2
どこに行こうか迷っていたんだ。だっていちごちゃんはもうやらないって決めてしまったみたいだから。僕なんかいないほうがいいんだもの。街を彷徨った。ゾロゾロと行き交う人々を見て、誰のもとに行こうか考えていた。誰を信用するか、決めかねていた。
でも。
僕みたいな存在は、とても目立つのだ。人間がどんなに目を凝らしても見えない"もの"たち__もちろん中には見える人間もいるけれど__が、人間とともに移動しながら僕のことをチラチラと見た。何をしているのだろう。そういう目だ。
僕が人間にくっつかずにひとりで立っているということは、人間で言うなら全裸で街に立っているようなものだ。
恥ずかしい。恥ずかしいよ、いちごちゃん。
だから僕は、手っ取り早く相手を選ぶことにした。可愛い子についていくことにした。かっこわらい。
僕は出会ってしまったんだ。とんでもなく可愛い、清楚系のギャルに。
その子はバス停に立っていた。ヒールのあるブーツに、ミニスカートとオーバーサイズのジャケットを着て。
胸元で綺麗にクルクル巻かれた、柔らかく艶やかな茶髪______いちごちゃんのツンツンしたショートカットとは大違いだ______長いまつげがきっちり上に向いた、大きな目______いちごちゃんの目は奥に入り込んでギョロついていて、なんだか妖怪みたいなのに______サラサラとした白い陶器みたいな肌______いちごちゃんの肌はそばかすだらけである______そして細いのだけど柔らかそうな太ももと、大きめなおっぱいと。
いちごちゃんなんてさ、苺が好きすぎて、見た目まで苺みたいになってるんだもの。僕以外にいちごと命名されていないのが、奇跡なくらいに。
佐藤綾香。僕がいちごちゃんの次にくっついた人間はそんな名前だった。私立の文系大学に通う、2年生だ。
__________
例えるなら、いちごちゃんの毎日は漫画のようだった。白と黒。漫画とそれ以外。でも、佐藤さんの毎日は、とても色鮮やかで自由で。まるでカラフルな油絵のようだった。
大学に行く。たくさんの人と話す。講義の合間に学食に行ったり、カフェに行ったりする。大学が終われば、バイトに行ったり、友達と遊んだり、ショッピングに行ったり。カラオケに行って、居酒屋に行く。メンバーは毎回違う。男と仲良くなって、あんなことやこんなことをする。
大学がなければ、友達とドライブに行ったり、カフェに行ったり、飲みに行ったり。男とデートして、あんなことやこんなことをする。バイトがあっても、バイトの後に飲みに行く。そしてやっぱり、男とあんなことやこんなことをする!
佐藤さんにくっついて、1ヶ月が経過していた。僕は毎日、新鮮なことばかり。新しく知ることばかり。
大学生活ってこういうものなのかと、僕は学ぶ。大きな講義室、寝たり携帯をいじったり、コソコソ話したり、なんて自由なんだろう。たくさんの人がいる。ほんとうにたくさんの人が、自分の時間割に合わせて行動しながら、それぞれ寛いでいる。佐藤さんが1日で話す人間の数は、いちごちゃんが1年で話す人間の数を大きく超える。この人誰よ!あの人も知り合いなの?僕が追いきれない。
ねえ、いちごちゃん。あんな面白い見た目をしている人がいて、あんな変なニックネームの人もいて、あんな個性的なキャラの人もいるよ。漫画に使えるんじゃない?ねえ。
カラオケにも初めて行った。ドライブにも初めて行った。居酒屋でワイワイするのって何て楽しいんだろう。カフェでスイーツを食べるのってなんて癒されるんだろう。接客業のバイトってなんてかっこいいんだろう。
いちごちゃんも、もっと色々な場所で色々な経験を積んでいたら。描いているものが全然違ったんだろうな。もっと多様な見せ方ができたんじゃないかな。
そんな目まぐるしい毎日の中。僕が最も興味をそそられたのは、メイクだ。
メイクってさ。
顔全体にワッて何かをいくつか塗って粉を叩いたかと思えば、あとはもうちょこちょことした作業だけなのだけど。その工程はものすごく細かい。僕にはその作業をやる前とやる後で何が違うかさっぱり分からなくて、それいる?って思うことばかりなんだけど、全部が終わればすっぴんとはぜんっぜんちがくて。ものすごく可愛くなっていて。
すごい。メイクってアートだ。
なんて思った。
あとはスキンケアだ。いろいろな液体を何重にも重ねて塗って、黙ってじっとペタペタしている。液体にも順番があるみたいで、その秩序が美しいと思う。
いちごちゃんのスキンケアってほんとうに適当だったんだな〜〜って思ったよね。
いちごちゃん、たぶんいちごちゃんのスキンケアってスキンケアの入口にもたててないよ。
