第3話

「あの教師、女子生徒に手ぇ出してたらしいよ」

悪しき言霊が、鐘田慧(カネダ アキラ)の脳味噌を、ひたすらに掻き回している。男の声か、女の声かも、思い出せない、思い出す余裕も、今の彼には皆無だ。

廊下がいつもより長く感じる。途中スリッパが抜け落ちそうになる。両の腕を、ただの飾りに見えてしまうくらいに、ぶらんぶらんと振り回して、一心不乱に廊下を駆ける。途中横切る他クラスの教室から、嫌な視線を感じるが、構わない、振り切る、今は、とにかく、早く、あの場所、へ向かわねば、ならない。あそこだ、あそこなら、大丈夫、大丈夫だ。


「みた?三島禍逗夫、死んだって。やばくね?」

ホームルーム開始より、5分程前。慧は、大して好きでもない本を読み耽っていた。

「体半分にされてるとかやばくねーか?」「殺したやつサイコパス?」「神社で見つかったってのもわけわかんねー」

どうでもいい。こいつらは、なにも知らなくていい。慧は、今開かれてる頁の文面を読み終えた、つもりになって、次の頁をめくる。

「あの神社こないだ遊んでたとこじゃん」「うわ」「生で見れたかもな、死体」「しばらく肉食えないらしーよ。生で見ると」「いやまじで無理。それは勘弁」

所詮は、暇潰しに吐き捨てているだけの、くだらない言葉。動ずることなど。が、神社で死体が発見されたということについては、慧自身も、不可解に感じていた。

奴が、三島禍逗夫が術を発動するには、神社という領域であることが必要条件なのだろうか。確かに、神の力が働くとされるあの場所ならば、必然性は窺える。

それでも、拭えぬ違和感はいくつかある。

ひとつは、死体の頭に、外傷があったこと。

母は、蟷螂の頭部への攻撃は、していなかった。ならばあの夜、別の誰かが、三島禍逗夫に接触していたのか。そいつが、三島禍逗夫の頭を。誰が、何故。

もうひとつは、上半身と下半身、それぞれの位置。

ニュースによれば、上半身は境内の中央付近に、下半身は社の中にて発見されたとあった。その距離およそ3m。正確な数字ではないが、慧もあの神社に赴いたことがある。だいたいの数字を割り出すのは容易であった。およそ3m。他者の手によって、上半身もしくは下半身、ないしどちらともを、それぞれの位置へと運んだのか。誰が、何の為に。

まさか、母が放った"念"により身体を真っ二つにされた後でもなお、三島禍逗夫には息があったのか。そして、上半身だけで社の中から、ずるずる、ずるずると這い出て、ずるずる、ずるずるとこちらへ向かって、ずるずる、ずるずると、あいつら、許さねえ、殺してやる、と呪詛を吐きながら、ずるずる、ずるずると、上半身の断面からはみ出た、異常に大きい蚯蚓、を思わせるような、真っ赤な真っ赤なハラワタを引きずりながら、ずるずる、ずるずる、ずるずる、ずるずる、ずるずるずる、ずるずるずるずる、ずるずるずるずるずるずる、ずずっ……

頭の中だけで響いていたはずの音が、実際に鼓膜を揺らしたことに驚き、思わず、慧が振り向く。隣席に座ってた男子生徒が、カップラーメンを喰らっていた。汁を飛び散らしてすすった麺を、汚らしく、粘り気のある音を立てながら咀嚼し、机に置いてあった炭酸飲料でそれを流し込み、虚ろな表情で、げっぷを放つ。

あからさまに不快さを宿した目で、慧はそれを見ていた。無論、見ているのがバレると少々面倒な為、見るともなく見る、という形を取って。

すぐに、本に視線を戻す。どこまで読んでいたかわからなくなり、仕方なくまたアタマから読み始める。適当に文を目で追っている内に、隣席の男子生徒に触発されてしまったのか、カップラーメンをかっ喰らいたいという欲が徐々に生まれてきた。日頃口にしている母の手料理の方が、よっぽど美味しいし、なにより健康的だ。しかし時折、身体を壊さんとする勢いで、カップラーメンや、ハンバーガー、牛丼、すなわち、美味い・早い・安いの三拍子が揃った粗悪な食い物を貪り食う、という衝動が精神を揺さぶるのだ。まさに今、その衝動が慧の理性を打ち壊そうと、暴れ回る。

欲望や衝動は目に見えないから厄介だ。いっそ喉奥に指を突っ込んで、吐瀉物の如く、身体から排除できたらいいものだが。欲望や衝動には、通用しない。そんなことはわかっている。

