不健康な愛を貴女に

海沈生物

第1話

 日常を惰性で生きることは、緩やかな自殺である。煙草や酒に依存すれば、肺や肝臓をやられる。毎日カップラーメンだけを食べていれば、いずれ生活習慣病になる。甘い物ばかりを食べていれば、いずれ糖尿病になる。


 不健康な人間は、理解した上で緩やかな自殺をしている。不健康なモノを食べることで、日常を惰性でしか生きることができない自分の姿から目を逸らしている。


 この理論に沿って考えると、私は大好き彼女に不健康なモノを与えている私は、毎日、少しずつ、緩やかな自殺に追いやっていることになるだろう。


「……コトネ。カップラーメン、机の上に置いておくからね」


 付き合ったばかりの頃、二人で一緒に買った革張りの安価なソファー。かつては二人で身体を寄せ合い、笑い合い、身体を重ねあったのに。そこを一人で占拠しているのは、ただの肉塊と化した彼女だった。


 就活先でブラック企業を引いた彼女は、三年目に鬱病を発症して、会社を辞めてしまった。たまたまホワイト企業を引けた私は変わらず仕事を続けられているので、生活には問題ない。週三のパートでもしてくれたのなら、私はそれで良かった。


 しかし、一度落ちた人間が元通りに這い上がることは難しかった。人間は不可逆的な生き物であり、一度変化してしまえば、人はもう元に戻ることはできない。かつてのように明るい笑顔を浮かべていた彼女は、どこにもいなくなった。


 そこにいるのは不健康なモノしか食べられなくなってしまった、わがままで感情的な、まるで「怪物」みたいな肉塊になってしまった。私はかつてカーペットに染み付いた醤油の染みを見ながら、鉛のように重い溜息をつく。


 この染みは付き合ったばかりの頃、新品のカーペットに誤って私がこぼしてしまったものだった。あの頃の彼女は、笑いながら「大丈夫、大丈夫!」とオドオドする私の身体を抱きしめ、頬にキスをしてくれた。それなのに、今は。


 …………もういっそ、彼女と別れてしまおうか。私と彼女は婚姻関係というわけではない。ただの同棲関係でしかない。彼女の緩やかな自殺になど、付き合ってあげる義理はない。義理など、ないのだ。私はいつでも、彼女を捨てる権利がある。


「……ねぇ、コトネ」


 コトネは被っていた布団から黒い二つ目を出す。美容院にもいかず、肩まで伸びきった髪。かつては艶のあったはずなのに、今では枝毛しかなかった。


「……ねぇ、コトネ」


 コトネは私の言葉に応えない。「いただきます」もせず、私が作ったカップラーメンにがっついている。ズルズル、ズルズルという音は、まるで怪物が獲物を喰らっている時の音のように聞こえた。


「……ねぇ」


 コトネの手が止まる。彼女はカップラーメンから顔を上げると、私を睨み付ける。


「捨てなよ」


「……えっ?」


「捨てたいのなら、捨てたらいいじゃない! 分かっているんでしょ? 私はもうただのお荷物なんだって! 私は貴女に愛を与えることはできない。貴女からの愛を一方的に貪るだけの、ただの怪物なんだって。だから——————捨てなよ。このままだと、貴女は私のせいで破滅するっ! 貴女の綺麗な人生が、私のせいでダメになる……なってしまうんだよぉ!」


 彼女がテーブルを「ダンッ!」と叩くと、その振動でテーブルにあったカップラーメンが倒れる。かつてカーペットの醬油の染みがあった場所に、重なるようにして、カップラーメンの汁が垂れる。


 私は彼女の手を振り払うと、急いでカーペットを布巾ふきんで拭いた。彼女はその場でオドオドと自責するばかりで、動くことはなかった。その姿を少しウザったるく思ったが、口に出すことはなかった。


 なんとか拭き終えると、私はまだオドオドとしている彼女を見る。かつての彼女であるのなら、こんなことはなかった。むしろ失敗した私をギュッと抱きしめて、頬にキスをしてくれたのに。


「……ねぇ、コトネ」


 コトネはまだオドオドしている。私はその姿に溜息をつく。ウザい。心底ウザい。彼女は最早、ただのウザい人間でしかない。かつての彼女はもう、そこにはない。私はもう、彼女を捨て、別れるべきなのだろう。


 ……それなのに。それなのに。それなのに。私は彼女を愛することをやめることができなかった。不健康なものばかり食べる、不健康な彼女カイブツを捨てることができなかった。これが不健康な関係であると理解しているのに、彼女を捨てることができなかった。私は彼女への依存をやめることができなかった。


「…………大好きだよ、コトネ」


 私はオドオドしている彼女をギュッと抱きしめると、頬にキスをした。

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