ニコちゃんマーク

そらのくじら

第1話

 別に、きっかけとかはなかったと思う。

 昔から私が描いたものはみんな私に話しかけてきた。だから、今授業用ノートの端っこに描いたニコちゃんマークが上機嫌に笑っているのだって私にとっては普通なのだ。

「ねえねえ授業聞かなくていいの?」

 数学の公式の下でころころ表情を変えるニコちゃんマーク。私には表情が変わって見えるけれど、どうやら他の人にはただの落書きに見えるらしい。

「いいんだよ」

「あーあーやさぐれちゃって……昔は可愛いかったのに……」

「いつのこと言ってるの」

「小学校ぐらいじゃない?」

「低学年の時は、そうだったかもね」

 そうだ、小学校の頃、低学年ぐらいまではこうして話せるのが当たり前だと思っていたから、一度友達に紹介したことがあった。その時は、変なのー、という感想を言われて終わったが、幼い自分には割とショックだったのを覚えている。当時はこのニコちゃんマークの喋り方が大人っぽくて、お姉ちゃん、と呼んで慕っていたくらいなのだから。

「ねえ」

「なあに?」

「どうして、私は話せるのに、他の人は話せないんだろうね」

 この質問も、何回目か分からない。何度も何度も聞いている。

 知らなーい、と脳天気に答えるニコちゃんマーク。破いてやろうか、と脅すと、ひどいっ、と叫んできたので、おでこに、肉、と文字を描いた。

「消して!」

「消さないよ」

「乙女の顔になんてことを!」

 元がニコちゃんマークだとは思えないほど顔を真っ赤にして憤慨する様に、似合ってるわよ、と額をぐりふりと押しながら返せば、全く嬉しくないっ、と叫ばれた。

「そろそろ友達作った方がいいんじゃない?」

 いつの間にか授業は終わっていて、周囲はがやがやと話し声で満ちていた。

 中学校生活も三年目。私には完全に友達がいない。自分では、仕方がない、と思っている。自分の描いた絵に向かってぶつぶつと独り言を呟く人間になんて、誰も寄り付かないと思っていたし、そもそも友達を作る気なんてさらさら無かった。

「いいんだよ」

「ふゆちゃんは寂しがり屋だから、友達は作った方がいいと思うな」

 こういう風に、私の絵はいつだって私に友達を作るよう勧めてくる。私にとってはノートの切れ端に存在する彼女たちと話している方が余程楽しいのだと、一向に気付いてくれないのだ。


 夕方、最近日の入りが早くなったせいで西日が差し込む廊下を歩く。玄関ホールに向けて足を早めると、誰かが校内地図の前で首を傾げている姿が目に入った。

 私と同級生ぐらいの女の子だった。肩につくぐらいの髪の毛を地面に真っ直ぐ落としている。腕組みするその子は何故かこの学校とは違う制服を着ている。黒いスカートと、セーラーの襟が揺れていた。

「こんばんは」

 一瞬、誰に向かって言っているのかわからなかった。その少女が歩いてきて自分の手前で止まるまで、自分に言われたものだと気付かなかったのだ。

「えーっと、こんばんは」

 混乱気味に返せば、満面の笑みで、こんばんは、と返され余計に困惑した。

「はじめまして。私、明日からここに転校することになったんです。本当は今日ももっと早く来てどんな学校か見てみたかったんですけど、用事が入ってしまって。だから、生徒さんとお話できて嬉しいです」

 女の子は、麻原さんというらしい。

「ちょっと校内、案内してもらえませんか?」

 麻原さんのお母さんはまだ職員室で先生と話しているのだろう。元々私が来なくても一人で見て回る予定だったらしい。来た道を戻るのはなんだか負けた気がしたけれど、断わる理由もないので案内することにした。

