り抜けた。歯を食いしばり嘔吐感をこらえる僕の口を無理やりこじ開け、それは外に出た。ビチッとそれは跳ねる。黒い巨大な蛞蝓のようなそれ。粘液の筋を引きながらそれは排水溝へと這いずっていく。それを先輩は無表情に足で潰した。

「やっぱりなぁ・・・。見えたろ。あれが負の感情の固まった虫さ。こいつにとっ憑かれると、何もかんもが悪い方向にしか考えられなくなる」

 先輩は笑った。僕は思い出す。先輩が退治屋の資格を持っていたことに。資格といっても、極々低級なものしか相手にできない初級のものなのだけれど。『力』を込めた打撃を与えることで人のからだから追い出す。それだけの力。

 化物、皆がそう呼ぶのは、感情のとごったモノ。鬱積し、結晶のようになったイキモノ。 

 けれど。

 負の感情とは何か……。怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、不安、なのか。ならば、それをなくした時どうなる。無邪気とは、邪気なきことではなく、罪を感じぬ事と言う。怒りは行動する『力』とはならないのか。悲しみを知らねば優しくはできまい。憎むからこそ憎まれることの恐ろしさを知り、妬み、不安に思うからこそ、努力する。

 されば、負の感情とは何か……。


 僕は答えない、答えられない。休む間もなく僕の体からは虫があふれてくる。黒い、粘液にまみれた虫たちは一ヵ所に集まり、渦を巻く。

「仕方ない。全部吐き終わったらおれを呼べ、いいな」

 始業のベルが鳴ったので僕はそのまま放っておかれた。その日はどんよりとして、今にも雨が降ってきそうだったのに、お客の数は多かったようだった。今やっている催物のせいなのかもしれない。ざわざわと忙しくみんなが動き回るのを遠くに聞きながら、僕は動けずにいた。嘔吐はまだ止まらない。大きな何かが気管も圧迫する。蠢動する細かい襞が口に中を引っかき回す。一際大きな、目玉のようなものが僕の目の前に突き出た。ぎろっ、と僕を見る。もう一つが現れる。口のようなものも。それは僕に笑いかけたような気がした。

 雨が降り始めた。水滴がアスファルトに斑を描き黒く染めていく。

 それでも僕は動けない。

 大きなそれはゆっくりと、僕のからだから出て行く。僕のすべてを持っていくように。寒気がひどくなる。意識が虚ろになる。だから、そこから先僕が見たのは幻覚だったのかもしれない。ようやく僕の口から這い出たそれが一ヵ所に集まっていた虫を捕食し始めたのは。

 そして、僕は死んだ……。


 死因は、雨に打たれたことで風邪を拗らせたから。結局、僕が倒れたままだということに店の人たちが気がついたのは、閉店間際のこと。それからすぐに病院に運ばれはしたけれど、肺炎と診察され、三日後に僕は意識不明のまま死んだ。

 

 だから今僕はここにいる。

 だから今俺はここにいる。


 僕がそこから見下ろすのは先輩の姿。

 俺がそこから見上げるのは先輩の姿。


 先輩は洗面所に向かい必死で吐き出そうとしている。それ、虫を。けれど、決してそれが出てくることはない事を、知っている。僕は。俺は。

 先輩の中にいるのは僕の、俺のからだから最後に出てきたもの。それまでに吐き出されていた虫たちを食べより大きくなった、巨大な憎悪。だから、先輩の手には決して負えない。取り除く方法はただ一つ。僕が、俺が同時に同時にそれを行う。『それ』を取り除きたいと一分のズレもなく願う。それだけ。

 だけれども、それもかなわない。僕が願うとき、俺は決してそれを望まない。俺がそれを思うとき、僕は無邪気にただ見ているだけ。

 永遠に続く、それは決して交わる事なく。バランスの崩れたまま永遠に、僕は見下ろし続ける。俺は見上げ続ける。ただ、先輩の苦しむ姿を……。


 だから。

 俺はここにいる。

 僕はここにいる。

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双つ 此木晶(しょう) @syou2022

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