慧は、なんとか気を紛らわそうと、意味もろくに理解しないまま、並べられた活字をなぞることだけに神経を集中させる。活字の海に揺られて、酔いそうになる。胃が刺激されてるから、尚のことだ。嗚呼、自分がもっと、没頭してしまえるくらいに読書を愛せたらよかったのに、と、己の感性を悔やんでいると、何気なく、本文に書かれてある台詞が、目に留まる。

『知らなきゃ知らないで、いいものを』

どういうことだ、と考える間も与えずに、その文字が、百足のように、蠢きはじめた。

それに動揺してしまい、慧の神経集中は、ぷつんと途切れ、喧騒の群れの中から、悪しき言霊が一匹、慧の精神の隙間に、素早く、入り込んで来た。

「あの教師、女子生徒に手ぇ出してたらしいよ」

ザザーーーーーッ、と、慧の脳内に、ノイズが走る。今朝、鐘田家の居間にある、あの黒い機械物が見せてきた、おぞましい映像が、鮮明に蘇る。汗水垂らしたアイドルたち、眩い笑みを浮かべ、マイクに向かって和気藹々とアナウンサーの質問に応える、その声が、顔が、身体が、歪み、砕け、やがて、形を変えて、それが、銀縁眼鏡を掛け、少し痩せこけた顔をした中年男性へと、変貌し、こちらを、睨んでいる。

さらにそれを強く、強く睨み返す少女が、慧の視界に映っている。妹の、桜だ。あの時の、桜の瞳が宿していた、どす黒い闇は、忘れたくても、忘れられない。怒りと憎悪が、渦巻いていた、どす黒い闇。

三島禍逗夫は、群青第二中学の教員。群青第二中学は、鐘田桜が通っている学校だ。

「あの教師、女子生徒に手ぇ出してたらしいよ」

馬鹿な。まさか。そんなこと。考えたくもない。まずい。この精神状態は非常にまずい。一刻も早く、回避しなければ。弱みにつけこむ悪霊は、この世に無数存在する。このままでは、鐘田慧は、やられる。 

「あの教師、女子生徒に手ぇ出してたらしいよ」

こいつを、こいつを倒さねば、ならない。

椅子が後ろへ押し出され、乱雑に床を滑る。けたたましく響いたその音が喧騒を破り、教室中の生徒たちが、気持ち悪いくらい一斉に慧の方へ首を向けた。慧の顔は、蒼ざめていた。

