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______対立しないやつを選べよ。


時。前。そう言われたっけ。そこそこの年長者に。鼻の上からの顔はもう覚えていない。ゆっくりとした口の動きだけ、どれだけ時が経とうと覚えている。たいりつ、しないやつを、えらべよ。なまごろしに、なるぞ。いいか。


______障害物は3つ。結末も3つ。


______3つ?


______じゃあ俺たちに何ができるか?本質は1つだ。


年長者は新人に詳しいことは教えない。教える必要がないのだと思う。人間にくっつく。人間の死とともに役目を終える。それを繰り返していけば、誰だって気付いてしまうことなんだから。そしてそれに気付くのは、できるだけ遅いほうが良いのだから。


僕はもう、3つの障害物__どうしようもできないこと___がわかる。僕だってそれくらいのキャリアは重ねた。重ねたけれど。対立しない人間を選ぶ。結末と本質。ずっと、その言葉の意味がわからなかった。

でも最近、ようやくわかり始める。佐藤さんという人間の中で、僕はやっと、少しずつ、もしかしたらこういうことなんじゃないか?と思うところまで。


僕らは歯がゆいと思う。そんな思いをすることばかりだ。

僕らは人間のエンジンとなってその体を突き動かすことができても、それによって引き起こされる数々の敵には、全くの無力なのだから。


__________


どうしようもできない3つのこと。

1つ目は、運だ。


いちごちゃんは運がなかった。だから、あんな風に誰よりも漫画を書いていても、順調ではなかった。運は人間の外で起きること。僕はいちごちゃんの中にいるだけだから、何もできないのだ。


いちごちゃんの担当をしている、あのおじさん。あいつが、君は若くて時間がいっぱいあるから別にいいよねって、いちごちゃんを蔑ろにしなければ。あいつが、売れる漫画はこういう漫画だって見当違いな自論を持っていなければ。

今ごろ、いちごちゃんはさ。




どうしようもできない3つのこと。

2つ目は、人間の意向。


これは人間が僕を抑え込むためのもの。僕がどんなに描きたい!描こうよ!と主張したって、人間が描かない、と決めたのならば、成す術はない。そうなったらもう、人間の中で退屈するだけだ。力を持て余したまま、人間が死ぬその時を待つだけだ。


彼女は、その意向が強かった。

描いてはいた。イラストを描いてはいたけれど。その時間は大体30分くらいで、ある程度形になったら、もういい、これ以上は嫌だ、とあっさり切り上げる。絵を描くような人間になりたくないらしいのだ。彼女の中で、僕は恥ずかしい存在なのだ。


彼女がペンを握った瞬間、僕は自由になれるけど、彼女がペンを離した瞬間、心の奥底へと沈む。足元で地面がぱっくり2つに割れて、花びらが散るみたいにヒラヒラと、僕は落っこちていく。背中に奥底のヒヤリとした感覚が伝われば、ぱっくり割れた境目は閉じられていく。その場所は狭く、窮屈で退屈だった。僕は箱の中。寝転がって、いつまでも変わらない天井を見続ける。時間の経過が分からなくなるほど、ずっと。いつになるのか分からないけど、彼女がまたペンを握るまで。



「そうだ。ペンネームを決めなくちゃ」


いちごちゃんが漫画を描きながら、ふとそのことを思い出した時、僕はいつものように隣に座っていた。


「本名は嫌だから、なんかペンネームないかなぁ」


"いちご!!いちごにしなよ!"


僕はいちごちゃんの横でそう訴えるけど。


「難しいのはいやだな。凝りすぎているのは嫌だな。自分の名前と尊敬する先生からちょこちょこ取ろうかな」


いちごちゃんはさらさらと色々な名前を書き綴っていく。どれも悪くはないけれど、違う。


"いちご!いちご!絶対にいちご!!!だっていちごちゃんは…いちごちゃんだもん!!"


うんうんと唸るいちごちゃんに、身を乗り出して主張する僕。いちごちゃんの前に手をかざしたり、紙の上に雪崩れ込んだりして、何度もいちごと叫んだ。

最終的に、耳元でいちごと思いっきり叫んだ時、いちごちゃんは。


「いちご」


と、言った。


"そう!そう!いちご!いちごにしなさい!!いちごじゃなきゃやだ!!!"


いちごちゃんは目をパチパチさせると、口元をちょっとだけ緩ませて。いちご、ともう一度つぶやいた。いちごちゃんはその瞬間、とてもドキドキしていた。僕は、漫画家「いちご」が完全に生まれる瞬間を見たんだ。


______対立しないやつを選べよ。


僕はもう。どうしてほんどの年長者がカードを選び終わってから人間を選ぶのか。どうしてほとんどの年長者がカードの少ない人間を好むのか。わかってしまった。


でも、僕は正直、そんなのどうでもいい。生殺しだっていいんだ。

だって、佐藤さんは死なない。僕のせいで死を選ぶことなんて絶対にないのだから。




僕には、どうしようもできないもの。

3つ目は、承認欲求。


これは人間の心の中で起きること。僕が人間の中で僕として存在できるように、承認欲求だって人間の中できちんと形を作る。僕と承認欲求は仲良くすることだってできる。手と手を取り合って、時には肩だって組んで、高めあうこともできる。


でも仲良くできないのであれば。承認欲求は僕を食べようと機会を伺って。奴に知性はないから、話し合うことなんてできない。僕はただ、人間の中に存在するだけだから、戦う力なんてないのだ。承認欲求は人間によって大きく力を持ち、獰猛で、僕なんか敵わない。全く、敵わない。そうしていつか、食べられてしまう。




佐藤さんは、褒められることが多かった。


かわいいね。美人だね。スタイルがいいね。オシャレだね。


彼女は笑ってお礼を言う。とても爽やかに。時に可愛く。

しかし、そのたびにこう思っているのを、僕は知っていた。


私の内面は?


そんなときに届いたのだ。彼女のイラストのアカウントに、ひとつのコメントが。


【ayaさんのイラストは、ayaさんの素敵な内面が表れているようでとても好きです。】


これがスイッチだった。彼女の承認欲求が、大きく、大きくなって、僕に襲い掛かる。


もっとみて!みとめて!好きって言って!


もともと簡単なイラストのみアップするアカウントだったけど、だんだんと彼女はコミック漫画というものを書き始めた。自分の日常を漫画風なイラストにして投稿するというものだ。優しくてかっこよくて頼れる彼氏との胸キュンエピソード。過去の恋愛から今の彼氏との馴れ初め。友達との面白おかしい話や事件。過去に体験した心霊現象。過去に出会った変な人、ムカつく人。などなど。


そんな彼女のアカウントはますます注目度が上がり、いいねやフォローも右肩上がり。人気の漫画アカウントとして一定の地位を築き上げた。


嘘だったけど。彼女がアップする全てのエピソード、たくさんのフォローが待ち望んでいるそのすべては、嘘だったけど。


でも僕はそれを批判的には捉えていない。だって漫画家だってフィクションを書いているんだもん。それだって創作でしょ?


だから、別に、僕は、それでいいんだ。




いちごちゃんのときも、同じことがあったな。あの子は両親の愛情が足りない。友達も恋人もいない。いつだってひとりぼっちだった。だから、あんな風に認められ始めて、どんなに嬉しかったろう。いちごちゃんの承認欲求は、どうしようもないくらい膨れ上がり、僕の両足はとっくのとうに無くなり、腕は引きちぎられ、暗闇の中寝転がるだけの日々を送っていた。


いちごちゃん。辛いよ。苦しいよ。寒いよ…。


いちごちゃんは描いて、描いて、描いて。もっともっと描いて。ずっと描いて。いちごちゃんだって、苦しんでいた。それがわかっているから、僕はあの時もそれでよかった。全部が引きちぎられて食べられても、よかったんだ。


でも、いちごちゃんは。

ある日、徐に立ち上がって叫んだ。机の上のものを蹴散らして、頭をぐしゃぐしゃにして、泣いた。泣いて、泣いて、泣いた。2日間。メソメソ泣いて頭を抱え、寝転がって小さくなって、起き上がったかと思えば、部屋を眺めて、またメソメソした。


ねえ、いちごちゃん。

あのね。

僕がこのまま承認欲求に食べられて、姿が見えなくなっても。死ぬわけじゃない。いちごちゃんの中の、承認欲求の中。そこに僕はいる。生き続ける。いつか承認欲求が小さくなる日が来たら、また会えるから。知っているんだ、僕は。そうやって再会できたこと、何度だってあるんだから。だから、いいんだ。いいんだ…もう、いいんだ…




『神様、お願いです。』


でも、いちごちゃんは机の上でノートを開いた。また泣いていた。もう声を上げることもない。鼻を啜ることもない。泣くことに慣れきってしまった、可哀想ないちごちゃん。静かに頬を涙で濡らして、ノートにこう書いたんだ。


『私の欲を消してください。こんなのいらない。そういうことじゃないんだ。私が漫画を描くのは自分の欲のためじゃないんだ。』


いちごちゃんがでっかい字でそう書き殴るのを、涙でインクが滲んでいくのを、僕は、いちごちゃんの中から見ていたんだ。


いちごちゃん。




______佐藤さんにくっついて、1年が経過していた。


僕はもう、彼女の承認欲求に下半身を食べられ、両腕も食べられ、何もできないくらい弱ってしまった。

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