深夜の赤提灯

「あー……やっと、終わったぁ……」


 深夜のオフィスに、男の呻き声がこだました。部屋の電灯はすでに消え、PCのモニターが放つ光だけが、青白く、薄汚れた男の顔を映しだしていた。伸びをすると、全身の骨という骨がごきり、ごきり、と音を立てる。

 このところ、激務が続いていた。納期を控えて深夜残業が続いている。男の担当範囲はその中でも特に苛烈を極め、仕事が日付が変わるまでかかるのもこれが初めてではない。


「……帰ろ帰ろ」


 男はため息をつくと、PCのメニューを開いてシャットダウンを選択した。“シャットダウンしています……”のメッセージが出てる間に、コートを着込んで帰り支度を整えていく。

 オフィスを出た男はスマホを開き、時刻を確認する。2:13。この時間ではもう、電車すら動いていない。


「駅前のカプセルでひと眠りして……明日はまた仕事かぁ。あー、嫌だ嫌だ。考えると鬱になってくる」


 男は思考を振り払うように、頭をぶんぶんと振った。


「……とりあえず、飯にするか」


 夕食どころか、昼食もまともに摂っておらず、空腹は限界に達していた。とはいえ、こんな時間ではまともな食事屋はおろか、居酒屋やラーメン屋が開いているかすら疑わしい。道中にある、24時間営業の牛丼屋で侘しく済ませるしかないか……と、歩き始めたその時である。


「お……?」


 男はふと目をやった路地裏に、ぼんやりと光るものを見つけた。赤く光る何かに目をこらすと、それはどうやら提灯のようだった。ここからはよく見えないが、赤提灯といえば居酒屋か屋台と相場が決まっている。


「……牛丼食べるよりは、いいもの食べられるかな」


 閉まってたら駅前にでも戻ればいい。ダメで元々とばかりに、男は路地裏に光る赤提灯に向けて、ふらふらと歩き始めた。


 ぼんやり光る赤提灯は、木枠の屋根が取り付けられた台車にぶら下がっていた。簡素なカウンターの向こうに備え付けられた四角いおでん鍋からは、暖かそうな白い湯気がもうもうと上がっていた。


「まだ、やってるかい?」


 おでん鍋の前に座る店主に声をかけると、店主は男を一瞥してこくり、と頷いた。愛想のない、陰気な老人である。

 鍋からは出汁のいい匂いが漂っていた。空きっ腹が反応し、急速に悲鳴をあげ始める。


「じゃあ、とりあえずビールと牛すじ。あとは……大根ちょうだい」

「あいよ」


 老人は短く答え、後ろのクーラーボックスからビール瓶を取りだす。無造作に瓶を置き、脇のカゴから取りだしたグラスと栓抜きを男に渡した。

 男は瓶の蓋を開けると、生暖かいグラスにビールを手酌で注ぎ込んだ。半ば泡で埋まったグラスの中身を乱暴に煽ると、それなりに冷えたビールが喉を通りすぎていく。


「うあー……うめー……」


 一杯目を堪能している間に、店主が鍋からあげたおでんをこちらに寄越す。男は湯気をあげる牛すじの串を指でつまみ、横からかぶりついた。


「お、美味い」


 煮込まれた牛すじの肉は、よくほぐれていた。鼻の奥を突き抜けていく牛脂の風味を堪能しながら、グラスのビールを流し込む。


「はー……こいつはいいわ」


 思っていた以上に当たりの店だった。気をよくした男は、牛すじをたいらげると箸立てに突っ込まれた割り箸を手に取り、ぱきっと割った。

 出汁で真っ茶色に染まった大根に箸を突き立て、ぱっくりと切り分ける。四等分に切り分けた大根を口に運ぶと、よく染みた出汁と大根の水分が、じゅわっと溢れだす。


「ビール、ビールっと」


 空になったグラスにビールを注ぎ込み、ぐっと流し込む。ひと息に飲み干し、もう一杯注ぎ込むと、瓶の中身はあっさりとなくなった。


「おっちゃん、ビールと……厚揚げ。あと、こんにゃくと、卵」

「あいよ」


 明日も仕事だが、構うものか。せっかくだし、もう一杯飲んでいくとしよう。

 残った大根をちびちびとつまみながら、ビールを飲んで次の注文を待つ。大根を食べきる頃には、代えのビールと次の皿が男の前に届いていた。


 おでんの味は概ね満足だった。どれも味が浸み込み、絶品といっていい出来だ。これならまた今度、落ち着いて飲みにくるのもいいかもしれない。


「あー……食った、食った」


 おでんで満たされた腹をさすり、男は呟く。空きっ腹に流し込んだビールで、男はいい感じのほろ酔いになっていた。まだ飲み食いをしていたいが、明日も仕事だ。勘定を支払おうと男は懐をまさぐり、そして青ざめる。


「うわ……マジか」


 手に取った財布の中身がやけに軽い。中を見ると、そこには五円玉が六枚。


「あー……おっちゃん、ごめん。勘定なんだけど」


 隠していてもしょうがないので、男は素直に店主に打ち明ける。


「財布の中身がこんなんで。いや、下ろせばあるんだよ。絶対持ってくるから、今日のところは勘弁してもらえないかな」


 両手を合わせ、男は老人に平謝りする。老人は男が差し出した五円玉を手に取ると、


「いえ、これでいいですよ」


と答えた。


「えっ? いやいや、流石にそれはないでしょ」

「お代は、これで結構です」

「や……でもなぁ……」


 老人の真意がわからず、男は戸惑う。

 しかし、持ち合わせがないのは事実である。男は根負けし、老人の言葉に頷いた。


「あー、うん、わかった。今日はほんとにごめん。明日、お金下ろして持ってくるから。ほんと、ほんとにごめんなさい」


 男は老人にぺこぺこと謝ると、鞄を持って席を立つ。


「ごちそうさま。すごく美味しかったよ。また来るから」

「……まいどあり」


 それにしても、美味いおでんだった。男はそう独りごちる。

 お代も結局払わずじまいだし、今度、日を改めて行かないと。そういえば、いつもあそこで営業してるのか聞き忘れてた。なにはともあれ、今日は寝るとしよう。明日も仕事だし……。


 ほろ酔いの頭でとりとめなく考えながら、男は路地裏の奥へと消えていった。


 翌日のこと。


 男はオフィスの自席で冷たくなっているのを、清掃業者のスタッフに発見された。

 死因は心臓発作。度重なる過重労働による、過労死だった。

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