エレベーター

ひとつ はじめ

第1話にして最終話

連日の深夜までの残業で疲れきって自宅のある中野のマンションに着いたのが午前0時。


若い単身者が多いマンションなのでこの時間でもたまに住人と顔を合わせる事があるが、今日はエントランスに人影は無い。


郵便受けを覗くとエステや塾、墓の販売のビラが無造作に押し込まれていた。


それを掻き出し、簡易廃棄BOXに投げ込む。

掲示板には、定期清掃の予定や非常時の避難場所までの地図がここに越してきてからずっと貼ってある。


運動の為五階まで階段で上る事もあるが流石に今日は早く部屋で眠りたい。迷わずエレベーターの上ボタンを押す。


エレベーター内は蛍光灯の明かりがチカチカと点滅し交換を促している。

管理人が常駐していないのでいつになるかわからない。最近はこのせいでこの狭い箱の中は不快だ。


二階、三階、四階、上昇につれ扉上部のフロアサインの明かりも右に移動していく。


窓から五階の通路の天井が見えてきた。やっと着いた。


なにか黒い影が、ある?


すこし上がる。


人が、いる?


また少し上がる。


ゾクッ、背筋の中、背骨のあたりに冷たいものが流れるような感覚に問わられる。


あと数センチで到着。着いてほしくない。何?誰?


到着。まだ扉はあいていない。


窓から五階が見え始めてからわずか三秒あまり。


そこには黒いナイロン製のパーカーを頭から被った無精髭の男が立っていた。


パーカーは濡れているのか、通路の青白い光をぬらぬらと反射させていた。


扉が開くのを止められないかと閉まるボタンを押したり六階のボタンを押したりしてみるがどれも無理だ。


そして扉が開く。


万が一にも住人だった場合に失礼なので軽くお辞儀をしてその男を右によけ、抜けてエレベーターを出る。


体中の神経が体の左に集中していた。そのせいか左手が砂鉄のような匂いを感じた。口にも釘を舐めたような鉄の味が広がった。


実際にはその男が全身から放つ臭気が鼻から入ったのだが、頭が回っていなかった。


ひっと息を止めて横を過ぎる。その刹那、



「五〇六号室ですか…」



そう聞こえた。


私の部屋の番号だった。


えっと思ったが“はい”も“いいえ”も答えられずすれ違った。


怖くなり部屋と逆の方向に向かい、非常階段を目指す。


エレベーターの閉じる音、駆動音が聞こえる。


降りたようだ。




いやまて、さっき私は六階のボタンを押さなかったか?



すると、階段の上の非常扉がギィィィとなった。


深夜零時、誰が非常階段を出てくるというのだ。



急いで通路を戻り、部屋に向かう。



『お前のせいだ 許さない』『呪、殺、死』


どす黒い赤で扉に殴り書きされていた。



ヒッ、息を呑み「ウワァァ」と声が漏れる。


他の部屋は寝ているのか無関心なのか、誰も出てこない。


気づくと男の気配は消えていた。


その場で警察に電話し、朝まで警察署で休ませてもらった。


防犯カメラには黒いフードの男が映ってはいたが、各階には設置されていないため誰が書いたかわからなかった。


だれでもいい。すぐにでもこの家から出たかった。




翌日の朝、一番近くの不動産屋に飛び込み、即日越せる家に移った。


その不動産屋に聞いたところ、何人か前の住人がいざこざを起こしていたらしいが、その当時の事はよく分からないとの事だ。



数日後に警察から電話があり、あらましは説明された。


不動産屋が言っていたとおり、五年前の住人が人妻に手を出して相手の夫が妻に手を上げ実刑になっていたらしい。


その男が出所後、当時の不倫相手の家、つまり私の家に乗り込んで来たらしい。


不倫相手は当然男だと思って来たので、女の私は対象では無いと判断して去っていったとの事だった。






私はこの家が好きだった。大好きな人との思い出が沢山詰まったこのマンションが好きだった。


だから前の恋人と別れて一度は引っ越したけれども、同じマンションに戻ってきたのだった。


当時と同じ五〇六号室が空いていたのでつい戻ってしまったのだった。不動産サイトで空室を見つけた時は歓喜したものだ。


私が彼女と不倫していた訳ではない。愛していたのだ。

そんな想いを警察は知る由もない。



次は上の階にしよう、眺めがよさそうだ。

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