まあ、もう、いちごちゃんのことは、僕には関係ないんだけどね。
______
「最近、なんか勉強したくなるんだよね」
大学の講義中。頬杖をつき、ぼうっとしていた佐藤さんが、隣に座る友達にそう言うのを聞いたとき、違うよ、と僕は思った。
勉強じゃないよ。ペンを握りたいんだよ。
僕が佐藤さんにくっついて、3ヶ月が経過していた。
友達は顔を上げない。サクサクと携帯をいじりながら、ウケる、と答えた。
「じゃあトイックでも勉強すればいいんじゃない?どうせ私たち就職前に受けなきゃいけないんだし」
そんな友達の気の抜けた返事を、意外にも素直に受け止めたサトーさんは、その帰り道、早速本屋に向かっていた。
この本屋さんは。
いちごちゃんと何度も来たことがある。それなのに、別の女の子と歩くなんて、何だか浮気をしているみたい?もしかしたらいちごちゃんにも会うかもしれない…僕はサトーさんの影に隠れながら、一緒に中に進んだ。
「どれか一冊、好きなものを選んでね」
絵本コーナーのそばを通ったとき、女の子と母親の静かな声を聞いた。ふと目を向けると、女の子がずらりと並んだ絵本の背表紙を見上げていた。
「うん」
女の子の真剣な目が見える。柔らかく見開いて、中はぐっと奥深い。
……いちごちゃんも。
かつてのいちごちゃんも、そんな目をしていた。全部受け取りたい、全部知りたいって目をしていた。
懐かしいな。
あの、静かな息遣いも鮮明に聞こえる、いちごちゃんだけの世界の中。いちごちゃんは表紙に手をかけ、ページを開いたんだ。
______ゴミ捨て場の真ん中。ぽつんと置かれた漫画雑誌。スポットライトがかかっていたんだ。茹だるような暑さの晴天の下で。小さなステージの、たった1人の主役みたいに、スポットライトがかかっていたんだ。僕にはそう見えた。僕にそう見えたっていうことは、いちごちゃんにもそう見えたということだ。だから下校中の小さないちごちゃんは釘付けになった。キョロキョロと辺りを見渡し、誰もいないことを確認すると、ソレを抱えて走り出したんだ。力強く。
ぱちん。
ランドセルを投げ出したいちごちゃんが、逆光で薄暗い部屋の中、括られた紐をハサミで切り落としたとき、なんだかとても悪いことをしているみたいだった。
いや、実際に悪いことをしているんだけど、そんなんじゃなくて。
僕がいちごちゃんを操っていたから。あの瞬間は、間違いなく。僕が漫画を読みたくて、どうしても読みたくて、手を伸ばしていたから、いちごちゃんも手を伸ばさずにはいられなかったんだ。
この冊子に、心がくっついて離れない。どうしてこんなに求めてしまうのかわからない。こんな風に欲望に目をくらませて、突き進んでいってしまったら。もう戻れないってこと、わかっていたから。
とんでもないタブー。僕といちごちゃんはそれを犯す共犯者みたいだった。
いちごちゃんは一冊を手に取り、しばらく表紙を眺めていた。一瞬の静寂。僕もいちごちゃんのそばで一緒に。じっと表紙を。いちごちゃんの額から、一粒の汗がつうっと伝って、顎からぽろんと落ちていく。ごくりと唾を飲んで。
いちごちゃんがページを開いた、その瞬間に、いちごちゃんの世界の中心が決まったんだ。
週刊連載の漫画雑誌。加えて少年漫画全般。いちごちゃんはそれを読むためだったらなんだってした。地べたに顔をつけてお金を探したし、古本屋がどんなに遠くても歩いたし、ひどい言葉を言われても構わなかったし。
これは、恋だった。いちごちゃんの全身全霊の、恋だった。
そんな中、いちごちゃんがもっとも恋焦がれた場所。本屋さんの漫画コーナーだ。
あそこには最新の漫画が並んでいる。古本屋では見ることのできない、特に人気の漫画が、たくさん。
いちごちゃんは、何度も何度も本屋さんにいって、棚の隅から隅までの表紙を眺める。読みたい、欲しい。いちごちゃんの想いは、真剣な目からありありとわかったし、僕はいちごちゃんの中に存在するだけでお金を調達することができないのが何だか悔しく感じることもあったっけ。
だって時々、いちごちゃん、すごく切ない目をするんだもの。ワクワクして見始める。だけど買えない、という現実がいちごちゃんの頭をよぎるんだ。そんな時、いちごちゃんは本屋にいる他のお客さんの騒めきから切り離され、ひとりぼっちだった。顔を上げられないほど重く、ひとりぼっちだった。
結局、いちごちゃんが高校生になってバイトを始めるまで、本屋さんで漫画を買うことはできなかった。だからこそ、ある程度漫画を買えるようになった今でも、ここは特別な場所なんだ。
