『彼女』との出会い

 男は話し終えると、緩やかな動作でコーヒーに口をつけた。


 にわかには信じられない話だった。男はかなり落ち着きはらっていて、とてもじゃないが過去に人を殺めた人間には見えなかった。


「これが私の身の上話です。あなたに最後まで聞いていただけて、私は嬉しいです」

「……何故僕にこんな話をしたんですか?」

 僕は声を少し震わせながら、最初に思った疑問を男にぶつけた。


「……君には証人になって欲しかったのかもしれません」

「証人?」

「夕子が私のものになったという事実を知っているのはこの世界で私だけです。それは少し寂しい。今日、たまたま出会った君にも知ってもらうことで、それが私の妄想ではない、真実なのだという証明になるような気がしましてね」

 柔和な笑みを湛えながら、男は僕を見て言った。


 僕には男の言っていることが理解できなかった。自分の犯した罪をまるでトロフィーのように他人に見せつけ、それを喜んでいる。

 男の考えを全て理解できるようになってしまったら、男の心に横たわる、どこまでも暗く深い沼に引きずり込まれてしまうような気がしてならなかった。


「……僕があなたのことを通報するかもしれませんよ」

 僕は内心の恐れを男に悟られないよう、つとめて冷静に質問した。

「それは大丈夫です。第一に君は私の素性を知らないでしょうし、こんな話を警察にしたところで誰も信じませんからね」

 男は自信たっぷりに言った。


「そういえば君、全然紅茶を飲んでないじゃないですか。冷めてしまいますよ」

 男はそう言って僕の紅茶のカップを指さした。僕は男に言われるがままに、すっかり冷めてしまった紅茶に口をつけ、とんでもない休日になってしまったな、と思いを巡らしていた。

 

 それから暫くして、僕はその男と別れた。別れ際に男は、「せっかくだから可愛い夕子を見てやってください」と、夕子――いや、かつて夕子だった物があるという店の住所を書いた紙を僕に渡してきた。


 僕は今さっき起きたことを頭の中で反芻しながら、夕子を見に行くかどうかを逡巡していた。

 あの男の言っていたことが全て嘘だったとすれば、あの男は誇大妄想癖の持ち主だったということで話はつく。

 しかし、もしも男の言っていたことが全て本当であるとするなら……


 男の話が真実か否か確かめたい。そんな好奇心がいつしか僕の心を支配していたのだった。


 僕はゆっくりと、夕子がいるかもしれない店へと向かった。

 店は薄汚れた雑居ビルの四階にあった。狭い階段を上った先にあったのは、雑居ビルには似つかわしくない、木製の重厚な扉だった。


 僕は恐る恐るその扉を開け、店の中に入った。

 中に入ってから、店内の様子に僕はかなり驚いた。店内はアンティークな雰囲気が醸し出されていたのだった。 傘に薔薇の刺繍があるランプや、ふちに美しい装飾が施された鏡、白磁の花瓶などの調度品は、どれも上品で深みのあるデザインで統一されている。


 寂れたビルの外観からは到底想像できないほど、店の中は優雅で落ち着いた雰囲気であったことから、僕は驚きと共に、別世界へと迷い込んでしまったかのような感覚を味わっていた。

 ダークブラウンの木棚には箱詰めされた小さいドールが並び、四十センチほどの丈がある少し大きめのドールはテーブルに乗ったミニチュアのソファに腰掛けられていた。

 奥の方には、等身大のドールも数体並んでいて、一つ一つの人形ごとにガラス壁で仕切られたショーケースに飾られていた。 その中でもひと際精巧な人形があった。


 その人形は、深紅のカバーがされた丸椅子に行儀よく腰掛けていた。

 百四十センチぐらいの背丈を、レースやフリルをふんだんにあしらった、可憐なワンピースで包んでいる。 膝丈ほどの長さのそれは白を基調としており、裾がふんわりと広がっているのが可愛らしい。


 頭はワンピースとお揃いの白いヘッドドレスで飾られていて、髪の黒とフリルの白とのコントラストが美しかった。


 胸まで伸びた黒髪はさらさらと体に流れている。肌は透き通るように白く、陶器のようだ。こちらをまっすぐに見つめる大きな目はガラスなのか、光沢感のある茶色の瞳がキラキラと照明を反射していた。


 それはあまりにも美しい、少女の人形だった。

 髪も服も、寸分の隙もなく整えられ、この少女の端正な容姿をさらに華やかにしていた。この人形の持ち主は、本当にこの人形に手を掛け、愛を注いでいることがよくわかった。


 まじまじと観察していると、半袖から伸びた細い腕に自然と目が行った。


 この人形には、他のドールと違って肘の球体関節がなかった。その腕には、全体を覆うように薄い産毛が生えていた。手の甲には血管が青黒く透けている。


白く細い指先はまっすぐに伸びており、爪は紫色に変色していた。それらの特徴が、彼女がかつて生きた人間であったことを主張するかのようであった。


 どきり。心臓が飛び跳ねた。僕は震えながら後ずさる。 『彼女』が本物の人間だった証拠に気づいてしまい、全身の皮膚が粟立つのを感じた。


震えを押さえつけるように自分の体を抱き、ふらつきながら店の出口へと向かった。 とにかくこの場から早く離れてしまいたかった。


 店を出ると、日は暮れかけていた。 僕は足早に駅に向かったが、その道中では今日出会ったあの男の話と、男の店で出会った『彼女』のことで頭がいっぱいだった。そのせいか、街中ですれ違う人々が何人もいたはずなのに、なぜかここには僕一人しかいないように感じ、言いようのない孤独感で胸がいっぱいだった。


 あんなことは早く忘れてしまいたいはずなのに、忘れようとすればするほど、脳裏には『彼女』の端正な容貌と作り物のような肌の生白さが鮮明に蘇るのだ。おぞましい男の執着とともに。


 あの男は話の中で、愛する人から拒絶されることが恐ろしくてしょうがないと言っていた。その気持ちは僕も分かる。 僕も異性にノーを突き付けられたことはこれまでに何度もあり、そのたびに深く傷付いてきた。 今日だって、秋山さんに嘘をつかれて食事の誘いを断られてかなり落ち込んだ。


 だが、男の話に一部共感していることを認めてしまうと、僕の中にもあの男のような狂気が息を潜めているのかもしれない、ということまでもを認めてしまうような気がするのだ。 だから認めたくない。


  いっそ、全く共感できない理由で罪を犯していた方が、あの男は自分とは全く異なる思考回路を持った、理解の出来ないモンスターのように思えて、安心できたかもしれない。


 僕はあいつとは違う。 違うはずだ。


 あの男は、『彼女』を手に入れるために超えてはいけない一線を越えてしまった。己の欲望のままに、本当に夕子を殺してしまったのだ。彼女の魂を奪い、自分を拒むことのできない人形にするために。それで夕子を、いや美奈子を自分の物にしたと錯覚しているだけじゃないか。あまりにも独りよがりで、自分勝手だ。


 だが、それをあの男に指摘するものは誰も現れないだろう。これからも男は自身の狂った独占欲を心に飼いながら、一人で生きていくのだ。

 僕は空を見上げた。夕焼け空は血のように赤い。うろこ雲は鮮やかに照らされ、陰影が濃く現れていた。空に広がる鮮烈な赤は不気味なまでに美しく、僕の心を無性にかき乱した。

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人形 ないちち @naititi

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