夏雪草(メドウスイート)

 屋敷の一室で、老婆が揺り椅子に揺られていた。明かりを消した暗い部屋の中で、窓から外の景色を見つめている。


「ステラ様?」


 がちゃり、と音がしてドアが開く。ドアを開いたのは老婆が世話役に雇っている、マリィという名前の年若いメイドだった。窓辺に佇む姿を認めると気遣わしげに老婆へ歩み寄る。


「どうなされたんですか、ステラ様。そんなところで、明かりも付けないで」

「今日は、星がとても綺麗なの。ほら、見てごらんなさい」


 ステラと呼ばれた老婆は、そう言って再び窓の外を見やる。無言で外を見つめるステラにつられるように、マリィは窓の外を見つめた。郊外に建てられた屋敷の周りは、閑散として明かりに乏しい。目が慣れるに従い、雲ひとつない夜空に輝く満天の星空が見てとれるようになった。


「もうお休みになりませんと。こんな所に座っていては、お身体に障りますよ」

「あら。今日はとても身体の調子がいいのよ。もう少しこのまま、星を見ていたいわ」

「ですが……」


 自分の身を案じるマリィを宥めるように、ステラは穏やかに笑いながら小首を傾げる。その様はまるで、小さな少女のよう。レンズ越しに見つめる鳶色の眼が不安げに揺れる。やがて根負けしたように小さくため息をつき、マリィは言った。


「……わかりました。満足したら、きちんと床について休んでくださいね」

「ええ、わかっているわ」

「では、わたしはこれで。……どうか、くれぐれもご自愛くださいませ」

「おやすみ、マリィ」

「はい。おやすみなさいませ、ステラ様」


 深々とお辞儀をすると、マリィは部屋を出ていった。

 遠ざかっていく気配を見送ると、ステラは傍らに置かれたアルバムを手に取った。アルバムを開き、収められた写真を愛おしそうに指でなぞる。


 ステラはかつて、帝都で名を馳せる偉大な歌姫だった。

 アルバムの中に映っているのは、劇場で切磋琢磨を重ね合った戦友たちの姿。ページをめくると、そこには可愛くも頼もしい後輩たちが。さらにページをめくると、我が子のように愛おしい教え子たちの姿があった。

 過ぎ去った日々に思いを馳せる。歌と共に過ごした、宝物のようにきらきらした日々。けれど、今ではそれも遠い昔のこと。アルバムの中に映る人々の中には、すでにこの世にいない者もいた。志半ばにして斃れた人。与えられた天寿を全うして逝った人。その結末は、人それぞれだ。


 ふと、アルバムをめくるステラの手が止まる。そこに写っているのは、まだ年若い頃の自分の姿。写真の中に写る女性は苦笑いを浮かべる男の腕に、嬉しそうにじゃれついていた。


「ノクス……」


 ステラはそっと男の名前を呟く。彼は絵描きを志す青年であり、かつての自分の恋人であった。


 帝都へやって来て、まだ間もない頃のこと。自分を売り出すため躍起になっていたステラは、同じように夢を追いかけるノクスと知り会った。道は違えど、夢を抱くもの同士。意気投合した二人は惹かれ合い、共に過ごすようになった。夢を語り合い、お互いに手を取りあいながら、二人は共に歩んでいった。

 そんなある日、ステラは所属している劇団の団長からオーディションの誘いを受ける。帝国劇場でのオーディション。欠員を埋めるための補充要員に過ぎなかったが、彼女にとっては千載一遇のチャンスといえた。

 オーディションの日は彼女の誕生日で、恋人と共にそれを祝う予定だった。ステラはノクスとの約束を破り……その結果として、トップの座を射止めることができた。


 ステラは自分の選択を後悔しなかった。……少なくとも、後ろを振り向くことはしなかった。何かを掴むということは、何かを捨てるということ。全てを手にするには、人生はあまりにも短すぎる。ノクスに別れを告げたステラは、自らを奮い立たせるように仕事へと没頭していった。


 ノクスと別れ――彼がパトロンとなった貴族の娘と結ばれた後も、二人の交流は続いた。毎年、誕生日になると彼は決まって、楽屋に花を届けてくれたのだ。

 夏雪草メドウスイートの鉢植え。楚々として儚い佇まいの白い花は、ステラの誕生花だった。

 その真意について何度か尋ねてみたことがある。もしかすると、あの日の遠回しな意趣返しなのだろうか。そう、冗談めかして聞いたこともあった。しかし、ノクスは人懐っこい鳶色の瞳を細めると、照れ臭そうに苦笑いを浮かべて答えをはぐらかすのだった。


 そんなノクスも数年前に死病を患い、あっけなく逝ってしまった。結局のところ、質問の答えは聞けず仕舞い。気づけば毎年贈られる花に背中を押されているような、そんな気がしていた。ノクスが亡くなって間もなく、ステラは帝国劇場からの引退を表明した。


 アルバムを閉じ、ステラはそっと瞑目する。歌と共に過ごした、宝物のようにきらきらした日々。彼女は終生独身を貫いたが、その人生は決して孤独なものではなかった。

 部屋の窓から再び空を見上げる。雲ひとつない夜空に輝く満天の星空。大きな星、小さな星。力強い光、儚げな光。数多に輝く星々の光に、自分たちを重ねてそっと呟く。


「今日は本当に、星が綺麗」


 その日の夜、夜空から大きな流れ星が一つ、落ちていった。

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掌編集 古代かなた @ancient_katana

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