瓶で殴れ、どうにか選べ、いつか忘れて逃げるまで

目々

義兄≒偽兄

 細かな傷と気泡が目立つスマホの保護シートに覆われた画面いっぱいに映る顔、その左眉上は踏まれたアルミ缶のようにへこんでいる。

 閉じ切らない瞼の隙間から覗く眼球は仄かに白く、時折照明の加減かぬめるように光る。唇の端には溜まった泡が流れ乾いた後に、滲む血が僅かな赤を添えている。

 その頬には血で固まった毛束が取り返しのつかない罅のようにべっとりと張り付いていた。


 突然画面が揺れ、確認のように顔全体が映る。

 青ざめた顔の端々に滲み張り付く血の色は液晶画面の画素の中で鮮烈に浮き上がる。

 無残な死に顔の引き攣れた口元。その歪んで吊れた唇の様が、どうしてか笑顔のように見えた。


 動画が終わった。俺はスマホから目を挙げる。


「最近のスマホ、本当に画質がいいんだな。見たくもないくらいにきっちり撮れてる」


 テーブルの上に置かれたスマホの画面に長い指が触れて、ホーム画面に遷移する。  

 兄は動画の死に顔と同じ顔で笑っていた。


動画これ、いつ撮ったやつ? 二回目?」

「最初のとき。兄さん横で見てただろ」

「そうだっけ。大体いつも俺殺されんのは見るようにしてるからな。違いがあんまり分かんないもんだな……」


 三年勤めた会社を諸事情──ごたつく人間関係及び唐突な無力感並びに突発的な自暴自棄──により辞め、社宅を追い出された俺が実家に転がり込んだ夜。

 相変わらず悲鳴とノイズの中間のような音がするインターホンに応えて玄関を開けた兄は、相変わらず何かに詫びているようなへらへらとした笑顔のまま、俺を迎え入れてくれた。


 実家には兄しか住んでいない。それを知っていたから、俺は逃げ込んだのだ。


 産みの母は俺が物心つく前に死んだか何かでいなくなって、小学校のときにできた継母は俺が中学二年のときに高校生の連れ子を置いて新しい男と逃げた。女運というより基本的な幸運にことごとく見放されていたのであろう父は、三年前、俺が初めてのボーナスをもらってきた夏にありふれた交通事故で死んだ。

 何かしらのバチでも当たっていそうな有様だが、俺と兄には何の心当たりもない。 血のつながりのあるなしに関わらず、親という役割を持った連中が各々勝手にいなくなったことについては思うところがないではないが、言ったところでどうしようもない。俺たちに金銭的な累が及ばなかっただけマシだろう。死んだやつも逃げたやつも、ここにいないのだから同じことだ。


 平凡な紆余曲折の果て、兄は生き残り逃げそびれたまま、ひとりでこの家に住んでいる。


 突然に転がり込んだ俺に兄は特に文句も言わず、働けとも出ていけとも言う気はないらしかった。

 自室は就職のために出て行った当時のまま残っていて、これ幸いと兄が出してきた洗濯済みのシーツと毛布が敷かれたベッドの上にひっくり返って読み飽きた小説を眺めていようが、日に焼けた畳にくたくたになった座布団を枕にして居間でのうのうと昼寝をしていようが一切咎められることもなく、かえって俺が気まずくなるほどだった。最近では何となく家事を手伝うくらいにはなったが、別にそれも強いられているわけではない。

 兄は何も言わず、いつかこの家に家族が住んでいたときのように、見た映画の話や限定缶チューハイが外れだった愚痴や仕事帰りに寄ってきたスーパーで安売りになっていた手間が異様にかかるカレーを作った感想などを話しかけてくるだけだった。

 俺はそれらただの雑談に適当な相槌を返して、場合によっては注がれた酒などを飲みながら会話を続け、後片付けを手伝ったり明日の朝食分の米を準備したりするくらいだった。

 つまるところ、至って平凡な家族或いは兄弟の日常というものをすごしていたのだ。俺が無職だということと、そもそも実の兄弟どころか関係する親族がことごとく消失した現状ではただの他人同士でしかないということを除けば、面白味も意外性もない平均的な日常だろう。


 母が死に継母が逃げ父も死んだ家など、よく考えれば事故物件と呼ばれるべきかもしれない。それら住人の不幸が関係あるのかどうかは分からない。

 分からないが、

 それが始まったのは先月、金曜日のよく晴れた春の夜のことだった。


 仕事から帰ってきた兄を玄関で出迎えた直後、その背後にもう一人の兄が立っていて以来、一週間に一人の頻度で兄が湧いて出るようになった。


 当たり前だが最初は混乱した。率直に怖かったのだ。双子でもないのに同じ顔をした人間が二人、突然目の前に現れた経験など俺の人生にはない。


 恐る恐る先に帰ってきた兄にどちらが兄なのかと聞けば、本人は後ろを振り返ってから、


「それがねえ、俺もどっちが俺だか分かんないんだよね、これ」


 とりあえず明日の出勤までにはなんとかしたいんだよねと他人事のような口調で投げつけられた無茶にぶん殴ってやろうかと反射的に拳を握った途端に、兄の背後でやはりへらへらと笑っている兄を見て、何だか知らないけれどもひどい有様になってしまったのだということだけを理解してしまったのだ。