 かつんかつん、と階段を上る音が周囲に響く。

「私って、出席番号どうなるんでしょう」

「普通は一番最後になると思いますけど。麻原さん、あ行ですもんね。慣れないかも」

「いっつも最初だから、ちょっとわくわくしてたんですけど、よくよく考えたら最初が最後になるだけですよね」

 眉を八の字に曲げて残念がる姿を見て、表情豊かな人だな、と思った。

「席は一番後ろになるから、そこはラッキーかもしれませんよ」

「確かに! そうですね」

 一瞬きょとんとして、その後にこにこと笑う。稲葉さんって面白い人ですね、と言われたので、そんなことはじめて言われました、と返した。言ってから、そもそも最近は同級生ともあまり話していないことを思い出した。

 二階を離脱して三階に上った。窓の外はもうずいぶんと暗くなりはじめている。

「ここが美術室です」

 立て付けが悪くなった扉からぎぎぎ、と不快な音が漏れた。壁についている電気のスイッチを片っ端からつけていく。

「この絵はなんですか?」

 麻原さんは廊下側にずらりと並ぶ絵を指差していた。油彩画、水彩画、鉛筆画、大きさも描かれ方も違うこれらの絵は全て、在校生、又は卒業生が描いた作品たちである。

「ここには、美術の授業で描かれた絵の中から、特に優秀な作品が飾られるんです。ほら、ここに名前と、いつの生徒だったかが書かれてるでしょう」

 額縁の上に目立たないように彫られている文字を指す。

「あれ、この絵って、もしかして稲葉さんが描いたんですか?」

 麻原さんが指しているのは、大きな油彩画の隣に並ぶ小さな水彩画だった。林の、どこか開けた場所に木々の隙間から木漏れ日が落ちている風景画。ほとんど緑色と黄緑色だけで描かれているこの絵は、隣に並ぶ色鮮やかな油彩画の影に隠れていて、よく見ないと素通りしてしまうほど地味な絵だ。確かに私が描いた絵だった。

「よく気付きましたね」

「素敵な絵ですから」

 素敵な絵、そうだろうか。両親は上手いとは言っていたけれど、素敵だとは言っていなかった気がする。美術の先生は、いいと思う、とは言っていたけれど、結局なんで飾っているのか分からない。

「塗り方が柔らかくって、実際にここにいるみたいな気持ちになれるみたいで。それに、絵を描くのが好きって感じが伝わってきて、心がぽあぽあします」

 なんとなく、心が浮ついた。

 上手い、だとか、凄い、ではなくて、素敵、と言われたのが新鮮だったのだと思う。

 同じ階にある音楽室や化学室を見た後、一階にある三年生の教室に向かった。

「ここが、私のクラスです」

「へー! ここが稲葉さんの教室かあ。席、どこですか?」

 あまりにもにこやかに聞くものだから、私はすっかり忘れてしまっていたのである。机の中に、今日ニコちゃんマークを描いたノートを置きっぱにしていることに。

「あれ? これ、数学のノート?」

 そして、ノートをぱらぱらと捲っていた麻原さんの手は、あっという間に今日の数学のページにたどり着いた。今、麻原さんの目には額に、肉、と描かれた歪なニコちゃんマークが映っていることだろう。

「稲葉さん、この子、可愛いですね!」

 麻原さんは今日一番の笑顔でニコちゃんマークを撫でていた。

「どこが可愛いんですかね?」

「うーん。なんていうか、この表情が好きです! 幸せそうに笑ってるっていうのが伝わってきます。おでこの、肉、っていうのが分からないですけど」

 やっぱり稲葉さん絵の才能がありますよ、と真面目にいう麻原さんに、つい、ふき出すように笑ってしまった。

 その後麻原さんと玄関ホールまでゆったりと歩いて戻った。麻原さんのお母さんと先生の話はもう終わっていたようでその場で別れて帰路についた。また明日、と手を振る麻原さんに、また明日、と手を振り返す。なんだかこそばゆかった。お母さんに遅かった理由を聞かれたから、転校生を案内していたと返すと、何故か嬉しそうな顔をした。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 いつも通り、壁にかかる落書きから聞こえる声に応える。