「え、なに」

誰かが、乾いた笑い声と共に、そう漏らす。凍てついた空気。ずいぶん、見慣れたものだ。

慧は、教室から飛び出た。ホームルームを始めようと、扉を開けて入ってきた教師など、眼中になかったようだ。


ようやく目的の場所へと辿り着けた慧は、そのまま一番奥の個室へ駆け込み、扉を閉めて、鍵をかける。

狭い空間にいくつも書き殴られた薄っぺらな落書きに見守られながら、慧は、便器を前に、二本指を耳の中に突っ込み、ぼそぼそっ、と呪詛を呟く。

慧の目や鼻、口から、黄色く濁った液体が、溢れ出てきた。慧は、片手で器をつくり、それを受け止める。

液体が、うぞうぞと固まり、形を成してゆく。それは、人間の胎児に近しい、が、あきらかにそうではない醜い姿をし、甲高い声で、ひたすらに繰り返す。

「あの教師。女子生徒に手ぇ出してたらしいよ」

慧の脳内を掻き乱していたそいつの名は、言霊。

すぐさま、慧がもう片方の手で印を結び、先ほどとは異なる呪詛を呟くと、言霊は、奇声を発して、息絶えた。

慧は、掌の上でくたばるそいつを、ポイと、便器の中に捨て入れ、便器横のレバーを下げる。

ジャーーーーー、と、水の流れる音が、慧の荒んだ精神を、少しずつ、少しずつ、治癒していく。

治癒が全神経に行き渡らぬうちに、誰かがドアを叩いた。

「おーい鐘田。大丈夫か」

聴き覚えのある、やわらかい、男の声。

「急にどっか行っちゃうから先生びっくりしちゃったよ」

間違いない。慧のクラスを担当する教師だ。普段はおちゃらけて、かつ授業は退屈せず、わかりやすい。典型的な、生徒人気を得る教師だ。

慧も、彼のことは嫌いじゃなかった。嫌いじゃない、はずだ。なのに、慧は、一向にドアの鍵を外そうとはしない。

「腹痛か?保健室行くか?先生の授業なら全然サボっていいからな」

相も変わらぬ冗談を聞いても、慧は、ドアを一点に見据えるばかりだ。

「おい返事くらいしろよ鐘田ー。何も音は聞こえないけど、大丈夫か?生きてる?」

軽々しく生死を問うのも、彼なりの冗談か。

「生きてる?なあ鐘田。生きてる?おまえ、生きてる?死んでる?死んでるの?え、生きてるの?どっち?ねえねえ。生きてる?死んでる?生きてる?死んでる?死にたい?生きたい?死にたい?生きたい?死にたい?死にたい?死にたいよなあ。死にたいよなあ、そりゃ。だっておまえ友達いねーし嫌われてるし別に本読むの好きじゃねーのに一人でいられる理由作ろうと必死だし誰かに声かけられるのずっと馬鹿みたいに待ってんのにだーれもひとつも声なんてかけてくれやしねーしそんなのわかりきってんのにおまえのクソつまんねえ日々は全然変わらねーしだっておまえ無理だよその感じじゃそりゃ嫌われるってでもおまえ変わるのももっと無理じゃんどーすんのこの先?生きる意味あんの?たのしい?ねえたのしいの?たのしくねーよなあ?ならどうすんの」

聞き馴染みのある、やわらかい男の声は、すでに、醜く歪み切っていた。ドアの向こうにいるのが、自分を心配して様子を見にきた教師ではない、それどころか、人間ではないことくらい、慧には分かっていた。逃げ場をなくし、便器の上で震えることしか、慧にはできなかった。

「おまえ、いらないんだよ。死ねよ」

黙れ、と、慧が、ヨダレを撒き散らして、激しい怒号を放つ。すると、ドアの向こうのそいつは、一瞬にして静まった。

が、それは、たったわずかなことだった。

「死ねよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

低い唸り声で叫び、キイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイと、そいつは、ドアを爪で引っ掻きはじめる。

慧は、目や鼻や口から垂れた体液を、拭うことすら忘れて、ぐちゃぐちゃになっている顔を、歪ませ、歯をくいしばり、呼吸を乱し、今にも壊されそうなドアから、視線を、外せぬまま、必死に、手探りでレバーの位置を確かめ、何度も、何度も、レバーを下ろして、トイレの水を流した。何度も、何度も。

今まで慧を助けてきたはずのあの音は、微塵も役に立たずに、虚しく、穴へ吸い込まれてゆくばかりであった。


半端な田舎街なら、必ずひとつはあるであろう中型のショッピングモール。その地下一階に、すっかり寂れたゲームセンターがあった。そこは単なる、不良や半グレの溜まり場と化していた。

今日も今日とて、社会を放棄し、朝っぱらから遊び呆ける馬鹿がいる。

その馬鹿は、小振りな丸椅子に、どかっと腰掛け、黒地に金色ラインが引かれたジャージをだらしなく羽織り、半分灰と化した煙草を咥えて、ガチャガチャガチャガチャと、アーケードスティックを乱暴に操作している。その馬鹿の眼前には、道着を着た男と、軍服姿の美女があらゆる技を繰り出し合って格闘する光景が広がっている。

薄暗い空間の中、画面からビカビカ放たれる眩い光は、確実に、最低限人間が持つべき視る力を、奪ってゆく。それを覚悟の上、この馬鹿は、目ん玉をひん剥き、自分が操作する道着の男を敗北させまいと、ボタンを連打する。馬鹿は苛立ちを隠ずにいた。どうやら、相手は強敵らしい。

「クソが」

忌まわしい煙と共に、暴言を吐き捨て、スティックを操作していた手を離し、口元の煙草へその手を運ぶ。

馬鹿は、ヤニをしっかり味わうようにして、煙を肺に溜めこみ、その煙を、ふうっ、と、画面に向かって吐き出し、呪詛を呟いた。

画面に異変が起きる。そこにいなかったはずの、無数の触手を生やした、異形の魔物が、画面上端から姿を現し、軍服の美女を触手で捕らえ、肉付きの良い身体に気持ち悪く触手を絡め、そのまま、無惨に、身体を引き裂き、殺した。格闘ゲームにはあるまじき描写が、画面いっぱいに広がっていた。

馬鹿は、手を叩いて、腹立たしく笑う。俺の勝ちだ、ザマぁみろボケが、と、暴言と煙を吐き出し、ゲラゲラ笑う。

笑い声が止むか止まぬかの狭間で、馬鹿は、向かい側に座っていたはずの学ラン姿の少年が、いつの間にか自分の傍らに立ち尽くしていることに、気が付く。

瞬間、馬鹿の頭は、ゲーム画面を突き破り、筐体の中へブチ込まれた。

火花が散り、煙が上がる。馬鹿の頭を鷲掴みにしている少年の手から、血が滴り落ちる。

乱れた金色の髪からのぞく、鋭い眼光が、馬鹿を見下ろした。

「てめえイカサマしてたろ。舐めんじゃねえぞ」

少年の頭の中で、『YOU WIN!!!』と、発音の悪い男の声が、派手に響いた。

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