 あのとき悲鳴なりなんなりを上げて逃げ出せばよかったのかもしれないが、今更考えてもどうしようもない。


 居間に戻り、テーブルを三人で囲んだ。どちらの兄かは知らないが人数分のコップとビール瓶が一本中央に置かれていて、用意した方は恐らくろくなものではないし止めなかった方もふざけているなと思った。


「とりあえずさ、偽物と本物だと仮定するわけよ。今までずっといた兄さんと今日増えた兄さん」

「そうだな。じゃあ俺どっちだろう」

「俺もどっちだろうな」


 同じ顔の二人が同じ声で同じ相槌を打つ。悪い夢でも見ているようだった。


「……とりあえず、二人このままにするのが一番安全だと思うけど)

「絶対いやだ」

「やだね」


 二人はまっすぐに俺の方を見て、


「どっちか残す方、決めてくれよ」

「後始末なら手伝ってやるからさ、残った方が」


 増えたからには減らさなければならない。ダブって嬉しいのはババ抜きの手札ぐらいだろう。あれだってダブれば捨てられるのだ。


 増えた本人たちから選別を頼まれたのならば、そうするしかなかった。

 職がなくて、行き場がなくて、親もなくて──たった一人のからの命令お願いを無下にすることは、できなかった。


 兄と兄に似たもの、どちらが帰ってきているのかを見分けるのが難しい。

 居間に引き入れ照明の下でまじまじと眺めても、外見だけなら両者は瓜二つだった。最初の時に自信満々で一方の兄が左鎖骨下のほくろを見せてきたが、もう一人の兄が黙ってワイシャツの胸元を開ければまったく同じものがあったのだからどうしようもない。脱がせて背中を見比べても俺には全く見分けがつかなかった。何が悲しくて三十路男の背中の品評などをしなければならないのかとどうしようもない虚しさに襲われた。

 テーブルに二人揃って並んだまま困ったような笑みを浮かべられていると、いっそ二人揃って張り倒してやりたくなった。


「けどさ、毎度よく覚えてるよね俺も。抜き打ちテストやられてる気分だよ、あれ」

「そうだな。俺もそんなに物覚えがよくないから……正直結構しんどい。出してる方も自信がない」

「しっかりしろよ出題者。お前にかかってんだから、俺の行く先」


 悩んだ挙句に取った手段は、とても簡単で陳腐なものだった。

 最初の兄と偽物を見分けるに役立ったのは、兄が増える前日の夕食だった。


 正確に言えば夕食の一品である唐揚げとそれに付随して起こったささいなトラブル──帰り際にスーパーに寄ってくるのはいいがいつも揚げ物を買ってくるなと俺がぼやいたところ兄が不機嫌になったのだ──が、偽物と兄を区別してくれた。

 どうやら増えた兄は直近の記憶は同期していないらしく、息を飲んで黙ったやつとすらすらと答えたやつに分かれた。

 それだって本当なら信用ならない。本人すら忘れていることを偽物が完璧に答えるのは小説や映画フィクションでよく見る展開だ。

 そうだとしても今この状況で提示されている選択肢がこの二択なら──それなら、ひとつでも多くの物事を覚えている方を選ぶだろう。

 他の条件が同じならば物覚えの良い方が本物であって欲しいという人情に基づいての判断だ。


 机のビール瓶で頭をどついて畳に転がしてから首を絞めれば偽の兄はさしたる抵抗もせずに息絶えた。


「唐揚げのこと忘れて殺されんの、面白いよな」

「笑いごとじゃないんだよ……」


 とりあえず死骸の処理は明日考えようと、兄と二人がかりで風呂場に運んだ。とりあえず夜が明けるまでは何も考えたくなかったし、考えられそうにもなかったからだ。

 そうしてほとんど眠れずに迎えた次の日の朝には浴槽から消えていたのだから、好都合だがふざけた話だ。

 これも偽物だったからこその現象なのか、それとも兄が死んだら消えるタイプの人間なのか俺には判断がつかない。殺して確かめるわけにもいかないし、確かめる必要も恐らくないだろう。


 それから三回、偽者が来た。それらと比較して本物だと認められ生き残った兄は、今こうして目の前でビールを飲んでいる。


「いつまで続くんだろうな。兄さんがこうやって増えるの」

「さあ。まず何でかってことから分かってないんだから、どうしようもないでしょ」

「他人事みたいにさあ……」


 涼しい顔で兄は注いだビールに口をつける。逸らされた喉が上下する様子を見ているうちに、手のひらに気道を押し潰したときの感触が蘇りそうになって、俺は座布団に感触を拭いつけた。


 最初に増えた兄を殺したとき、残った方にこういうことになるような因縁に心当たりはないかと尋ねたが、一生懸命考えても精々去年の忘年会の帰りに家の近くにある工事のお知らせ看板の前にネクタイと靴を供えてきたぐらいしか目ぼしいものが出てこなかった。