「麻原さん、お友達になれそう?」

 画用紙の中のぐちゃぐちゃのニコちゃんマークが嬉しそうに微笑む。たしか、四歳の時に描いたものだと、お母さんが言っていた気がする。

「さあ」

「きっとなれるよ、ふゆちゃんの絵、褒めてくれたもんね」

 心底嬉しそうに笑う。そうかもね、とだけ返すと、ふふ、と声を出した。

「これでふゆちゃんは、大丈夫だ」

 満面の笑みとは少し違った顔で、何故か少し寂しそうに。

 本当に本当に、心の底から、幸せそうに笑っていた。


 翌日。壁のニコちゃんマークはただの落書きになっていた。ごく普通の、四歳児が描いたぐちゃぐちゃの線の集まりに。

 いつも朝聞こえる声がしない。

 それからしばらくは、何も考えられなかった。数学ノートの端にいるニコちゃんマークも、部屋の壁に飾っている昔私が描いた絵たちも、誰も話しかけてこなかったし、もちろん、動くこともなかった。

 結局麻原さんはこのクラスに転入してきて、表情豊かで明るい性格からすぐにクラスの人気者になった。私と言えば授業中癖のように絵を描いて、そのたびに話しかけてこないのを実感して苦しくなって、涙は何故か出なかった。

「こんにちは」

「なんですか?」

 一週間後の放課後。ぼーっと自分の席に座って窓の外を見ていると、麻原さんが話かけてきた。振り向かずに応えると、後ろで学生鞄のチャックを開ける音がする。

「元気だしなよー」

 言っている意味が分からず振り返ると、そこにはフェルト生地で作られた手の平大の大きさの、額に肉、と描かれたニコちゃんマークのぬいぐるみが麻原さんの顔の前に掲げられていた。

「最近ふゆちゃん元気ないよー元気だしてー」

 私の知っているニコちゃんマークとは似ても似つかない声で喋り続けている。話すのに合わせてぬいぐるみを押しているからか、微妙に顔が歪んで見えた。

「それ、どうしたんですか」

 俯いて、少し震えた声で聞き返した。麻原さんは、ねー、とぬいぐるみをふにふにと動かしながらニコちゃんマークに笑顔を向けている。

「私、稲葉さんと話すの楽しみだったんですよ。でも、ここ一週間ずうっと元気ないので、稲葉さんのニコちゃんマークに協力してもらおうと思って」

 はい、と渡されたぬいぐるみを両手で揉みながら、私はぼそぼそと溢すように呟いた。

「麻原さん、そのニコちゃんマークはね、もっとずっと、いい加減な性格してるんですよ」

「そうなんですか?」

「そうですよ。もっとちゃらんぽらんで、自分の知らないこと聞かれるとすぐはぐらかすんです。自分の顔がニコちゃんマークだって知ってるくせに、あの日だってうるさいから額に肉って描いたら、乙女の顔にっ、って怒るんです。それなのに、ずっと私の心配ばっかりして、結局いなくなっちゃうんですよ。周りのこと何にも考えてない、いい加減なやつなんです」

 手の平の中にあるぬいぐるみをちょっと強めに潰して、震える声をごまかすように一息で言い切った。ぐにぐにと姿を変えるぬいぐるみの顔が、笑っているニコちゃんマークに少し、似ている気がした。

「稲葉さんは、この子のこと大好きなんですね」

 そのニコちゃんマークは、もういないのだけれど。

「そう、ですね。大好きだったんだと、思います。ねえ、麻原さん」

「なんですか」

「このぬいぐるみ貰ってもいいですかね」

 今度はちゃんと顔を見て、私のせいでちょっと形が歪んでしまったままのぬいぐるみを握りしめる。

「いいですよ。けど、」

 そこで麻原さんは私の手をつかんだ。ぬいぐるみを握っている両手をさらに包むように合わせて、私の顔を覗き込む。

「稲葉さん。私と、お友達になってください」

「わかりました」

 少し恥ずかしそうに、満面の笑みでそう返す麻原さんに、普段あまり使わない表情筋を動かして笑い返した。

 その日の夜は、抱きしめるには少し小さいそのぬいぐるみを両手で包むようにして、少しだけ泣いた。不思議なくらい自然に涙は出て、なんとなく、ニコちゃんマークが喋らない日常を、普通なのだと、思えるようになった気がした。

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ニコちゃんマーク そらのくじら @soranokujira

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