5



「読み切りですか」


いちごちゃんの漫画が読み切りとして掲載されることが決まったとき、僕はもちろん、いちごちゃんと一緒に部屋の中にいた。


通話が切れた携帯電話を、耳に当てたままいちごちゃんは落とした。

目を見開き、呆然として、やった…と呟く。


「やった…やった!やった!やった!やったぁ!」


いちごちゃんの喜びのダンスは、なんだか雨乞いをしているみたいにとてもキショかったけど、仕方がないんだ。いちごちゃんは喜び方を知らない。今までこんなに嬉しかったことなんて、いちごちゃんの人生にないのだから。


顔をぐしゃぐしゃにしてドタバタしていたいちごちゃんだったけど、突然スイッチが切れたみたいに仰向けに寝転んだ。天井を見上げて、やった…と呟く。僕はいちごちゃんの横に寝転がって、涙だらけの煌々とした横顔を見ていたんだ。


"よかったね、いちごちゃん。いちごちゃんの漫画、色々な人に見てもらえる。デビューだよ。やっと、デビューだよ。いちごちゃん"


そのとき。


「ありがとう…」


いちごちゃんは、突然呟いた。

ここにいる誰かに言うみたいに。いちごちゃんは眩しそうに目を細めて。


「ありがとう…」


まるで僕に言っているみたいだったからさ。ねえ、いちごちゃん。

僕は目を丸くして、いちごちゃんを見ていたんだ。




______目を開ける。僕が今見ているものは、どこまで続いているのかも分からない闇だけだ。


どうせ目を開けても、いなくても。完全に食べられるその時をただじっと待つだけだった。だから僕は何度だって目を閉じて、いちごちゃんのことを思い出した。瞼の裏には、いちごちゃんとの日々が焼き付いている。僕の幻覚なのか、本当にいちごちゃんがそこにいるのか、分からなくなるくらい色濃く。


いちごちゃん。

僕がいちごちゃんと離れて、どれくらいたっただろうか。

最後にいちごちゃんを見かけて、一体どれくらいたっただろうか。

いちごちゃんは元気だろうか。生きているだろうか。




「ちょっと暗い…暗すぎるかなぁ。この雑誌向けじゃないっていうか…最後の言葉はいいと思うんだけどね。未来から来た自分が助けてあげるっていうストーリーもいいけどね…どうしてこんなに暗いの?このネームだけ、他のやつと全然違うよね?」


いちごちゃんの担当者のおじさんは、トントン、とネームを机に立てて紙の端を揃えた。いちごちゃんは、その向かい側で俯いている。


「この話は、私の実体験です。私はこんな家庭で育ちました。世の中には似たような家庭で生まれて、生きていかなくてはいけない人がいっぱいいます。私はそんな人たちを救いたい。そう思って、このネームを描きました」


「うーん…伝えたいことがあるのは良いことだけどね。作者が描きたいものを書いて売れることはほぼないから。読者に面白いと確実に思ってもらえるような漫画を最優先で描くんだ。このネームは残念だけどボツ。もっとずっと明るくて主人公がスカッと勝つやつ持ってきてよ」


残念だけど、と言いながら、全然残念そうじゃない声。いちごちゃんはしばらく黙って、わかりました、と答えた。ネームを抱えて、編集社を出ていく。空にはオレンジ色の夕日が広がっていた。カラスや電柱と一緒に、いちごちゃんの姿も黒く浮かび上がる。早歩きで駅へと向かいながら、いちごちゃんが心の中でこう強く誓うのを、僕はいちごちゃんの中から聞いていたんだ。


いつか、いつか、めちゃくちゃ売れて、大作家先生にでもなって、描きたいものを描かせてもらう。このネームは、そのときがきたら絶対に世に出す。絶対に。いつか、きっと。





"いちごちゃん。どうして喋らないの?みんな、漫画描いている人だよ。もう君が漫画を描いているからってバカにする人はいないよ。いじめてくる人はいないよ。君はもう、そこまできたんだよ。どうして喋らないの?"


作家のアシスタントと、月何回かの日雇い労働。いちごちゃんはそうやって生計を立てていた。決して裕福ではなくて、どちらかと言うと貧乏だったけど。いちごちゃんは他のどんなに時給の良いバイトよりも、描くことを選んだ。


とてもよい職場だったと思う。先生も、ほかのアシスタントも感じの良い人しかいなかった。だけど、いちごちゃんは喋らなかった。話を振られても短く答えるだけ。ただ俯いて、黙々と手を動かすだけ。人がまばらに座る最終バスで。いちごちゃんと後ろの席に座り、僕は何度も、そう問いかけた。リュックを抱き抱え、顔を埋めてじっと動かない、いちごちゃんに。


でも、ある日。作業場に向かうために慌ただしく準備をしていたいちごちゃんは、玄関で靴を履いてから、ドアノブに手をかけ動きを止めて。しばらくじっと何かを考えていた。すると急に靴を脱いで、部屋の中に戻っていった。すぐに戻ってきたいちごちゃんは、自分のネームを抱えていて。


