第8話 月夜の下では

 パンとスープを部屋に運ぶと、エリオは体を起こして待っていた。


 その顔には、もう涙の跡はなかった。


 私が席を外している間に、自らを落ち着かせたようだ。


「熱いから気を付けてね。他に何か必要なものはない?」


 トレーごと渡すと、それをエリオは膝の上に置いた。


「いえ、大丈夫です。ニナさん。夜遅くまで、ありがとうございます。これをいただいたら、僕もまた休みますので、ニナさんは先に休んでください。貴女が体調を悪くしないか心配です」


「心配してくれてありがとう。私は健康が取り柄だから。でも、じゃあ、そろそろ休むね。食器はまた朝になったら取りに来るから、ゆっくり休んで。おやすみなさい、エリオ」


「おやすみなさい」


 一人にして大丈夫なのかと気にはなったけど、私がいつまでもいたら休めないだろうからと、最後に室内に不足のものがないかを確認してから退室した。


 自分の部屋に戻るまでに、何度かエリオの部屋を振り返った。


 もちろん、どう過ごしているのか知ることなんかできなかったのだけど。


 エリオが気がかりではあっても、私はそれからしっかり休んで、日が昇ってから再びエリオの元へ向かった。


 今朝のエリオは、少しだけ疲れの取れた顔をしていた。


 あの後どれだけ眠れたのかはわからないけど、多少の休息は得られたようだ。


「おはよう、エリオ。朝食を食べ終えたらしたいことがあるのだけど、少しだけ時間いいかな?」


「おはようございます、ニナさん。はい。僕は構いません」


 私に微笑んでくれたエリオは、テレーズさんが用意してくれた朝食を残さず食べてくれた。


 食事を口にしてくれるのは安心する。


 朝食の後片付けが終わると、まずは洗面用具をサイドテーブルに広げた。


 顔を洗ってもらったりと、朝の身だしなみを整えて、許可を得られた範囲でエリオの体も拭いて着替えも行ってもらった。


 これで、少しはさっぱりしたはずだ。


 残すは、顔を隠している長い髪の毛。


「エリオは、最後に髪を切ったのはいつ?」


「半年以上前にはなるかと……覚えていません……」


 そうだろうねと思いながら、ハサミを握った。


「ニナさん?」


 エリオの視線は私の手元に向いている。


「洗面器持っててくれる?大丈夫。前髪を少し切るだけだから。切ってもいいかな?」


「はい。お願いします」


 エリオの脚の上に洗面器を置くと、慎重に鋏を入れていく。


 伸ばし放題で放置されていてもサラサラしている髪が切り落とされると、今まで見えにくかった素顔が顕になった。


「ほら、どうかな?少しスッキリしたよね。後ろの髪は専門の人に切ってもらったほうがいいけど、縛ったらいいかも。綺麗で珍しい髪だから、このまま伸ばすのもいいかもね」


 綺麗な薄紫色の瞳が真っ直ぐに私に向けられて、ちゃんと表情が見えて安心する。


「今まで、髪を長く伸ばしたことはなかったです」


「じゃあ、今が人生で一番長い髪の時期なんだね」


「はい。そうみたいです」


 私が笑いかけると、エリオも微笑を浮かべて応えてはくれた。


 エリオの傷は、とてもじゃないけど、すぐに自立した日常生活を送らせることはできない。


 しばらくは安静にと、テレーズさんも言った。


 少しでも快適に過ごせるようにと気を付けてはみても、ずっと部屋で一人で過ごさなければならない上に、訳アリのエリオから一時でも目を離すのは不安が付き纏った。


 その不安が現実のものとなったのは、夜になって、寝る前にエリオの様子を確認しに部屋に行った時だった。


 室内に誰もいなくて、どれだけ焦ったことか。


 がらんとした部屋に不安を抱く。


 まさか、一人でどこかへ行ってしまったのかと思って慌てて外に出ると、宿の物干場で佇むエリオの姿を見つけた。


 月を見上げている姿は、そのまま闇夜に溶けて消えてしまいそうなほどに儚げに見えた。


「エリオ。一人で黙っていなくなったから探したよ。ケガは?痛まない?」


 たまらず声をかけた。


「ニナさん」


 振り返ったエリオの表情に、特に変わった様子はなかった。


「月が綺麗だったので、外に出て眺めたくなりました。心配をおかけして申し訳ありません」


 昼間と同じようにわずかに微笑まれると、私も肩の力を抜いた。


「ううん。部屋にこもりっぱなしだから、外の空気を吸いたくなるよね。エリオが平気ならいいのだけど、もしよかったら、今度は私にも声をかけてくれたら嬉しいかな」


「はい。そうしますね」


 そこで、腹部を押さえているエリオの腕を見て気付いたことがあった。


 袖に茶色のシミが残っているのが見えた。


 おそらく、茶色のシミは血液によるものだ。


「服が汚れてしまっているね。包帯を交換した時かな。部屋に戻って着替える?清潔なものを着てもらいたいから」


「いえ、これはこのままでいいですよ。ニナさんの手を煩わせるつもりはありません」


「エリオがいいのなら……じゃあ、そろそろ部屋に戻ろうか。夜風は傷に響くだろうから。今度、天気の良い日に、また外に出よう。私も、綺麗な場所を探しておくよ」


「はい。ありがとうございます」


 エリオがゆっくりとした動きで建物の方へと歩き出したから、背中を支えて付き添った。


「戦争は、終わるはずでした……」


 その途中で、ポツリと言葉がこぼれた。


「そうなの?」


「二度、停戦となったのです」


 そう言えば、お兄ちゃんの手紙にもそんなことが書いてあったかな。


 でも、ほとんど休まる時間はなかったって。


「それを阻んだ……」


 お兄ちゃんのことを考えていたら、エリオの口から呟かれた最後の言葉は聞き取れずに、階段に続く暗闇の中に溶けて消えてしまっていた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

侯爵夫人は逃げ出した〜戦死した兄への償いと言われて結婚したはずだったのに介護で酷使される過労死寸前の日々が待っていた〜 奏千歌 @omoteneko999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