本屋さんの漫画コーナーに行こう。いちごちゃんはそう思うだけで、結構いろんなことをチャラにして来れた。
いちごちゃんの世界の中心は、僕にとっても世界の中心だったから。いちごちゃんの恋は、僕の恋でもあったから。だからもちろん、いちごちゃんの恋焦がれる場所は、僕にとっても恋焦がれる場所だった。
しかし。
そんな僕の恋焦がれる心を完全にスルーして、サトーさんは参考書コーナーに直行するのだった…。
いや、僕の気持ちに反応して、チラッと漫画コーナーを見てはいた。見てはいたんだけど、彼女は心の中でピシャリとこう言い放ったのだ。
漫画コーナーに行くなんてあり得ない。通りたくもない。オタクだと思われる。
なんだかちょっと、怖かったな。
______いちごちゃんと一緒にいろいろな漫画を見たけど、ギャルが性格良くていい子、なんて本当に漫画の中だけなんだなということを僕は知り始めていた。
どんなに読者に人気だってわかっていても、いちごちゃんが頑なにギャルを描かなかった理由がわかった。いちごちゃんは知っていたんだね。
でも彼女の毎日を見ていると、仕方がないような気もする。彼女は見た目に気を遣ってたくさん努力をしている。見た目に気を遣わない人とは、決定的に価値観が違うのだ。交わることは、分かりあうことは、難しいのかも。
彼女は地味な奴らを横目で見て、こう思うのだ。
見た目に気を遣って、センスの良い服装をして、明るく笑って、話がつまんなくなければ、誰だって一軍になれるのに。そんなに難しいことじゃないのに。何にも努力をしないで、僕なんかとか思って、いじけるみたいにグジグジしている。甘ったれてんじゃねーよ。自分で選んで進んでそっちにいっているくせに、被害者ヅラしてんじゃねーよ。大嫌いだ。
できない、じゃない、やるんだよ。やって失敗して、次はこうしようと対策を立てて、もう一回やる。人間関係にマニュアルはないし一筋縄じゃいかない。だからこそ何度も対策を立て直して、何度だってやる。そういうもんでしょ。なんで逃げてるんだよ。地味な奴は、よわいやつだ。
______
"絵を描こうよ"
真っ白な勉強机で、黙々と問題を解き続ける佐藤さんに僕は何度もそう話しかけた。時計が夜9時を知らせる。佐藤さんは置き時計をチラリと見ると、参考書をパタンと閉じた。消しカスをはらい、ノートを閉じようとする。
"絵を描こうよ"
僕の気持ちが通じたのか、その時の佐藤さんがあまりにも何も考えていなかったからか、佐藤さんはふいに、ちっちゃくイラストを描いた。かわいいクマのキャラクターだ。
佐藤さんのもともとの絵心はわからないけれど、もう、僕がいるから。佐藤さんは線を置く場所に迷うことはない。元からあるキャラクターを描くみたいに、サラサラと描いて、しばらく自分のイラストを眺めていた。
「あれ、なんか可愛くないか。センスあるんじゃないか」
"ねえ、絵を描こうよ。もっと、もっと"
今思えば、佐藤さんに僕の気持ちが通じたのは、本当に奇跡だったのかもしれない。その夜から、佐藤さんはタブレットとタッチペンでイラストを描き始める。(佐藤さんはデジタル派だった!)
僕が佐藤さんについて、4ヶ月が経過した時の出来事だった。
______
佐藤さんは、インスタグラマーと呼ばれる肩書きを持っていた。自撮りやファッション、カフェのスイーツ、コスメなど、様々な写真を毎日欠かさず投稿。佐藤さんのアカウントのフォロワーは驚くべきものだった。
簡単なイラストを描き始めて数週間後。佐藤さんはインスタグラムで、イラストを投稿するアカウントと出会う。
イラストを投稿することで、たくさんのアカウントがたくさんのフォロワーを集めていた。どれもまぁまぁな出来だ。上手いのかもしれない。
ちなみに、インスタグラムはいちごちゃんもやっていた。漫画を書いているのであれば、世の中の流れや流行を知っておくべきかもしれないってことで。でも結局いちごちゃんが見ていたのはインスタに投稿される漫画やイラストばっかりで、ほんとうに流行を終えていたのかは怪しいけど。
でもさ、いちごちゃんは。
「下手くそ…」
そんなこと言わなかったな。
こんなものが、人気なの?
そこで彼女は思いついたのだ。
本アカウントで案件をもらってお小遣いを稼いでいるけど、案件をたくさん受ければフォロワーは減るし、限界はある。だけどもう1つのアカウントでまた案件をもらえれば、2つのアカウントから収入が見込める。
「ラッキーだな、急に絵のセンスが開花して」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます