3


佐藤さんにくっついて、半年が経過していた。


佐藤さんのイラストを投稿するアカウントは順調だった。佐藤さんは2日に1回ほど、イラストを投稿し、いいねの数やコメント、dmを隅々までチェックする。



でも、戸惑うことが増えたような気がする。誰かと一緒にいるときは、全くそんな気配は見せないのだけど、自分の家に帰り1人になると。いつまでも天井を見上げ続ける。椅子に座って、じっと一点を見つめる。


人付き合いも悪くなった。佐藤さんの日常は、カラフルな油絵ではなくなり始めていた。


でもそれは当たり前なのかもしれない。僕は生まれた時から佐藤さんのそばにいたわけじゃないから。20歳になってから僕がくっつくということは、人間にとっては狼狽えることなのかもしれない。



______なんだろう、コレは。私の中で何が起こっているのだろう。


佐藤さんは考える。


______苦しいでしょ。苦しいはずだ。


僕は佐藤さんの中で思う。



僕らは君の心の底の海を、マグマみたいに沸騰させてしまう。ブクブクと君の中で、いつまでも。それは苦しい。君の心をパンパンに膨らませる。だから、発散をしなければいけなくて。


それはもちろん、彼女も例外ではない。

彼女は苦しくなると男と会った。たくさんの、いろんな男と。せっくすをした。苦しくなれば、すぐに。


それでも、佐藤さんの苦しさは解消されない。




______孤独。孤独なんだよ。僕らといると。


例えば。


なんでそんなことができるの?

と、聞かれてさ。

なんでそんなことができないの。

彼らはそう思うんだよ。


彼らは"どうして自分がソレをできるのか"説明できないのだ。僕らを最初から中に持って生まれてきたから。彼らにとってソレは、いつまでたっても"感覚"でしかないのだ。


そりゃ、センスのある人間だっているさ。でも奴らがたくさんの時間を浪費してやっとたどり着く場所の、もっとずっと先に僕らがいる。奴らがどれだけ手を伸ばしても届かない場所に。僕らが。


だから、いつの間にか。


距離ができる。壁ができる。それは自分が作った距離でも、自分が立てた壁でもなくて。向こうが、他人が、僕らに向けて勝手に作ってしまうんだ。


他人は言う。才能があっていいなあ、と。


僕らじゃ壊せない。一度できて仕舞えば、もう壊せない。




苦しみの先に孤独があるのか、孤独の先に苦しみがあるのか、どっちが先なのかなんて僕にはわからないけど。

でも、これらの先には、いつだって死がある。


そんな気がする。


僕の前の前の人がそうだった。いちごちゃんに出会う前にくっついていた人間だ。今でもあの、物が何もない素朴な部屋で、柔らかく差し込む太陽の光を浴びながら、キャンパスに向き合う彼の背中を覚えている。

画家を志した彼は。描いて、描いて、描いて、孤独になった。兆候はあったんだ。今思えば。でもあの時の僕には、突然だった。彼は突然、首を吊って死んだ。




ねえ、佐藤さん。


君の胸の中、抉り出したいほど根付いた何か。

それは僕だ。その原因は僕だ。


じゃあ僕は人間の中で。

許してもらわないといけないと思う?諦めてもらわなきゃいけないと思う?

ちがう。

全然上手く言えないけど、僕にもよくわからないけど、そういうことじゃない気がするんだ。



『苦しい。苦しい。』


そう言えば、いちごちゃんもノートにそう書き記したことがあったっけ。いちごちゃんが高校生の時だ。


『苦しいから、描く。』


しっかりとした文字だった。いちごちゃんはその言葉を自分に刻みつけるみたいに、強く書いた。そうして、しばらくペンを握ったまま、自分が書き記した一文を眺めて。ふた文字を付け足したんだ。


『描け。』


いちごちゃんは知っていた。描かない方がもっと苦しいことを。



上手くできているのかもしれない。と、僕は思う。順序正しく仕掛けをクリアしないと開けられない秘密箱みたいに、消去法かもしれないけど、ちゃんと1つの答えにたどり着くようになっているのかもしれない。




佐藤さんにくっついて、8ヶ月が経過した。


僕はついに、いちごちゃんと遭遇する。


僕が佐藤さんを見つけた時のように、いちごちゃんはバス停に立っていた。佐藤さんが立っていたバス停とは別のバス停だ。あのバス停に立っているということは、いちごちゃんはまだ漫画のアシスタントを辞めていないということだった。いちごちゃんはまだ、漫画を描いているということだった。


僕が佐藤さんを見つけた時のように、僕はいちごちゃんに釘付けになった。僕があまりにもいちごちゃんを見慣れすぎているせいだ。とても…とても遠いのに、行き交う人々がスローモーションのようになって、いちごちゃんだけが正しく時を刻んでいた。


"いちごちゃん!"


僕は久しぶりに、いちごちゃんに話しかける。


でも。

なんだろう、あれは?いちごちゃんのそばに。横暴な、血に飢えた野生の狂犬の、亡霊?


