宝石箱

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宝石箱

 小学校の校門を出て多門院坂を下ると、深大寺の参道に出る。そこはいつもたくさんの参拝客がいて、雑多な人生が賑わっていた。当時の私の日課といえば、人々の中からたった一つの顔を見つけ出すことだった。


 その人はいつも学生服を着ていて、たいてい木漏れ日の下で本を読んでいるか、ぼんやりと参拝客を眺めていた。色が白く線の細いその様はまるで病人のようで、美少年と言っていいほどに整った顔立ちも相まって、見る人に薄幸を感じさせた。


 通学路でもあるその参道で、ある日私は彼の姿を見かけた。今にも縄で首をくくりかねない思いつめた顔をしていたので、ひどく驚いたのを覚えている。どうも彼は何かを真剣に思案している時にそういう顔をしていたように思う。

 翌日、また同じ場所で彼を見かけた。それからしばらくは見かけなかったが、学校帰りに寺の中を歩いていると延命観音近くの階段に座っているのを発見した。それ以来、私は放課後に彼の姿を探すようになった。


 まるでかくれんぼのように私は彼を探した。彼は毎日いたわけではなかったので、徒労に終わる日の方が多かった。出没する場所もまた、実に様々だった。参道にある茶屋の床几しょうぎに腰かけていることもあれば、本堂のムクロジの木の下で虚空を見つめていることもあった。ある時には植物公園のベンチに遠征していることもあり、実に油断ならなかった。


 何とか見つけ出しても、特に何かするわけでもなかった。ただ遠くから眺めるだけで満足だったのだ。馬鹿みたいと思われるかもしれないが、でもそれが楽しかった。


 彼の姿を見つけるたび、私の胸は高く弾んだ。鼓動が早くなり、頬が上気してしまう。どうしてそんなふうになってしまうのか、自分でも不思議だった。今では、それが初恋と呼ぶものであることは分かっている。でも、当時の私には、制服に身を包んだ彼の姿は大人びて見え、自分の想いを自覚するにはあまりにも遠すぎる存在だった。私にとって重要なことは、彼を見つけること。それだけだった。



「お母さん?」


 不意に呼びかけられ、私は現実に呼び戻される。声のした方を見ると、大きな瞳が食い入るように私を見つめていた。


「大丈夫? 気持ち悪くなっちゃった?」

 私の肩に手を置き、心配そうに娘は言った。


「ううん、平気。ほら、もう着くよ」


 私の言葉通り、バスは停留所で止まった。乗客の流れに乗って私たちは降りた。


 私は目をつむる。ザワザワと木々の葉が触れ合う音に身を抱かれ、水路のせせらぎが心を満たした。久しぶりに訪れた深大寺は私の心の隙間を埋めてくれ、母胎のような無上の安心を与えてくれた。私は両手で顔を覆うと、ほおっと深く息を吐いた。もっと早くここに来るべきだったのだ。


「お母さん、毎日ここに来てたんでしょ?」


 バスを下りた瞬間から漂う静謐な空気にすっかり魅了されてしまった娘は、目を爛々と輝かせ、ところ構わず夢中で写真を撮っている。


「この上に小学校があるからね」

「いいなあ。私もこんなところ通学路に欲しかった」


 純粋な気持ちを全力で体現する娘を見て、頬を緩める。中学生の彼女にとって出会う場所の全てが宝石なのだろう。私にだってそんな時代はあった。

 本堂へと歩く娘の後を追いながら、自分が無意識に人波へと目を向けていることに気がついた。思わず苦笑してしまう。まあ、仕方がない。私にとってこの場所こそが唯一残った宝石なのだから。



 中学生になると、以前ほど深大寺には行かなくなった。単純に通学路を外れてしまったからだったが、新しい学生生活が楽しくて仕方がなかったからでもあった。ただ、何かのたびに願掛けとして利用していたので、やはりそのたびに彼の姿を探した。私が歳をとった分、彼も成長していた。寺に古くから棲む精霊か何かなのではと内心期待していたのだが、残念ながら彼はしっかり人間だった。


 ある日、なかなか彼が見つからないことがあった。翌日に大事な試験をひかえていたので、私は必死だった。いつの間にか、彼の姿を見つけることは私のジンクスになっていた。どうしても見つからず、諦めて帰ろうと思った時、微かな嗚咽を耳にした。

 見つけた。彼は開山堂の隅で膝を抱えてうずくまっていた。私は社に身を隠し、しばらくその姿を見守っていた。


 彼は泣いていた。これまで彼が感情を表に出しているところなど目にしたことがなかったので、私は困惑した。当たり前だが、彼には彼の人生があるのだ。泣くことだってあるに決まってる。私は居た堪れなくなり、音を立てずにその場を離れた。

 なんだか彼の人生を踏みにじったような気がして、自分が情けなくなった。ジンクスになど利用するべきではなかったのだ。その日は眠れず、翌日の試験は悲惨な結果に終わったことを覚えている。