 そんなもんでこんなふざけた祟りが起きるとは思いたくなかった。せめて事故現場とかそういうものならつじつまがぎりぎり合ったかもしれないが、そうならなかったのだからどうにもならない。


 因果も原因も因縁も何一つ分からない。兄は増えて、俺は本物を選ぶ。殺しても殺しても殺しても、兄は気づけば増えている。


 兄は手酌で注いでは干し、俺の背後に置かれたテレビに映るニュースへと視線を向けている。今日も一日労働してきた人間が晩酌をして悪いという法はないが、この状況であまりに平穏な日常を送られるのは癇に障る。


「兄さん本当呑気に飲むよな。俺はこう、それなりに深刻に悩んでんのに」

「そんな悩むことある? 一度に二人殺さなきゃいいだけじゃん」

「は」


 だけ?

 予想外の返答に黙った俺に、兄は意外そうな顔をしてみせた。


「そうだろ? 俺が全くいなくなると職場とか届け出とかで困るけど、とりあえずそれっぽいものが一人いればその辺は済むわけだからさ。二人いると俺が嫌だってだけだけど、全部いなくなってもそれは困る」


 匙加減が大事だよなと僅かに酔いを滲ませた声で兄が言う。


「つまりその程度だからさ、気楽にやろうぜ色々さ。飽きたらさ、両方殺してくれていいから、何なら」

「めちゃくちゃ言うなよ……」

「じゃああれだ、出てきな。母さんみたいにさ」

「そしたら兄さんはどうすんだよ」

「分かんない。偽物が来たら二人だしな。案外二人で仲良くなるかもしれないし、二人揃って首括るかもしれない」

「その後始末は誰がすんの」

「それはほら、お前よ。だって他に誰もいないから」


 面倒かけて悪いな、と兄が笑う。俺はその目を見ないようにしながら差し出されたビール缶を受け取る。

 その黒々とした目の中から何かを見出してしまうのがおそろしかった。


 暫定的な本物生き残っている方を閉じ込めておけば、どちらを殺すべきかなんてことを迷う必要は無くなる。

 けれども兄が現状社会人として仕事に就いている以上はそういうわけにもいかない。休暇を取ろうにも『偽物の自分と入れ替わるのを防ぎたいから』などと申告したら休暇は取れても会社の席がなくなるであろうことは目に見えている。

 そもそも家に閉じ込めておいても、目の前で自分の偽物が弟に殺されていても平然としているような兄のことだから、危機感もなくふらふらと庭に出たり煙草を買いに歩いたりしない保証がない。

 ダクトテープで拘束して転がしておけばいいのかもしれないが、一応兄にも人権はあるのだ。


「それでも……家族、つうか兄さんを殺すの、やっぱやだよ」

「真面目だねえ。血も繋がってないのに?」


 思春期の捻りもなく拗らせた青少年のような物言いをしながら、兄はまたコップを空にする。

 コップを両手で弄ぶ様子が、どこか拗ねたように見えるのは錯覚かもしれない。


「そこは今更じゃないか。軽重変わんないよ、結局兄さんだからさ、あんた。十年ちょい家族やってりゃどっちでもいいよ」

「偽物かもしれないのに?」

「唐揚げのこと覚えてたろ。他にも──テフロンのフライパンたわしで洗って俺と口論したし、新発売だって買ってきた缶ビールが微妙だったって渋い顔してたし、出勤するときに靴下左右違うって気づいても面倒だってそのまま出かけたし」

「俺毎日の行いがろくなことしてなくないか」

「本当だ。でも、それを覚えてたから、あんたが生き残ったんだからさ」


 生死あるいは真贋を決めるにはあまりにも平凡で些細なできごとだ。それでも、それしかやりようがない。殺した兄は朝になる前に放り込んだ風呂場の中かから消えて失せた。

 俺には起こったことしか分からないし、恐らくはそれすらも正しくは理解できてはいないのだろう。


 テーブルの隅に置かれていたビール瓶を掴んで、兄は慣れた手つきで手元のコップに注ぎ入れる。そのまま一息で飲み干してから、長々と息を吐く。

 そのまま視線を俺に合わせて、


「今日のこれもさ、覚えておかないとな。次があるかどうかも分かんないけど」


 そう言って兄が口の端を吊り上げる。俺は笑い返そうとして、どうにか頬のあたりを動かすことができた。

 前回の偽兄の来訪から明日で一週間だ。来るとしたらそろそろだろう。また俺は独断による二者択一を行わなければならない。

 今度は何を聞けばいいのか。今度こそ何かをしくじって、本物を殺してしまったら──。

 本当の兄を始末してしまったら俺はどうなるのだろう。分からない。普通なら気が狂うあたりが定石なのかもしれないが、そんなことで狂えるほど繊細ならそもそもこうして兄を殺し続けていられる道理がない。

 本当の兄が殺しても消えなかったらどう処理しよう。

 そんな仮想のアクシデントを考えながら、俺は手元のコップにビールを注ぐ。


 ビール瓶の首を握った瞬間、ビール瓶で偽兄の頭を殴った時の感触を思い出して俺はほんの少しだけ気が遠くなった。

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