「あの。あのっ…わた、私のネームを、見てもらえませんか。意見を頂けませんか」


作業終わり。先生にそう話しかけたいちごちゃんの声は、うわずっていたし、しどろもどろだった。ネームを差し出す手は、ガタガタと震えていた。瞼をきつく閉じて、縋るようでちょっと怖かったよ。

先生だって、ものすごくびっくりしていた。他のアシスタントも帰りの支度をする手を止めて、息を呑んで見ていて、作業場の時がしばらく止まったけれども。


「い、いいよ〜〜私でよければ!いつだって見るよ!」


先生の声でいちごちゃんは天にも昇る気持ちだったね。想像していた悪い結末は、いちごちゃんの涙となって現れて。


「やだ。どうして泣くの〜?大丈夫だよ!!いつでも私が見るよ!」


いちごちゃんはネームと共に、先生にぎゅっと抱きしめられて。嬉しかったね。いちごちゃん。他のアシスタントも、三笠さんの漫画を見たいって集まって、君は暖かく迎えられた。





いちごちゃん。わかっていたのに。

君はもう、あの時みたいにオクビョーじゃない。いちごちゃんは強い。強くなった。


オクビョーなのは、僕の方だ。いちごちゃんのたった一度の、初めての弱音。それに逃げたのは僕の方だ。僕は多分、いちごちゃんが僕のせいで死ぬんじゃないかって、そんな結末に怯えすぎたんだ。


そんなこと、今更わかっても、しょうがないんだけどさ。




"やばい。やばい"


口に手を当てて、僕はいちごちゃんの手元を覗き込む。

いちごちゃんが、後ちょっとのページを捲るのを躊躇している。終わってしまうから。ゆっくり見たいんだ。いちごちゃんの真横に僕の顔。僕らは2人、くっついて息を呑みながらページを、一コマを、みつめて。


「は〜〜〜」


最後のページに到達したいちごちゃんが、バシッと漫画を閉じる。

最高の、クライマックス。最高の、漫画。


僕はボロボロと涙をこぼして、うそみたい、うそみたい、なんでこんなことができるんだろう!すごい!腕を広げてクルクル回って、涙で霞んだ視界が僕の足元を狂わせて。おっきく尻餅をついた僕の視界の先には、もっとボロボロ泣いたいちごちゃんがいて。いちごちゃん!いちごちゃんの方が泣いている!って僕も聞こえないのに指差してみて。


しばらく、泣いているいちごちゃんをみていた。


"いちごちゃん。最高だったね。ほんとうに最高だった。"


…いちごちゃんのそばにいた時、聞こえないのに、僕は何度だっていちごちゃんに話しかけた。


"ねえ、いちごちゃん。いつか、いつか、こんな漫画を書こうよ。いちごちゃんならできるよ"


いちごちゃんは瞳をスッと閉じて、深く深呼吸をした。一粒だけ涙をこぼして、漫画を抱きしめたんだ。


いちごちゃん。楽しかったな。




______僕の目から涙が一粒溢れて、目尻をつたっていく。


かみさま。


ほら、またいちごちゃんの声がする。これは、いつのことだろう。いつのことだったろう。


かみさま。


目を見開いた。違う。これは僕の思い出じゃない。本当にいちごちゃんの声だ。とても遠くの方から、息を殺さないと聞こえないほど小さく、いちごちゃんの声がする。


______なんだって差し上げます。足でも目でも、臓器でも、心でさえも。私の人生は。


______本来であれば喜んで死を選ぶはずのものでした。そんな気がします。

でも、いつだってまだ描いていないことが、まだ読んでいないものが、たくさんあったから。本気で死にたいと思わされることはなかった。そんな気もします。


______アレが___なんて言えばいいのかわからないけどアレが___好きです。確かに死んじゃいたいくらい苦しいけれど。とても、とても好きでした。

私は戻りたいのです。



ねえ、いちごちゃん。


いちごちゃんだって何度も僕のこと嫌だって思ったんでしょ。怖かったでしょ。僕がいなければって思ったでしょ。怪物が住んでいるって思ったでしょ。

やっぱり私は普通じゃないって何度も思い知らされて、僕を否定することは自分を否定することで、どうして私は存在するのだろう?って頭から離れなくなって。いなくなっちゃえばいい、苦しいから取ってってなんども、なんども、僕のことをそうやって、何度も_____


チッ…チッ…。


時計が正しく時を刻む、静まり返った部屋の中。机を照らす小さな照明の下で、いちごちゃんは今夜も描いている。丸まった小さな背中を、僕は見ている。


キリの良いところまでペン入れを終わらせて、いちごちゃんは大きく息をつく。大きく伸びをする。そのまま後ろに倒れ込む。僕のつま先のすぐそばにいちごちゃんの顔が置かれて。僕はいちごちゃんを見下ろす。まっすぐ見下ろす。


いちごちゃんは天井に向かって手を伸ばす。それは自分の手を観察するみたいでもあったし、なにかを掴もうとしているみたいでもある。


僕もいちごちゃんの手に向かって、手を伸ばす。さわれは、絶対に、しないのだけど。



自分の気持ちに包まれているみたいだ…。



いちごちゃんはそう思う。

いちごちゃんは何度も、そう思った。


普通、人間の気持ちは人間の中で完結するものだけどいちごちゃんは。

気持ちが体を突き抜けて、自分が中に入り込んでいるような気がしていた。自分が気持ちの膜の中で、フワフワ漂っているような気がしていた。

いちごちゃんは無限を感じる。気持ちの広がりの無限を。


"苦しい"の中に隠れた、本質を。

"生きる"の、ど真ん中を突き通る僕を。





僕はまた、いちごちゃんの扉の前に立っていた。不思議だな。足も腕もないのに、こんなに弱っているのに、動けるなんて。


扉が重い音を立てて開いていく。僕は何もしていない。いちごちゃんの意向だ。いちごちゃんは、僕が戻るのを心の底から望んでいた。


扉の中に入れば。いちごちゃんが差し出すものがたくさん並んでいた。足も臓器も___グロい___目も、あと内面のアレコレ。僕らは人間の社会性が大好物だ。特に人間が社会生活を送る上で必要不可欠な、感情のストッパーの部分。大好物だ。

だから、たくさんの天才が、人間性が欠落しているって言われるんだよ。知っていた?


僕が今までいちごちゃんのものを食べなかったのは、いつでもいちごちゃんの外に出られるようにしたかったからだ。


僕は、迷って、迷って、片目を食べた。いちごちゃんのストッパーを、2齧りした。

その途端、失った手足がにょきっと現れて、ぐんぐん伸びていく。僕はずっと子供みたいな見た目をしていたけど、いちごちゃんが差し出したから。成人男性とおんなじ姿形になった。僕は自分の新しい手をまじまじと見つめる。


ねえ、いちごちゃん、普通は自分から差し出さないんだよ。僕らが勝手に食べちゃうもんなんだから。



その時微かな足跡が聞こえて、顔を上げれば、あの、狂犬の亡霊がそばまでやってきていた。僕を追い出そうとしている。鋭い歯を剥き出しにして、唸り声を上げている。大きく鳴き声を発した次の瞬間、僕に向かって走り出した。


______いちごちゃん。いちごちゃんの片目はこれから徐々に使い物にならなくなっていく。


狂犬が僕の腕を噛んだ。僕は尻餅をついたけど、足も腕もめちゃくちゃに動かして抵抗する。


______いちごちゃん。君にこれから待ち受けるのは、誰よりも孤独な戦いだ。他人にはじき出されて、他人がつくった壁にはばまれて、君は描く。描かなければいけない。


手も、足もめちゃくちゃに振り回す。狂犬が僕の肩に噛み付いた。うめき声が漏れる。


______いちごちゃん。僕は君を不安定にさせ、難しくさせ、何度も泣かせてしまうけど、君の敵ではないんだ。分かってくれる?


力を振り絞って、声を上げて、噛まれていない方の腕を振り上げ、拳を打ち付ける。何度も拳を打ち込んだ。


______君が死を選ばないために、僕がそばにいる。


倒れ込んだ相手に馬乗りになる。右、左。右、左。何度も、何度も、殴りつける。


______どけよ。退いてくれよ。ここは僕の場所だ。僕の場所なんだ。


何度も、何度も殴った。何度も、何度も。拳が痛い。肩が痛い。何も見えない。何も聞こえない。


______お願いだよ。僕の、僕の場所なんだ…僕の…


もう動かなくなった狂犬の上に覆いかぶさり、僕は泣いた。僕は泣いた。





いちごちゃん。


もうすでに懐かしい、いちごちゃんの部屋。さらにインクで汚れたローテーブルに、もっと潰れた座布団。紐で括られたスケッチブックの山々。その上に積み重なった新しいスケッチブックたち。


噛まれた肩や腕が痛い。気づかなかったけど、足も噛まれていたみたい。肩を押さえて、足をひきずって、僕はいちごちゃんの部屋に入る。


机を照らす小さな照明。カリカリ…とペンを動かす音。覆いかぶさるように描き続ける丸まった背中。


いちごちゃん。

ずっと描いていたんだね。僕がいない間も、ずっと。


僕はいちごちゃんの隣に座る。絵が、ちょっと変わった。上手くなった。ペンを走らせるのも、速くなった。


いちごちゃん。

また、口が空いているよ。そんなに紙に顔を近づけたら、全体像が見えなくなるよ。


僕はいちごちゃんの肩に頭を預ける。そうして、いちごちゃんの絵を見つめる。いちごちゃんの描く線の、その未来を。



いちごちゃん。


ただいま。

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いちごちゃんの天稟(てんぴん) ヤマモトキョウタ @yamamotokyota

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