 その日以来、私は深大寺に近づかなくなってしまった。だから高校時代はまるまる深大寺の思い出が抜けている。彼に再び会うためには、三年以上の時間が必要だった。


 大学生になり、久しぶりに深大寺に行ってみると、旧友に再会したような懐かしい気持ちがした。自分が自然体でいられたことに、少しほっとした。彼の姿はどこにもなかった。考えてみれば、彼はもう就職しているはずで、平日の昼間にいるはずはなかった。でも、特に残念とは思わなかった。その時既に、私にとっての彼は追憶の中の住人になっていたのだろう。

 それからも、たまに深大寺に行くことはあったが、彼の姿を見かけることはなかった。もう引っ越してしまったのだろうと思っていたある日、彼を見かけた。


 久し振りに会った彼は、相変わらず肌の色こそ白かったが、もう病人のようには見えなかった。大人になったのだ。その整った顔立ちにはもう少年の面影は見られず、風に吹かれても倒れない一人の男になっていた。木漏れ日の下で読書をする彼に、私はよほど声をかけようかと思ったが、結局やめた。それでよかったのだ。遠くから眺めるだけで、私は満足だったから。



「げほげほ」


 本堂にある常香炉の煙を思い切り吸い込んで、娘はむせた。まるで昔の自分を見るようで、私は笑った。


 ムクロジの木には実がなっていた。その木陰でよく本を読んでいた男の子の姿を思い浮かべ、私は無性に切なくなった。誰にだってそういう時間があるものだ。心の奥深くに保管されてある、切り取られた過去の断片。穢れのない永久不可侵な拠り所。もうあの頃には戻れない――胸を締めつけずにはおかない美しい思い出……。


 写真を撮っていた娘が戻って来る。


「お母さん?」


 怪訝な顔でこちらをうかがう娘に、私は笑みを浮かべる。

「おそば、食べようか」



「君は故郷に忘れ物があるようだね」

 昔、会社の同僚にそう言われたことがある。


「何ですか、それ?」


「君の心の半分はここにあるけれど、もう半分はどこか別の場所にある。たいていの場合、それは故郷だ。昔の恋人をいつまでも引きずっているのさ。当たってる?」


 得意げに知ったようなことを言う男に、私は眉をひそめる。


「失礼じゃないですか、人の過去を詮索するような真似をして」


 私のきつい言葉を浴びた途端、男の余裕はなくなった。

「ご、ごめん。そんなつもりじゃないんだ。友人に同じこと言っていた奴がいてさ、真似してみただけだ。俺は君のそういうところ、良いと思うよ。本当だ」


「冗談ですよ」


 私は笑った。

 後の夫となる人と初めて食事をした夜だった。




「おいしい?」

「うん」


 娘は実においしそうに蕎麦をすすった。胃が無くなってからというもの、あまり何かを食べたいと積極的に思うことはなかったけれど、久しぶりにお腹が空いてしまった。少し分けてもらい、すする。

 一口食べると、懐かしい味がした。それとともに、頭の中に思い出が広がる。もう一口で、さらに広がる。それはまるで記憶を食べているかのようで。ついにはあふれ出してしまう。

 

 初めて蕎麦を食べた七五三の時、まだ彼に会う前だった。大学生になり友人と食べた時、確か合格のお礼参りだったはず。夫と二人で食べたあの時――、結婚の挨拶に実家を訪れた帰りだったっけ。


「ごちそうさま」


 娘は満足げに箸を置いた。この子もいずれ、人生のどこかでこの味を思い出すことがあるのだろうか? きっと、あるだろう。思春期の美しい一欠片として、彼女の宝石箱に保管されるはずだ。私は穏やかな気持ちで、今一度流れ行く人々の姿を眺める。


 そして、彼を見つけた。

 亀島弁財天池の傍のベンチに腰掛け、追憶のままにぼんやりと虚空を見つめていた。すっかり歳をとり、髪には白いものが混ざっていて、顏には深い皺が刻まれていた。時の流れは巨大な車輪を回す。誰に止めることができるだろう。


 私はじっと彼の姿を眺めていた。遠い昔の、あの頃のように。しばらくすると、彼の元に高校生くらいの男の子がやって来た。彼は優しい笑みをその子に向け、立ち上がる。こちらを向いた時、目が合った。


「ねえ、お母さん」

 その時、娘に呼びかけられた。「私もう少し見て回って来ていい?」


「ええ、もちろん」


 娘は駆け足で本堂の方へと行ってしまった。視線を戻すと、もうそこに彼の姿はなかった。また私の宝石箱の中に帰ったのだろう。恐らくはもう、二度と開けることのないその場所に。


 優しい風が頬を撫で、木々の葉を揺らす。澄んだ空気を胸の中深く吸い込んで、私はゆっくりと立ち上がった。

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