"いちごちゃん、変な子憑いているよ。ねえ、いちごちゃん…"


でもさ、その時思い出したんだ。


いちごちゃんだって、最初から変な子だったって。


______僕がいちごちゃんに出会う前、僕は部屋にこもって怠惰な生活を送っていた。かなり長い時間だ。時代がいくらか移り変わるくらいの。


首を吊る感覚。いつまで経っても僕の中から消えなかった。僕の人間が首を吊ったならば、その人間の全ての細胞を通して、僕にもその感覚が伝わってくる。苦しかった。こんなに苦しいのであれば、生きてちょっとずつずっと、ぢくぢく苦しい方がマシなのではないかと思うほどに。


だけどさ、僕の上司?みたいな人についに言われてしまったんだ。いい加減にしろ、と。

早く次に行け。仕方がないじゃないか。


確かにそうなんだ。例えば人間が大人になって仕事をしなければいけないのと同じように、僕らはまた何度だって人間にくっつかないといけないんだ。これは仕方のないことなんだ。




だから僕は次に生まれる魂?みたいなものたちを見ていた。影からそっと。

目が二重とか、運動神経が良いとか、数学が得意とか。みんなが好き勝手にカードを選んでいく中。

何度だって言う。いちごちゃんは変な子だった。だってあの子、臆病なんだもん。

「好きなもの:いちご」たったそれだけのカードを持ってみんなの後ろにいるんだもん。争奪戦に参加しないで、これでいい、って決め込んでいるんだもん。

もし、そんな君が、絵を描くのなら?


一体、どんな絵を描くのか見てみたかった。



でも僕はどうしても踏ん切りがつかなくって、どうしよう、どうしようと足踏みをしていた。でもあの子は、そんなのお構いなしに、たった1枚のカードで落下しようとしていた。生まれようとしていたんだよ。信じられる?


いちごちゃんが落下しようとしている時、咄嗟に僕は手を伸ばしていた。

"ねえ本当にそのカードだけなの?ねえ、それだけじゃ辛いよ、苦しいよ"


"すぐにまた、ここに戻ってきてしまうよ"


でも、いちごちゃんは振り向かない。そうするのが義務のようにすんなりと落下位置に立って。


"ちょっとまってよ、ねえ、そこの___いちご!!!"

僕はいちごちゃんのすぐ後に続いて落下したんだ。


何度も体験したことがあるけど、落下するのってとっても怖い。びゅうびゅうと下から風を受けて、とても綺麗なんだけど、ものすごい速さで。僕はそんな風の中で、いちごちゃんに手を伸ばして。僕の全ての力を振り絞って、ただいちごちゃんだけをみて、手を伸ばして。


僕がいちごちゃんに触れた時、あの子、ちょっと泣いた。ものすごい空気抵抗の中で、いちごちゃんの涙がポロポロと浮かんでいったんだ。やっぱり、怖かったんじゃん。ねえ、いちごちゃん。ばかだね。




"ばかだよ、本当に"


"いちごちゃんがカードを選ばないから、こんな場所に生まれちゃったんじゃないか"


ぐちゃぐちゃになった部屋の中でさ。横たわって動かないいちごちゃんに、僕は何度もそう思った。


いちごちゃんの家には、暴力と、借金と、酒とタバコと、ギャンブルがあった。

いちごちゃんのお父さんは、ひどい人だった。いちごちゃんのお母さんは、弱い人だった。


いちごちゃんはよく、押し入れに隠れたね。漫画を持ち込んで押し入れで読んだね。紙とペンを持ち込んで、押し入れで描いたね。それでも、酔っ払ったお父さんに簡単に見つけられてしまう。お腹を殴られ、いちごちゃんは動けなくなる。いつまでこんなことをしているんだ!って、いちごちゃんの大切な漫画をめちゃくちゃに投げられてしまう。いちごちゃんの絵をビリビリに破かれてしまう。


僕は何もできない。いちごちゃんのお父さんがどこかにいくまで、いちごちゃんと同じようにただじっと耐えるだけだ。



それでも。

いちごちゃんは起き上がって、千切られた紙切れをつなぎ合わせる。どこまで書いたかな、と回らない頭を必死に動かし考える。そうだ、主人公がかっこよく登場するシーンだ。


「ここで主人公が現れて、全部助けてくれるんだ…全部、全部、助けてくれるんだ」


いつも紙をピッタリと押さえつけ、右手をサポートするようにちょこまかと動き回る左手。大きな拳となって机の上に置かれ、動かない。どこまでも震えるペン先を強く紙に押し付けて、少しずつ、少しずつ、線を重ねていく。


"いちごちゃん、もうやめようよ。お腹、痛いでしょ。治療しようよ"


大粒の涙をこぼして、歯を食いしばり、息を震わせて。いちごちゃんは描き続ける。僕はそんないちごちゃんの服の裾をきゅっと握って、そばにいる。



僕はいちごちゃんを守りたかった。最初も今も、ずっと変わらず。

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